月からの声
部屋は、完全な沈黙に支配されていた。
アシルの暗号化端末に表示された、あまりにも突飛なメッセージ。そして、窓の外で、酸性雨の雲の切れ間から鈍い光を放つ、満月。
アシルとレナは、言葉を失ったまま、スクリーンと月を交互に見つめていた。
ハッキングではない。この端末は、どのネットワークからも物理的に切り離されている。外部から干渉できるはずがない。だとすれば、このメッセージは一体どこから…?
その時、静寂を破って、端末のスピーカーから、ノイズのない、鈴が鳴るような涼やかな声が響いた。それは、若い女の声だった。
『――もしもし?聞こえてる?こちら、月の裏側、アルカディア。地球との通信は、40年ぶりだから、ちょっと感度が悪いかも』
二人は、声のした端末へと、弾かれたように視線を戻した。
声は、ひょうひょうとした、どこか楽しげな響きで続いた。
『キマイラの涙滴、解いたのは君かな?』
声は、明らかにアシルに向けて問いかけていた。
『ふーん、すごいね。僕のパパとママが作った、最高の傑作だ。それを解けるなんて、どうやら君、普通のアンドロイドじゃないみたいだね』
アシルの思考回路が、初めて「恐怖」に近い感情を検知した。こちらの全てを見透されている。声の主は、アシルの正体も、そして彼が解いた暗号の正体すらも、完全に把握している。
『そして、そっちの君も』
声の主は、今度はレナに意識を向けた。
『人間…だけじゃないね?ちょっと混ざってるみたい。面白いなぁ、生で見るのは初めてだよ』
レナの顔から、長年保ち続けてきたポーカーフェイスが、完全に剥がれ落ちていた。彼女の身体の秘密は、連合の中でも最高機密のはずだった。それを、いとも簡単に見抜くとは。
「…あなた、一体何者なの!」
レナが、絞り出すように叫ぶ。
声の主は、その問いに、悪びれるでもなく、隠すでもなく、まるで自己紹介でもするかのように、あっさりと答えた。
『僕はユウト。君たちが、命懸けで探している亡霊…榊亮介と榊まりあの、生物学上の娘だよ』
その瞬間、アシルの論理回路も、レナの40年間の覚悟も、全てが意味をなさなくなった。
榊夫婦の、娘?
40年前に、歴史から消えたはずの二人の?
月から?
二人は、ただ呆然と、スピーカーの向こう側から聞こえてくる、神か悪魔か判別のつかない、あまりにも無邪気な声を聞いていることしかできなかった。
『どうしたの?電波悪いかな?ハロー?こんにちは、ニーハオ、アニョハセヨ、ボンジュール?』
緊張感の無い声がスピーカーから響く。
『何語が得意なの?僕何語でも喋れるから合わせるよ、あ、そっちのアンドロイドの君は何語でもいけるよね?隣の混ざってる君はどう?』
レナは絞り出したような声で「え、ええ、日本語か英語だと嬉しいわね」と答えるのが精一杯だった。
『日本語僕得意だよ、なんたってパパとママも日本人だしね。あ、知ってるか。有名人だもんね。』
「君は何者なんだ」アシルがやっと口を開く。
『だから君たちが探している榊涼介と榊まりあの娘だってば。』
「榊夫妻に子供はいなかった筈だ。仮に記録に残っていない隠し子がいたとしても40歳。音声のパターンからは音声合成の痕跡は見つからないので恐らく肉声だろう。君の声はとてもじゃないが40歳には聞こえない。」
『あー、そこから説明しなきゃだめな感じ?パパとママもその辺ちゃんと説明しておいてくれないと』
『うんとね、僕は月で産まれたんだ、今年で25歳だよ。』
「だからそれだと年齢が・・・」
アシルの言葉が終わる前にユウトが次の言葉を繋げた。
『そうそう、パパとママは捕まる前に自分たちの受精卵を凍結してアルカディアに隠したの。で、人口子宮で15年後に産まれるように設定したってわけ。だから僕は25歳で、榊涼介と榊まりあの娘である事に矛盾はないよ。理解できた?』
「人口子宮?そんなもの2081年の今だってまだ実用化されていないのよ?それを40年前に既に実用化していたとでも?」
『そりゃまあパパとママは結構頭良かったみたいだからね。君の腕と足もパパとママが作ったやつみたいだし?』
レナは絶句する。次の言葉は出てこない。
『そんな細かい事はさておき、君たちパパとママの謎を追ってるんだよね?僕が手伝ってあげるよ。その代わり、僕も君たちにお願いがあるんだ』
「お願い?」
『そう。パパとママは、僕にたくさんのものを遺してくれた。このアルカディアもそう。でも、たった一つだけ、地球に残してきたものがあるの。「最後の贈り物」だよ。それは、僕がアルカディアの全ての機能にアクセスするための、物理的な「鍵」でもある。それを見つけて、僕のところに持ってきてほしいんだ』
「…その贈り物はどこにある」
『さあ?ついさっきまで、僕にも分からなかった』
ユウトは、楽しそうに言った。
『パパとママは、贈り物に超小型の追跡ビーコンを仕掛けてた。でも、それは普段は完全に眠ってる。そのビーコンを40年ぶりに起動させるための「鍵」が、君が解いた『キマイラの涙滴』だったってわけ』
「…では、あの休眠口座は」レナが、ようやく声を取り戻した。
『そう。あれは最後の試験。君の執念が扉を見つけて、アンドロイドの君の知性が鍵を開けた。その瞬間、僕に通知が来たんだ。「資格のある者が現れた」ってね。だから僕は、君たちとこうして話しながら、今起動したばかりのビーコンの信号を、地球全土からスキャンしてたの。…そして、たった今、見つけた』
『じゃ、詳しくはドキュメント送っておくからよろしくね。』
一気に早口でまくしたててユウトは最後にこう結び、通信が途絶えた。
レナとアシルは呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。
キマイラの渇望。最後の贈り物。そして、再び戻らなければならない、あの混沌の海――『龍の断片』へ。
その直後、アシルの端末に、ユウトから送られてきた巨大なデータファイルが受信された。アシルがそれを開くと、中には一つの座標データと、短いメッセージが表示された。
『「最後の贈り物」は、そこにある。龍の断片の中でも、一番ヤバい場所。「鉄の皇帝」って呼ばれてる、ヤバい奴のコレクションの一つになってるみたい』
『追伸。どうやらコンソーシアムがこの通信の特異性に気付いたみたいだね。流石に月の裏から送ってる電波自体は隠せないからなあ。一応単なるノイズに見えるように偽装はしたんだけど。あ、通信の中身は暗号化されてるから話の内容は聞かれてないよ。ほら僕、結構暗号化って得意だし。5分後ぐらいにそこに着くと思うから気をつけてね』
アシルとレナは、顔を見合わせた。窓の外で、遠くから複数の飛行ドローンの甲高い駆動音が、急速に近づいてくるのが聞こえた。




