ユミルの正体
「それでは――精霊王様の最良の部下にして、賢王ラインハルトに仕えし精霊フェインが汝に問う。
『汝が、もっとも恐れるものは何だ?』」
フェインの問いに、アルテミスはしばらく黙り込み、考え込むように視線を落としたが、やがてあっさりと顔を上げた。
「……ぼくは、嵐の夜がこわいです」
「な、なんだって?」
「つよい風が吹くと、離宮のかべが軋む音がして、ぜんぶ壊れて飛んでいってしまいそうだからです」
「……そ、そうか。それはなんとも……い、いや、なんでもない」
大人顔負けの才能に満ちた返答を期待していたのであろう。アルテミスの肩透かしなほど幼い答えに、フェインは一瞬、虚を突かれたように目を見開いたが、すぐに用意していた笑みを貼りつけ、芝居がかった拍手を打った。
「なんと素晴らしい! いかにも歴史に名を残す名君の感性だ。君のような魂の擁立に立ち会えたことを、光栄に思うよ」
フェインは立ち上がり、壁に向かって杖をひと振りした。歪んだ幾何学模様が音もなく動き、石壁の一部が割れ、次の間へ通じる扉が姿を現した。
「次の精霊はセリオスという翁だ。長く生きているだけあって、小手先の誤魔化しは通じないが……君ならきっと大丈夫さ」
「ありがとう、フェイン」
「礼には及ばないよ。それより――精霊王さまは、僕のことを何か言っていたかい?」
アルテミスが小さく首を振ると、フェインは残念そうに肩をすくめた。
「まあ、いいさ。では、精霊王さまにお会いすることがあれば伝えてくれるかい?僕の“働き”が、実に忠実であったことをね」
「わかりました」
アルテミスが礼儀正しくうなずくと、フェインは満足げに目を細めた。
「先に進むといい、小さな皇子。幸運を祈っているよ」
その言葉を背に受けながら歩き出したとき、アルテミスはふと、自分がまだフェインに名を名乗っていないことに気づいた。
けれど、フェインもまたそれを問わなかったことを思い出し、そのまま次の扉へと足を進めた。
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重い扉を押し開け、一歩足を踏み出した瞬間、空気ががらりと変わった。
そこは深い森の中であった。
頭上には木々の枝葉が幾重にも重なり、柔らかな木漏れ日が地面にまだらな光を落としている。足元には苔むした土と落ち葉が広がり、遠くで水のせせらぎが微かに聞こえてくる。先ほどまでの人工的な甘い香と石の冷気に包まれた儀式の空間が嘘のようだ。
アルテミスが戸惑いながら周囲を見回していると、ぱたぱたと羽音がして、一羽の小さな鳥が目の前に舞い降りた。灰色がかった羽を持つその鳥は、くりんとした黒い瞳でアルテミスを見上げると、まるで「ついてきなさい」とでも言うように、軽やかに飛び立った。
「……案内してくれるの?」
問いかけに答えるように、鳥は一度だけさえずり、ゆっくりと森の奥へ進んでいった。
アルテミスは迷いながらも、その後を追って歩き出した。しばらく進むと、木立の間がひらけ、小さな空き地に出た。
そこには、丸太と土壁で作られた、質素な小屋がぽつんと建っていた。鳥は小屋の前でひと鳴きすると、屋根の梁にとまり、じっとこちらを見下ろした。アルテミスは小さく息を吸い、恐る恐る小屋の扉を叩いた。
「ほっほ、よう来たね。待っておったよ」
穏やかな声と共に扉が開き、中から羊の頭をもつ老人が現れた。
白く柔らかな毛並みに覆われた顔は年輪を刻んだ古木のように落ち着いており、金色の瞳は静かな湖面のように澄んでいる。角は大きく弧を描き、長い時を生きてきたことを物語っている。
粗末だが清潔な衣をまとい、手には古い木製の杖を携えている。その佇まいには威圧感はなく、むしろ森そのものが人の形を取ったかのような、静かな存在感があった。
セリオスはアルテミスを見上げ、嬉しそうに目を細めて微笑んだ。
「アルテミス皇子、話はすべて聞いておったよ。ヴァルキラは相変わらずじゃな。わしは耳が少々よくてね。フェインに嘘を言ったのは、わざとかい?」
アルテミスは、ばつが悪そうに視線を落とし、もじもじと指先を絡めた。
「ごめんなさい……。ウソをつくのは悪いことだって分かってるけど、なんとなく、あの人には本当のことを言っちゃいけない気がして……」
「うむ、それでよい」
セリオスは穏やかにうなずいた。
「賢い子じゃ。フェインはあれで、歴代の皇帝たちの弱みを握って操りたがる悪癖があるからの。幼いながらも、それに気付いたのは立派じゃよ」
そう言うと、小屋の扉の隙間から、ちょろりと一匹のリスが顔を出した。
リスはセリオスの足元まで駆け寄り、前脚で抱えた香草の束を差し出す。セリオスはそれを受け取り、よしよしと小さな頭を撫でた。
「お茶はいかがかね。喉が渇いていればじゃが」
「いただきます」
先ほど飲んだ甘い茶が喉の奥に張りつくような心地がしていたので、アルテミスはほっと息をついて微笑んだ。
セリオスの淹れた茶は、すっと鼻を抜ける爽やかな香りがして、以前ひどい風邪をひいたときにユミルが淹れてくれたものと、よく似ていた。
「森薄荷と月草を合わせた茶じゃ。喉を痛めたときはこれがいちばん」
「ユミルが……えっと、ぼくの従者のお茶とおなじ味がします」
「ほっほ。わしの記憶が確かなら、ユミルに最後に会ったのは400年ほど前だったが、息災のようでなによりじゃ」
「ユミルと知り合いなんですか?」
「彼が生まれたときから知っておるよ。大きな満月の夜じゃった。湖に落ちた月の光の雫から、あやつは生まれ落ちたのじゃよ」
さらりと語るセリオスに、アルテミスは思わず目を丸くした。
「それじゃ、やっぱりユミルは人間じゃないんですね」
「驚いたかな?」
「ううん……でも、ユミルはお母さまの親戚だって聞いていたから、それが嘘なら、どうしてユミルはぼくのそばにいてくれるんだろうって」
アルテミスにとってそれは、大海原で錨を失うような事実であった。
もちろん、アリスやカーディたちだって家族同然の存在だ。だが、ユミルが母であるアナスタシアと血が繋がっているのだと思うことで、アルテミスは自分もまた彼に繋がっているのだと信じていられた。
冷徹な父親と距離のある兄姉たちの中で、皇室に拠り所のないアルテミスにとって、ユミルと血の繋がりがあるという事実は、最後の安全基地のようなものだったのだ。
「血縁でないことが不安かな? 人は流れる血で家族になるのではないことくらい、もうわかっておろう?」
穏やかに問いながらも、セリオスの金色の瞳は優しかった。そっとアルテミスの小さな手を包み込むようにしながら、続ける。
「お前さんからは、精霊王の祝福のほかに、月の精霊の強い祈りを感じるよ。この子を守ってくれ、傷つけないでくれと……ユミルの声が聞こえてくるようじゃ」




