大切な子供
「信じてくれ。必ず、継承第一位を取り戻す。いずれ俺が皇帝となった暁には、アルテミスが正当に扱われるよう、然るべき地位を与えるつもりだ」
「わかり、ましたから……」
強く握られた手を気まずげに見つめるユミルに気づき、カリストは慌てて手を離した。
「す、すまない」
「いえ、あの、そろそろアルテミス様が目を覚ます頃なので……」
「あ、あぁ……ひどいのか? 重い風邪でないといいが……」
「お疲れが出たのでしょう。我々も準備で慌ただしかったですし。出立の際にはカリスト様にご挨拶いたしますから」
「わかった、今日は失礼しよう。必要なものがあれば遠慮なく知らせてくれ」
「かしこまりました」
帰っていくカリストを見送り、ユミルは足早にアルテミスの部屋へと向かった。
アルテミスは熱を出すとよく眠り、汗をたくさんかいて回復する。目が覚めたら水を飲ませ、体を拭いて、新しい寝間着に着替えさせてやらなければならない。
あれこれ考えながら先を急ぐユミルだったが、廊下の角を曲がったところで、棒立ちしていた普段着姿のウィリアムとぶつかりそうになった。
「うわっ、ウィリアム様!?すみません」
「いや、俺のほうこそ、すまない」
突然のことで驚くユミルに対し、ウィリアムは四方八方に目を泳がせながら気まずそうに頭をかいた。
「カリスト様が来ていたのか?」
「えぇ、アルテミス様にお会いされたかったようですが、お引き取りいただきました」
「本当に、それだけか……?」
「えっ?」
「い、いや、なんでもない。馬の様子を見てくる」
「はい、よろしくお願いします。僕はアルテミス様のお部屋に行きます。そろそろ目を覚まされる頃ですので」
ウィリアムはどこか物言いたげな様子だったが、ユミルはあえて気付かないふりをした。とかく人間は些細なことで悩み、かと思えば驚くほどあっさり吹っ切れる不思議な生き物なのだ。
それよりもアルテミスだ。
寝室の扉を開くと、ちょうど目を擦るアルテミスと目が合った
「……ユミル、おはよう」
「おはようございます、アルテミス様。ご気分はいかがですか?」
「のど、かわいた……」
「いっぱい汗をかきましたからね。お水がいいですか?」
「うん……」
ユミルがよく冷えた水を杯に注ぎ渡してやると、アルテミスはのどを鳴らして一気に飲み干した。
「だれか来てたの?」
「えぇ、カリスト様が」
「カリスト兄さま?」
「お休み中でしたのでお帰りいただきましたが、またお越しになるようですよ」
「そうなんだ」
帰ったと聞いて一瞬悲しそうな顔をしたアルテミスは、すぐに安心したように微笑んだ。
これがあるから、カリストを邪険に扱えないのだ。カリストが頻繁に訪れるようになってからというもの、アルテミスが皇室の厄介ごとに引き込まれることが増え、ユミルとしては正直迷惑だったが。彼の存在がアルテミスの孤独を癒すのなら、排除はできない。
「お腹すいた」
「素晴らしいことです。お食事をお持ちしますね」
厨房ではローゼマリーが昼食の仕込みをしていたはずだ。山鳥が柔らかくなるよう、早朝からずっと煮込み続けていると言っていた。
立ち上がったユミルの姿を見て、アルテミスがふと首を傾げた。
「ユミルのお洋服、お母さまに似てる」
「え? あぁ、アナスタシア様の肖像画ですね」
ユミルは壁に飾られた肖像画をちらりと見上げながら苦笑した。
アルテミスが生まれるよりも昔、皇室に嫁いだばかりの頃を描かれた絵姿は、今のユミルくらいの年頃か。病弱ゆえに色が白く、今にも折れてしまいそうなほど華奢に見えたが、深い藍色の瞳は理知的で穏やかに微笑んでいた。
本宮から移されるとき、アナスタシアの遺品は離宮への持ち出しを許されなかった。しかしアリスがどうかこれだけはと頭を下げ、許可を得たアナスタシアの肖像画だけが、アルテミスの知る母の姿であった。
離宮の家具や調度品は持ち出せないが、あの肖像画だけは必ず持っていくつもりだった。
「アルテミス様! そろそろ腹の虫が鳴る頃合いの気がして持ってきたよ!」
階下からどたどたと音がしたかと思うと、喜色満面のローゼマリーが盆を抱えて飛び込んできた。
「熱は下がったのかい? 朝より顔色はずっといいね。ほら、好物の山鳥のスープだよ! 栄養満点、滋養強壮! これさえ食べれば元気になること間違いなしさ!」
鼻先に差し出された碗から、ふわりと湯気が立ちのぼり、香ばしい匂いが広がると、アルテミスの腹がきゅうと鳴った。
「えへへ、お腹がなったよ」
「そうですね」
恥ずかしそうに笑うアルテミスに、ユミルは優しく言った。
「お食事をなさって、ゆっくりお休みになってください。なにもご心配はいりません。どこであろうと――アルテミス様の毎日は、僕がお守りしますからね」
「うん、ありがとう。ユミル、いただきます」
匙ですくうと、肉の塊がやわらかくほどけた。湯気の立つスープにふうふうと息をかけながら、アルテミスは美味しそうに頬張った。
食欲が戻ったのは本当のようで、少し熱そうにしながらも夢中で食べている。
血色の戻った頬をそっと撫でてやると、アルテミスはくすぐったそうに肩をすくめ、へへっと照れくさそうに笑った。
その無邪気な笑顔を見つめながら、ユミルは静かに息を吐いた。
――この笑顔を守るためなら、どんな場所へ行こうとも構わない。
たとえ北の果てでも、どんな運命が待っていようとも。
この小さな子供のためなら、ユミルは命さえ惜しくなかった。




