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ユミルの危機

 開会の式典が終わると、貴族たちはそれぞれの従者を引き連れ、静かな森の奥へと移動していった。

「やっと始まったわね。終わるまで退屈だから、今年は本を持ってきたの」

 カミラは革表紙の分厚い書物を取り出すと、ゆったりと頁をめくり始めた。シャーペイは裁縫袋から刺繍糸と木枠を取り出し、無心に針を進めている。

「移動が一段落するまでもう少し待ちなさい。アルテミスも、余計な騒ぎに巻き込まれたくないでしょう」

 森へ行きたくてそわそわするエルデガルダに、シャーペイは裏地の模様を確かめながら釘を刺した。

 シャーペイの忠告どおり、まず大勢の従者を連れたレオナルドとデュートがやってきて、続いて黒馬を操るカリストが静かに進んでいった。カリストはこちらを見て小さく微笑み、片目をつぶってみせたが、デュートたちはこちらを見ようともせず通り過ぎて行くだけだった。そして一際異様な存在感を放つ一団の先頭には、魔弩を片手に歩くアデルの姿があった。

「あぁ、いやな奴が来たわ」

「エル、静かに!」

 舌を出すエルデガルダを、シャーペイが押し殺した声でたしなめる。なんのことかわからず首をかしげるアルテミスに、エルデガルダはこっそりと耳打ちした。

「アデルお兄様よ。すっごく意地悪で、私たち、いつもひどい嫌味を言われるの。でも、相手にしなければすぐにどっか行くわ」

「うん、わかった」

 勇気づけるように小さな手で手を握られ、アルテミスはこくりとうなずいた。シャーペイは刺繍に夢中なふりをして、エルデガルダは目立たぬよう下を向いて大人しくしていたが、こっそりと様子をうかがっていたアルテミスと目が合い、アデルはにこやかに近づいて来た。

「おはよう、シャーペイ、エルデガルダ。そっちはアルテミスかな?」

「……えっと、はじめまして、アデルお兄さま。アルテミス・アストラニアです」

 戸惑っていたアルテミスだが、ユミルに優しく背中を支えられ、急いで挨拶した。口元に笑みを浮かべながらも感情の読めないアデルの目が、アルテミスの頭からつま先まで、値踏みするように走る。

「噂じゃ、野菜屑を集めて食べる乞食みたいな生活をしてるって聞いていたけど、元気そうじゃないか。あの貧弱な母親に似ず、よかったね」

 やさしい声音で残酷なことを言うアデルに、ユミルがぴくりと反応し、アルテミスを守るように一歩前へ出ようとしたが、横に控えていたウィリアムが小さく制止した。

「おそれながら、アデル皇子。一人歩きした噂は、真実より誇張されるものです。アルテミス様は慎ましくも穏やかにお過ごしですよ」

「おい!アデル様のお言葉に口を挟むなど、無礼だぞ!」

 アデルの背後に控えている護衛騎士が声を荒らげる。そのさらに後ろで、蛇のような目をしたアデルの従者が、ユミルを舐めるような視線で見つめていた。

「あなたたち、一日中そこでおしゃべりしているつもり?狩りに出遅れてしまうわよ」

 睨み合う一同に、カミラが涼やかに言うと、アデルは肩をすくめた。

「それじゃ、僕はもう行くよ。話せてよかったよ、アルテミス」

 遠ざかる背中を見送り、エルデガルダは大きく息を吐いた。シャーペイが慰めるように、そっとアルテミスの肩に触れた。

「よく頑張ったわね。もう遊びに行っていいわよ」

「行こう!アルテミス!」

「うん!」

 手を繋いで走り出すエルデガルダとアルテミスに、慌ててウィリアムが後を追い、ユミルもそれに続こうとしたが、天幕の陰からぬるりと現れた男が行く手を阻んだ。先ほど、アデルの背後に控えていた、蛇のような目つきの男だった。

「……僕になにかご用ですか?」

 警戒をにじませるユミルに、男は喉の奥でシューシューと音を立てるように笑った。目の奥で怪しく光る縦長の瞳孔が、この男が人間ではない存在であることを雄弁に物語っていた。

「ひさしぶりだな、ウサギちゃん。俺のこと覚えてないのか?」

「申し訳ありませんが、お顔に見覚えがありません。どなたかとお間違えでは?」

「顔、か。そうだなぁ……最後に会ったとき、あんたは俺の首を刎ねて、沼地に沈めてたもんな」

 どうやら、気の置けない旧友との再会というわけではないらしい。心当たりがありすぎるユミルは片目を閉じ、記憶を辿るようにしばし沈黙したが、やがて諦めたように私の方を見た。

「バーティミアス様、先の大戦で僕が始末したのって、何人くらいでしたっけ?」

「わからんが……ざっと八千人ほどじゃないか」

 疫病王ヴォラクとの戦いでは、奴の眷属である闇の精霊と人間とのあいだで、凄まじい全面戦争が繰り広げられていた。初代皇帝ニコラスの傍らにあった私は数多の精霊を使役し、闇の精霊たちを徹底的に殲滅したのだが、その陣中にいたのが、当時はまだ生まれたばかりの小精霊だったユミルである。優秀な参謀でありながら、単騎で敵陣を壊滅させてしまうユミルは実に重宝した。手放すのが惜しくなり、賭け事を持ちかけて独占契約を結んだほどだ。

「お前に全身を粉々にされたせいで、再生するのに千年かかったぜ。大事な皇子様に手を出されたくなかったら、誠意あるお詫びをしてもらわないとな」

「詫び、ですか?」

「お前に切り刻まれた“アソコ”が今でも疼くんだよ。その可愛いおくちで慰めてもらわないとな」

 下卑た笑みを浮かべる男を前に、ユミルは一瞬だけ言葉を失い、やがて静かに口を開いた。

「……どうやら、脳みそまでは再生されなかったようですね」

「なんだと、この売女が!俺は第三王子アデル様の筆頭従者だぞ!てめぇの小さいケツの穴がズタズタになるまで突っ込んで身の程を教えてやるよ!!」

 やれやれ、これ以上は聞く気にもならない。私が古代樹の杖をひと振りすると、正体を現した闇の精霊は小さな蛇へと姿を変え、地面にぽとりと落ちた。

「バーティミアス様、手出しは無用ですよ」

 地面を必死に這い回る蛇を片手で押さえ込みながら、ユミルは心底つまらなそうに言った。

「品のないやつは嫌いだ。早く片付けてしまえ」

「かしこまりました」

 闇の精霊が最後の抵抗とばかりに吐き出した瘴気を、ユミルは一息で吹き払い、口元にわずかな笑みを浮かべた。

「あの品性下劣なアデル皇子に似て、発想まで卑しい。お察しのとおり、アルテミス様は僕の命より大切な方です。その方に手を出すと嘯いて、生きて帰れると思っているわけではありませんよね?」

 仄暗い青い光を宿したユミルの瞳に射抜かれ、蛇は激しく身をよじらせた。しかし次の瞬間、ユミルはためらいなく大きく口を開き、その頭部を噛みちぎった。肉を裂き、骨を噛み砕く咀嚼音がしばらく続き、尻尾の先まで残さず飲み込んだユミルはごくりと喉を鳴らすと、取り出したハンカチで丁寧に口元を拭った。


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