本当にいいの?
ついに儀式の時間がやってきた。使者に名を呼ばれた途端、幼いアルテミスは足元が崩れ落ちるような恐怖に襲われた。心配そうにこちらを見つめるアリスの手を掴んでも、指先からは痺れるような冷たさが広がっていく。
昨日まで過ごしていた離宮での平和な日々が、急速に遠のいていくような心地がした。ローゼマリーのあたたかい食事が食べたい。セルジュやカーディと走り回りたい。ウィリアムに剣技の授業をしてもらい、夜は清潔なシーツとユミルのそばで目を閉じる。明日の朝も、きっと同じ日々が続くのだと、疑いもせずに信じていた。
しかし今は、もう二度と同じ時間を過ごせないのではないか――そんな漠然とした不安が、胸の奥に重く居座って離れなかった。
「アルテミス様、顔色が……大丈夫ですか?」
「う、うん……」
必死に平静を装うアルテミスだったが、扉が開き、戻ってきた私とユミルの姿を見た瞬間、その常ならぬ雰囲気に目を瞬かせた。
「ユミル、どうしたの?」
どこか気怠げに見えるユミルは、首を小さく振り、いつものように穏やかな微笑みを浮かべた。
「なんでもございませんよ。席を外してしまい、申し訳ありませんでした。ちょうど、儀の使いの者が来たようですね」
「うん、もう行かないといけないみたい」
「……間に合ってよかった」
ユミルは膝をつき、アルテミスとそっと額を合わせた。
「――月は満ち、影を抱き、迷える子を守れ」
囁くような呪文とともに、白銀に近い淡い光がアルテミスの身体をやさしく包み込んだ。
冷え切っていた指先に、じんわりと温もりが戻り、胸を締めつけていた緊張が、波が引くように和らいでいく。アルテミスは不思議そうにユミルを見上げた
「……? 今のなに、ユミル?」
「僕からの、おまじないです。アルテミス様がご無事に戻られるよう」
そう言って微笑むと、ユミルは私に向かって「ほら、次はあなたの番ですよ」とでも言いたげに、じっと目線を送ってくる。
その細い首筋に、先ほど刻みつけた誓約の紋章が、淡い光を帯びてぼんやりと浮かび上がっている。
「ディアウッド先生からも、『うまくいくおまじない』をして下さるそうですよ」
「ふむ、アルテミス。目を閉じなさい」
「はい、せんせい」
私は静かに歩み寄り、アルテミスの前に膝をつくと、アルテミスの額にそっと口付けた。
「……っ!」
その瞬間、アルテミスの足元から淡い緑光がにじむように広がり、額の上に大地の紋章が浮かび上がる。若葉を思わせる光の線で描かれた紋は、ひと呼吸のあいだ静かに輝き、次の瞬間、温もりだけを残して吸い込まれるように消えていった。
「ディ、ディアウッド卿……いまのは一体……!?」
「す、すごい……! 光が、ぶわっと……アルテミス様を包み込みました……!」
思わず息を呑むアリスと、驚きに視線を巡らせるウィリアムの背後で、ユミルは何も言わず、ただ満足げに目を細めていた。
#
選定の間へと通じる扉は、王宮の中でもひときわ分厚く、古い儀礼の重みをそのまま形にしたかのようだった。扉の前で、アウグストの背後に控えていた官吏が一歩進み出る。
「お入りください」
形式ばった声音だったが、その瞳には幼い皇子への同情が浮かんでいた。
アルテミスは小さな手を伸ばし、重厚な扉に触れた。低く鳴る音とともに扉が開き、ひんやりとした空気が頬を撫でる。意を決し中へ踏み込むと、背後で扉がゆっくりと閉じ始めた。
そのわずかな隙間から、ふとユミルと目が合う。ユミルは口元にほんの小さな微笑みを浮かべ、胸に手を当てて静かにうなずいた。
