逃げなさい
ついにアルテミスの審理が始まった。
ヴァルキラは軽やかに宙を蹴るようにしてアルテミスの眼前へ舞い降りると、炎を揺らしながらアルテミスの顔をぐっと覗き込んだ。
「なんだかフェインたちの様子がおかしいわ。理由、知ってる?」
「……ううん、わからない」
アルテミスが小さく首を振ると、ヴァルキラは低く唸るように息を吐いた。
「なんだかきな臭いわ。あなたみたいな小さな子供が参加するのも前例がないことだし……。とにかく、儀式を終わらせなくちゃね」
そう言うと、ヴァルキラはアルテミスの胸元に下げられた金冠草の種に、ぱちりと小さな火花を吹きかけた。アルテミスの種が淡く光を帯びひび割れ、そこから緑の芽がすっと伸びあがった。
アルテミスの顔の前で、淡い光を帯びてふるりと震える瑞々しい新芽を見つめながら、ヴァルキラは小さく鼻を鳴らし、苦笑した。
「あなたは、とても異質だった。歴代の皇子たちのように勇敢な答えを期待していたのに。戦いに勝つことより、戦いを避ける努力を選ぶなんて。でも……間違いとも思えないのよね」
炎を宿した尾が、ゆらりと大きく弧を描く。
「あなたは……優しい。その優しさが弱さにならなければいいけど」
ヴァルキラは一瞬だけ真顔になり、それからにっと獅子らしく笑った。
「信じてるわ、アルテミス。あなたは臆病者じゃない、誰かを守るために立ち向かう勇気がある。たとえ精霊王に選ばれていなくても、わたしは同じ選択をしたでしょうね」
「ありがとう、ヴァルキラ」
ヴァルキラが炎の杯のもとへ戻ると、席ではらはらと見守っていたアリスが、ようやく大きく息をついた。
「よかった……、あと二回、最低一回でも良い評価を貰えば最下位にはならないってことですよね」
「……えぇ、きっと大丈夫です」
ユミルはそう答えながらも、じっとフェインを見据えていた。
私の寵愛を受けることに執心していたフェインにとって、精霊王の加護を受けたアルテミスは、祝福すべき存在であるはずだ。ユミルも当然そう読んでいたのだろう。
だが、そうはならなかった。
前に進み出たフェインは、アルテミスの顔を見ようともしていなかった。杖を握る手が、かすかに震えている。
「……フェイン? どうしたの、大丈夫?」
アルテミスが心配そうに声をかけると、フェインは大きく身を震わせた。
「ぼ、僕は……君のことを……み、認められない」
「えっ?」
アルテミスが目を見開くより早く、ヴァルキラが牙をむいた。
「フェイン!? あんた、どういうつもり!?」
「う、うるさい! うるさいっ!」
フェインは頭を抱え、その場に膝をついた。
「あぁっ……お許しください、バーティミアス様……お許しください……っ!」
取り乱す精霊の姿に、貴族たちがざわめき始める。ささやきが波のように広がり、空気が不穏に揺れた。
「せ、精霊よ、鎮まりたまえ……!」
老魔法士が慌てて制するが、フェインは涙に濡れた瞳で睨みつけた。
「黙れっ!! 愚かな人間が!! こ、こんなことはじめから間違っていたんだ……! 偉大なる精霊王様の御意志を蔑ろにする儀式など、無意味にも程がある!」
「なっ、なんということを……!」
顔を青ざめさせた老魔法士を鋭く睨みつけると、フェインは震える手で胸元を押さえ、宙に向かって縋るように両手を合わせた。
「あぁっ精霊王様……!! あなたのフェインを、どうか見捨てないで……! 忠誠は、あの頃のまま、かけらも失ってはおりませんっ!」
「ええい、とち狂った精霊め!」
老魔法士が陣を強制的に閉じると、フェインの身体は光に包まれ、霧のようにかき消えた。
かすかな啜り泣きだけが、広間に残響を残して消えていく。
「……フェインは、一体どうしたのでしょうか? あの気取り屋が、あんなに取り乱すのは初めて見ました」
「さぁな……幻惑の術をかけられた様子でもなかったが」
