逃れられない罠
広間へ戻ると、すでにカリストが中央に立ち、静まり返った空気の中でスピーチを始めていた。低く甘いテノールの、よく通る声で、これまでの公務や功績を簡潔に語り、協力してきた諸侯や臣下への感謝を丁寧に述べている。その語り口は落ち着いており、場を掌握するに十分な威厳を備えていた。
席に着くなり、アリスたちがほっとした様子で身を寄せ、声をひそめてささやいた。
「ディアウッド先生、ユミルさん!間に合ってよかった……。なんだか、とても大事なお話が始まりそうで、呼びに行こうかと思っていたんです」
周囲を見渡せば、他の貴族たちも同様に落ち着かない様子で、視線がひそひそと行き交っている。祝賀の宴とは思えぬ、張り詰めた空気が広間を覆っていた。やがてカリストは話を締めくくり、静かに一礼した。
「そして、本日は父上より、皆様にお伝えすべきお言葉があるとのことです」
その言葉を合図に、アウグストが一歩前へ進み出る。重々しい沈黙が落ち、ざわめきは完全に消えた。
「諸卿に告げる」
低く、威圧を帯びた声が広間に響く。
「第一皇子カリスト・アストラニアを、次期皇帝の第一候補として立太子させる」
一瞬の静寂の後、どよめきが広間を駆け抜けた。その渦の中心に立つカリストは、慌てる様子もなく背筋を伸ばしたまま佇んでいたが、ふと視線を巡らせ、アルテミスと目が合うと、小さく微笑みを向けた。アルテミスは思わず曖昧な笑みを返したが、騒然とした空気を切り裂くように、鋭い声が上がった。
「承服しかねますわ!」
声の主は、第一側妃マーゼルであった。
「これまでの軍功、ならびに魔法士としての才を鑑みれば、我が長子アデルもまた、その候補に加えられるべきでございましょう?」
「その通りでございます、陛下。アデル皇子は成人を迎える前より数々の武功を挙げ、魔法の才にも恵まれていらっしゃいます。カリスト様のみを推し立て、アデル皇子を除外するのは、いささか不公平というもの」
マーゼルに続いて口火を切ったのは、アデル派に連なる上級貴族の一人であった。それを合図にするように、周囲の貴族たちが次々とうなずき、同調の声を重ねていく。ざわめきは瞬く間に広間を満たし、不穏な空気が濃く漂い始めた。その中心で、薄い笑みを浮かべたアデルがゆっくりと前へ進み出た。
「陛下、“選定の儀”を行うのはいかがでしょうか?」
その言葉が放たれた瞬間、側妃たちの顔色が一斉に変わった。カミラは娘たちに制止の視線を送り、ドロテアは反射的に息子たちを背後へかばうように引き寄せる。そんな反応を愉しむかのように、アデルは目を細め、穏やかな声で続けた。
「これだけの兄弟姉妹に恵まれ、いつかはこの日が来ると分かっていました。カリスト兄様と僕、どちらが皇位に相応しいか偉大なる精霊たちに、お選びいただきましょう」
「し、しかし……選定の儀には、少なくとも3人……複数の候補が必要となります」
アウグストの背後に控えていた官吏が慎重に言葉を挟むと、アデルは笑みを深めた。
「成人に近い兄弟が沢山いるではありませんか。たとえば……レオナルドはどうでしょう?」
「なんてことを!」
ドロテアが声を張り上げ、蒼白な顔でレオナルドの手を引き寄せた。
「レオナルドはまだ学徒の身。武功もなく、儀に参加する資格などございません!謹んで辞退させていただきます!」
「我が娘たちも辞退します。我が一族は皇位継承など望んでいないわ」
カミラが即座に告げると、エルデガルダは信じられないという顔で母を見上げたが、シャーペイは静かに首を振り、妹を黙らせた。
「なるほど……」
アデルは肩をすくめ、わざとらしく視線を巡らせる。
「それでは、アリシアは?」
セラフィーナの隣で、名を呼ばれたアリシアは、
びくりと身をすくませ、何も言わぬまま小さく首を横に振った。
「おやおや……いつもは我が子の才を誇ってやまぬ方々が、今日は随分と慎ましい。皇位に連なるに足るか己を評価いただく、名誉ある機会だというのに」