次の瞬間、鈍い音を立てて扉が閉じ、外の世界は完全に遮断される。アルテミスは思わず息を呑み、前を向いた。
儀式の間の中央には、巨大な杯が据えられていた。器の中では、赤と金が溶け合うような炎が静かに燃え盛り、揺らめく光が床や壁に長い影を落としている。
「……なんだろう。すごく、きれい……」
炎に引き寄せられるように、アルテミスは無意識のうちに近づいていくと、炎の向こうから、大きな影が跳ねた。
「うわぁっ!」
咆哮とともに飛び出してきたのは、一頭の雌獅子であった。黄金の体躯が床を打ち、熱風が弾ける。戦場の女神エルデガルダの友、ヴァルキラであった。
「ちょっと! 危ないじゃない!」
驚きのあまり尻餅をついたアルテミスを、溌剌と燃える獅子がぐっと見下ろした。長い尾の先では、赤い炎が小さく燃え、ぱちぱちと感情を映すように弾けている。
「あら、あなたユミルの友達? 彼のにおいがする」
ヴァルキラは鼻先を近づけ、アルテミスの胸元や肩口をくんくんと嗅いだ。熱を帯びた吐息がかかり、アルテミスは思わず身をすくめた。
「まだ子供じゃない。あなた名前は? あなたが次の皇帝候補なの?」
「あ、アルテミス・アストラニアです。ユミルは僕の従者で、親代わりみたいなひと……です」
雌獅子はぴたりと動きを止め、首をかしげた。
「……どういうこと? 私の友達のユミルは黒うさぎの姿をした月の精霊よ。小さくてふわふわだけど、とても勇気があるの」
今度はアルテミスが首をかしげる番だった。
「ユミルは人間の男の人だよ? ブランドナー男爵家の次男だって言ってた……けど……」
言いながら、アルテミス自身もだんだん自信がなくなってきた。兄のように慕っていたセルジュとカーディは真っ黒で巨大なドラゴンだったし、モルティアの正体も小さなねずみだった。物心つく前から一緒にいるユミルもまた、自分の知る姿とは違う存在なのかもしれない。しかし、ヴァルキラはあっさりと結論づけた。
「それならきっと違うユミルでしょうね! でもあなたは月の精霊の加護を受けてる。変な話だけど、気にしないことにする。難しいことを考えるのは苦手なの」
「う、うん」
深く追及されなかったことに、アルテミスはほっと息をついた。そして気づけば、この天真爛漫な雌獅子に、少しずつ親しみを覚えている自分に気が付いた。
「あなたって、なんだか、僕の姉さまに似てる」
「へぇ? あなたのお姉さんも尻尾が燃えてるの?」
「そうじゃないよ。お話してると、元気なとこが。エルデガルダ姉さまっていうんだけど、優しくて強くて、弓が得意なんだ」
その名を聞いた瞬間、雌獅子の瞳がぱっと輝いた。
「エルデガルダ! 私の大好きな名前よ!」
ヴァルキラは嬉しそうに宙返りをしてきせた。燃える尾から火花がぱらぱらと舞い散る。
「名前を言うのを忘れていたわ。私の名前はヴァルキラ、よろしくね」
「よろしくね、ヴァルキラ」
犬歯を見せてにっと笑うヴァルキラにアルテミスはぺこりと頭を下げた。
「話は戻るけど、アルテミスは選定の儀を受けにきた皇子ってことでいいのよね? こんな小さな子供が来るのは初めてよ! 早速、見せてもらうわね」
そう言うなり、ヴァルキラはぐっと身をかがめ、アルテミスと額を軽く合わせた。
「……魔力は申し分ないわね。努力家で、謙虚。いざというときに逃げずに立ち向かえる、勇敢な心もある……あらっ!? ちょっと待って!?」
弾けたように後ろへ跳び、ヴァルキラは目を見開いた。
「ア、アルテミス!? あなた、大地の精霊王の加護を受けているじゃない!?」