フェインほどの強力な精霊を混迷させるほどの力を持つ者が、この場にいるとも思えない。それに奴の言動は錯乱してはいたが、理を失っていたわけではなかった。
「まぁ、あれは昔から肝心なところで脆いところがありましたからね。幼稚な癇癪でも起こしたんでしょう」
「かもしれんな」
私が淡々とうなずくと、ユミルは鼻で小さく笑った。
「まったく、あれで“バーティミアス様の側近に最も相応しいのは自分だ”などと、何度も喧嘩を売ってきたのですから。心底あきれました」
そして、静かに視線をセリオスへ向ける。
「その点、セリオスは安心ですね。あの方はいつだって公正ですから。セリオスが適正と判じれば、アルテミス様もカリスト様と同じ順位です。正妃の息子と並ぶのであれば、今までのように瑣末な扱いを受けることもなくなるでしょう。とうとう、アルテミス様が正当に評価される日が来るのです。もう離宮で肩身の狭い思いをしなくても良くなりますね」
そう言ってユミルは、いたく満足げに微笑み、胸の前でそっと手を組んだ。
なるほど、あれほど熱心に我が身を捧げてまでアルテミスが勝利するよう手をまわしたのは、アルテミスの立場そのものを押し上げたかったのか。
「まさか末席の皇子が種を割るとは……一体どうなるんだ」
「カリスト様と並ぶのではないか……?」
広間の貴族達も同じことを思ったのか、ざわざわと落ち着かない様子で囁き合う。
静けさが戻った頃、ゆっくりとセリオスが前へ進み出た。広間中の人間たちが固唾を呑んで見守るなか、セリオスは重たい口を開いた。
「わしは……アルテミス・アストラニア皇子を――認めぬ。弱く、幼く、世の理を知らぬ。大地の精霊王の名において、皇子の不適格を宣言する!」
その言葉と同時に、アルテミスの眼前で先ほど芽吹いた金冠草の若芽が、みるみるうちに萎れ、黒く枯れ落ちた。
「……は?」
呆然とするユミルが立ちあがろうとするよりもはやく、ヴァルキラの咆哮が広間にこだました。炎が一気に燃え上がり、広間の天井を焦がしかねないほどの熱が渦巻く。
「あんたまでどうしちゃったわけ!?セリオス!! とうとう耄碌したの!? 自分が何を言っているのかわかっている!?」
「も、もう儀式は終わりじゃ……!! 陣を閉じよ……!」
セリオスが叫ぶと同時に、足元の魔法陣が黒煙を上げ始めた。老魔法士が慌てて封印の呪を唱え、陣を強制停止させる。
焦げた瘴気のようなひどい匂いが広間を満たし、貴族たちは悲鳴を上げながら後ずさりし、裾を踏んで転びそうになりながら出口へと殺到した。
その混乱の最中――セリオスが、よろめきながらアルテミスの衣を掴み、顔を近づけ、ひそめた声で囁いた。
「すまない、アルテミス……! だが、お前さんはここにいてはならん。信頼できる者たちを連れて、どこか遠くへ逃げるのじゃ」
「セリオス……どうして……?」
アルテミスが戸惑いに目を見開いた瞬間、セリオスの下半身に黒い炎が灯り、じわじわと燃え広がった。
「セリオス……!? 火が……!!」
「精霊王様に伝えるのじゃ……真珠は盗まれた。滅びの時が近い……」
黒炎は羊の毛並みを焼き焦がし、やがて腹部へと這い上がる。喉元まで炎が達し、角の先端が赤く灼ける。金色の瞳が揺らぎながらも、なおアルテミスを見据えていた。
声はかすれ、身体は灰へと崩れ始めている。それでも、最後の力を振り絞るようにアルテミスの肩を掴み、強く言い聞かせた。
「アルテミス……ここにいてはならん。お前はまだ幼い……やり直せる。皇位を捨て、平穏に生きるのじゃ……」
「セリオス!」
叫びとともに、セリオスの全身が黒炎に包まれ、次の瞬間、灰と光の粒子となって音もなく崩れ落ちた。
残されたのは、焦げ跡と、重苦しい沈黙だけだった。
お読みいただきありがとうございました。第3部「追放された皇子」は完結です。第4部「ニセモノ家族」は2月中に開始予定です。