皮肉混じりのその言葉にも、側妃たちは沈黙を守ったまま、視線を伏せるばかりだった。やがて、アデルの視線がゆっくりと、ある一点に向けられる。
「……ならば、アルテミスはどうかな?我らが末の弟は、幼いながらも類い稀なる魔法の才に恵まれていると聞く。精霊に選ばれる資格がないとは、言えないだろう?」
「アデル、いい加減にしろ」
カリストが低く叱責したが、アデルは意に介さなかった。その背後で、数人の貴族たちがうなずき合う。
「そうだ、それがいい」
「亡きアナスタシア様も、きっとお喜びになろう」
「十三番目の皇子が選定の儀に参加できるなど、これ以上ない栄誉ではありませんか」
水底に投げ込まれた石が生む波紋のように、同調の声が広間中へと広がっていく。ざわめきの渦の中、無数の視線に耐えきれなくなったアルテミスが、縋るようにユミルを見上げた。
「ユミル、せんていのぎって、なに?」
「……わかりません。ですが、決して良いものではないことだけは確かなようです」
不安げに震えるアルテミスの小さな手を包み込むように握りながら、ユミルはこちらへ視線を走らせ、押し殺した声で問いかけてきた。
「……バーティミアス様は、ご存知なのですか?」
「知らないな」
私が預かっていた治世の記憶の中に、『選定の儀』という言葉は存在しなかった。私が眠っている間に生まれた慣習なのだろう。
そうこうしている間にも、周囲の貴族たちは、すでに事が決したかのように小声で意見を交わし、賛同の頷きを重ねていく。逃げ道を塞がれ、静かに檻の中へと追い込まれていくような不気味な感覚に、ユミルは思わずウィリアムの顔を見た。彼は蒼白な顔で小さく首を振り、その瞳には隠しようのない恐怖と焦燥が浮かんでいた。
「……ウィリアム様。これは、なんです?いったい何が決まろうとしているのですか」
問いかけに、ウィリアムは唇を噛みしめ、小さく答えた。
「……これは罠だ。何をもってしても断らなければならない。最悪の場合……皇位継承を正式に辞退してでもだ」
「なぜです、そこまで……」
「選ばれなかった者がどうなるか。それが意味するところを、この場にいる者たちは皆、承知している」
それだけ言うと、ウィリアムは背筋を正し、静かに一歩前へ進み出た。
「恐れながら陛下。我が主君アルテミスは、まだ幼く、噂されるほどの魔力もございません。剣技も学び始めたばかりで、子供の遊びの域を出ぬもの。どうか、慎重なご判断をお願いいたします」
「ウィリアム様……!?」
主君を守るためとはいえ、自らその価値を下げかねない必死の嘆願に、周囲の貴族たちがざわめき、嘲るような視線を交わした。
「聞いたか?臆病者め」
「呆れた男だ。主君の名誉より優先すべきことなどないというのに」
「騎士団から罷免したアデル様のご慧眼は確かであったな」
口さがない貴族たちの囁きが刃のように降りかかったが、ウィリアムの真っ直ぐに伸びた背筋は揺るがなかった。アルテミスの優しい性格も、研鑽を続けるひたむきな姿勢も、誰よりも近くで見てきた。彼を守るためなら、皇族侮辱罪で縛り首になるのも覚悟の上であった。しかし、アウグストはその一切を意に介さぬ様子で、冷然と言い放った。
「辞退は認めぬ。アルテミス・アストラニアは、選定の儀に参加せよ」
今度はカリストが、思わず声を荒らげた。
「陛下!アルテミスは、まだ五歳です。どうか、お考え直しください!」
だが、アウグストはただ静かに首を振るだけだった。
「カリスト、アデル、アルテミス。この三名の皇子の参加をもって、選定の儀を執り行う。すべては……帝国の未来のためだ」
「帝国万歳!」
「アデル様のご武運をお祈りいたしますぞ!」
熱に浮かされたような声が、広間のあちこちから湧き上がる。
こうしてアルテミスは、誰の手にも止められぬ運命の濁流に呑み込まれ、試練の舞台へと、強引に押し流されていくこととなった。