「えっと……大地の、なに?」
きょとんと聞き返すアルテミスをよそに、ヴァルキラは苛立たしげに後ろ脚で首元を掻いた。
「もう!すでに“選ばれている”なら、選定の儀を行う意味なんてないじゃない!私たちは精霊王の代役として呼び出されているのよ!」
「ご、ごめんなさい。でも、ぼく、なんのことだか……」
恐縮するアルテミスの様子を見て、ヴァルキラはふっと息をついた。
「……話が見えてきた気がするわ。やっぱり、あなたのユミルは私の友達ね。最近ぜんぜん姿を見ないと思ったら、あの偏屈な精霊王様に囲われてたってわけだわ」
物知り顔でうなずくヴァルキラに、未だに困惑の最中にいるアルテミスは困ったように声をあげた。
「ねぇ、ヴァルキラ。“選ばれてる”ってどういうこと? “精霊王”ってだれ?ごめんね、ぼく……生まれてからずっと離宮にいて、なんにも知らないんだ……」
ヴァルキラは思わず目を丸くした。
「精霊王に会ったことがないの? ニコラスの魂を受け継いでいるのに?」
「ニコラス様なら知ってるよ。アストラニアの初代皇帝だよね」
ようやく知っている名前が出てきて、アルテミスはほっと息をついた。
「そうよ。でもあなた、あんまり似てないわね。青い瞳はそっくりだけど、ニコラスってもっと馬鹿っぽかったもの」
昔を懐かしむようにくすりと笑い、ヴァルキラは続けた。
「でも、セレナやアイリーンは“可愛いから花の加護を与えたい”って言ってたわ。フェインは陰で“下品な野蛮人”なんて呼んでて、セリオスによく叱られてたけど。非精霊差別だって」
たしかに、ニコラスは辺境の村出身とは思えぬほど、上品に整った顔立ちの青年であった。身なりさえ整えれば、他国の貴公子と並んでも遜色はなかったくらいだ。
美しいものを愛する花の精霊たちには殊のほか気に入られていたが、学がないゆえ、口を開けばがさつな言動が露呈し、生来の人懐こい性格もあって威厳というものとは縁遠かった。皇帝として立つにあたり、私は幾度となくそれを矯正しようとしたが、なかなか骨の折れる作業であった。
ヴァルキラも懐かしさがこみ上げたのか、アルテミス相手に建国前の我々の冒険譚を誇らしげに語り始めた。
疫病王の眷属に追われて野営地を転々とした話、無謀な突撃を仕掛けてはセリオスに叱られた話、強敵グォルグとの熾烈な戦いの顛末――。
アルテミスは目を輝かせて聞き入り、おしゃべり好きの精霊にとってこれ以上ない聞き手を得た時間は、止まるところを知らず、ひととき儀式であることさえ忘れさせるほどであった
「それでね、そのときにユミルが……」
話題がユミルとの思い出に差しかかった頃、アルテミスははっと我に返った。
「ヴァルキラ!ぼく、儀式を受けなくちゃ!」
「えぇ?でも、やる意味ある?それに終わったら帰らなくちゃいけないじゃない。百年ぶりに呼ばれたのよ。精霊の庭は平和すぎて退屈なんだから」
不満げに鼻に皺を寄せるヴァルキラに、アルテミスは慌てて手を合わせた。
「おねがい。終わったら、また遊ぼうよ。ぼく、ちゃんと勉強して、ヴァルキラを呼べるようにがんばるから」
「……それ、すっごくステキじゃない!」
ヴァルキラはぱっと顔を輝かせた。
「約束よ、アルテミス。絶対だからね」
そう言うと、ヴァルキラは先ほどまでの親しげな雰囲気を消し去り、精霊としての威厳をまとった。盃の炎が静かに揺らぎ、空気がわずかに張り詰める。
「――戦場の女神エルデガルダの真の友、ヴァルキラが汝に課す問いはひとつ。『戦場において、汝が最も大切にするものとは?』」
「えっと……」
