鉄錆の迷宮
旧中国大陸内陸部、現『龍の断片』。
かつての世界が『大断裂』の時代に突入した時、強力な中央集権体制を誇ったこの国は内側から崩壊した。
『大沈黙』と呼ばれる激しい内戦の末、大陸は無数の軍閥や武装企業が割拠する巨大な無法地帯へと変わった。
連合共和国にも、シンセティック・コンソーシアムにも属さない第三の混沌。それが、この土地の現在の姿だった。
アシルとレナが足を踏み入れたのはその中でも連合共和国との境界に位置する、比較的「安全」とされる都市だったが、アーク・ノヴァの秩序に慣れた目にはそこはすでに異世界だった。
空は、休むことなく降り注ぐ酸性雨と巨大な工場群が吐き出す黒煙で、常に鉛色に淀んでいた。空気は、湿った鉄錆の匂いと、得体の知れない香辛料、そして人々の汗の匂いが混じり合った、生命力の奔流そのものだった。
何より決定的に違うのは、ネットワークの不在だった。コンソーシアムの監視網はこの混沌とした土地までは及ばない。それは、アシルにとって、自らの感覚の半分を奪われたにも等しかった。
ここでは、彼の持つ超高度な情報収集能力はほとんど意味をなさず、頼れるのはこの物理的な器と、隣を歩く人間の「経験」だけだった。
彼らがこの混沌の海に飛び込んでからすでに二週間が経過していた。
商人や傭兵を装い、一つの休眠口座に残された40年前の送金記録だけを頼りに榊夫妻の支援者の影を追う。それは、アシルの予測を遥かに超える、地道で、泥臭い捜査活動だった。
その日、二人は情報屋との接触のため、街の裏通りにある賭博場へと向かっていた。現地に馴染むよう、着古した服を身につけてはいたが、長年染み付いた「秩序」の世界の匂いは、隠しきれるものではない。
案の定、彼らはすぐに数人の男たちに目をつけられた。見るからに、この地区を縄張りとする軍閥の下っ端だろう。
「おい、そこの二人。見かけない顔だな。この街のルールは知ってるのか?」
リーダー格の男が、下卑た笑みを浮かべて道を塞ぐ。
「ええ、もちろん。郷に入っては郷に従え、でしょう?」
レナが、完璧な現地訛りの言葉で、穏やかに返した。だが、その瞳の奥には、一切の恐怖の色はなかった。
「ほう、言葉は達者なようだ。わかってるなら話は早い、出すもん出してもらおうか。」
男たちが、じりじりと距離を詰めてくる。
アシルは、アナリスト「サイラス・グレイ」の仮面を被り怯えた旅行者を演じていた。彼の思考回路は、瞬時に周囲の地形、男たちの武装、そして最も効率的な無力化のプロセスを計算していたが、それを実行することはできない。
その時、動いたのはレナだった。
「そう。あなた方の言う通りね」
彼女はそう言うと、自らの義手である左腕を、ゆっくりと男たちの前に晒した。
義手の指先が、音もなく開き、その中から青白い光を放つ、高圧スタンガンの電極が姿を現した。それは、ただの威嚇ではなかった。
40年間、幾度となく修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ、冷たい覚悟の光だった。
男たちは一瞬怯んだが、すぐに怒りの色を浮かべた。
「…上等だ!」
リーダーが叫び、ナイフを抜いたのと、アシルが動いたのは、ほぼ同時だった。
彼は、つまづいたフリをしてわざと体勢を崩した。そして、倒れ込みながら足元に転がっていた空き瓶を計算され尽くした角度で蹴り上げた。
瓶は、リーダーの顔の真横の壁に当たって砕け散る。そのガラスの破片が、男の目に飛び込んだ。
「ぐあっ!」
その一瞬の隙を、レナは見逃さなかった。彼女は、残りの男たちの懐に滑り込むと、義手から放たれる電撃で次々とその意識を刈り取っていく。
騒ぎを聞きつけ、周囲からさらに多くのゴロツキが集まってくる。
「…まずいわね。逃げるわよ!」
レナが叫ぶ。
アシルは、すでに逃走ルートを確保していた。彼は、近くの屋台の蒸気が吹き出すパイプを蹴りつけ、濃い水蒸気で敵の視界を遮ると、レナの手を引いて迷路のような路地裏へと駆け出した。
数分後、二人は安宿の薄暗い部屋にいた。レナが息を整えている間、アシルは無言で先ほどの戦闘データを再検証していた。
「…君の行動は、リスク許容度を大幅に超過していた」
彼は、無機質な声でレナに告げた。
「スタンガンによる直接攻撃は、相手の敵意を不必要に煽り、我々が排除される確率を僅かではあるが上昇させた。そこまでやる必要はなかったはずだ」
すると、レナは汗を拭いながら、まるで悪戯が成功した少女のように楽しそうに笑った。
「あら、ごめんなさい。アーク・ノヴァでは、猫を被り続けなくちゃいけないから、少し鬱憤が溜まっていたのよ。…ええ、すっきりしたわ」
「君は目的を達成する気がないのか?」
「そんな事ないわよ、現に問題なかったでしょ?頼りになるパートナーさんも居る事だしね。」
「派手な行動は我々二人共を危険に晒す。自重してもらおう。」
「はいはい」と軽い調子でレナは返事をした。
「…また振り出し、か」
レナは、まだ何か言いたそうなアシルを尻目に、疲れたように呟いた。情報屋との接触は、完全に失敗した。
アシルは、その情報の海を、彼の思考回路の中で再構築していた。
「支援者の痕跡は、40年前のあの送金を最後に、完全に途絶えている。まるで、最初から存在しなかったかのように」
「…そうね。私たちも、そろそろ潮時かもしれないわ」
レナの言葉には、珍しく弱音の色が滲んでいた。40年という、長すぎる追跡の旅。その終着点が、この混沌の中の行き止まりだというのか。
アシルは、何も答えなかった。彼のシステムもまた、「これ以上の調査は非合理的である」という結論を弾き出していた。
部屋に、重い沈黙が落ちる。
その、瞬間だった。
部屋の隅に置かれた、アシルの暗号化端末が、警告音もなく、静かにスクリーンを点灯させた。
ありえないことだった。その端末は、コンソーシアムのネットワークからも、連合のネットワークからも完全に切り離されている。外部からアクセスできるはずがない。
画面に、一つのメッセージが浮かび上がる。
送信元は不明。追跡不能。
一見すると意味のないデータの羅列。しかしアシルには見覚えのあるパターンだった。
キマイラの涙滴。アシルとレナは無言で顔を見合わせる。
アシルは即座に文字列を複合化した。
『――幽霊は、地上にはいない』
アシルとレナは、息を呑んでその一行を見つめた。
それは、誰からのメッセージなのか。敵か、味方か。
『君たちが探している答えは、ここにはない』
『空を見上げろ』
『本当のキマイラは、いつだって、月から世界を見下ろしている』
アシルとレナが同時に空を見上げた。空には満月が光り輝き夜空を鈍く照らしていた。