予想外の問いに、アルテミスは言葉に詰まり、小さく視線を彷徨わせた。その様子に、ヴァルキラは仕方なさそうに肩をすくめる。
「難しいわよね。でも、この問いは変えたことがないの。帝国の繁栄のためには、戦いは避けられないものだもの」
「うん、そうだよね……」
帝国が歩んできた数多の戦の歴史は、アルテミスも知っている。けれど、それはあくまで教科書の中の出来事だった。カリストやアデルのように、実際に戦場に身を置いたことはない。
「少し考えてもいいかな?」
「もちろん」
アルテミスは目を閉じ、答えを探すように黙り込んだ。
離宮に守られ、心優しい使用人たちに大切に育てられてきたアルテミスには、自身を守るために命懸けで何かに立ち向かった記憶は、ほとんどない。
ウィリアムは剣の稽古で、恐れずに前へ出ることが大切だと言っていた。だが、大きな戦となれば、ただ前線に立つことよりも、アルテミスはきっとなにを守り、なにを犠牲にするのか決める立場になるのだ。ただ勇敢なだけでは、きっとだめなのだ。
静まり返った部屋で、炎がぱちぱちと小さく音を立てる。
「なんだか眠たくなってきちゃった。少しならいいけど、ずっと待つのはいやよ」
「ごめん、そうだよね」
待ち疲れたように尾を揺らすヴァルキラの金色の毛並みが目に入った瞬間、アルテミスの脳裏に、エルデガルダたちと共に山熊に立ち向かった日の記憶が、鮮やかによみがえった。
「……戦わなくてすむなら、戦わないことだと思う」
「えっ?」
思いもよらない答えに、ヴァルキラはぱちぱちと瞬きをした。
「ぼく、エル姉さまとユリウス兄さまと、山熊の巣穴に行って襲われたことがあるんだ。急に飛び出してきて、びっくりして、頭が真っ白になって……とっさに魔法が使えたから助かったけど」
「へぇ、すごいじゃない!」
弾むように声を上げるヴァルキラに、アルテミスは静かに首を振った。
「ううん……。ぼくにもっと勇気があって、落ち着いていられたら、山熊を殺さずに追い払うことだってできたと思う」
アルテミスは、少し考えてから続けた。
「自分のお家に、知らない人が入ってきたら、びっくりするのは当たり前だよね。ユミルにも言われたけど、危ないって分かっている場所に、近づくべきじゃなかったんだ。ユミルやアリスたちが、ぼくを大事に思ってくれているみたいに、あの子にも、きっと守りたい家族がいたはずだよ」
「うーん……そんな答えをした皇子は、はじめてだわ」
ヴァルキラは心底困ったように、たてがみを揺らして首をかしげた。
「臆病なのは嫌いよ。でも……ううん、やっぱり、よくわからないわ。その答えで、本当にいいの?」
「……うん」
アルテミスは一瞬だけ視線を落とし、それから顔を上げて、しっかりとうなずいてみせた。
「そう。なら、いいわ」
ヴァルキラが小さく息を吐くと、赤い火花が煙のように揺れ、名残惜しそうに宙へ溶けた。
「アルテミス・アストラニア皇子。あなたの答え、しかと承りました。――先へ進むことを許します」
その言葉と同時に、ヴァルキラの背後に並んでいた石像が、低い音を立てて動き出した。石がずれ、壁が割れ、奥に続く次の扉が姿を現す。
「次に会うのはフェインよ」
ヴァルキラは通りすがりに、声をひそめて囁いた。
「頭はいいけど、臆病で、ちょっと卑怯なところもある精霊。……よく気をつけてね」
扉をくぐる直前、ふと振り返ると、ヴァルキラの姿が炎の中へと溶け込むように消えていくのが、ちらりと見えた。
揺らめく炎の向こうで、彼女は最後にもう一度だけ、楽しそうに笑った気がした。




