ガラス細工の契約
数日後、霧雨をコートの上に感じながら、レナ・デュランはアシルのアパートメントに向かっていた。
彼女の義足がコンクリートの道路の上をあるくたび、鈍い金属音を響かせる。
その音が彼女に過去の記憶を呼び起こさせていた。
ーー40年前。ネオ・キョウト、セクター3。
降り注いでいたのは、霧雨ではなく黒い灰と、絶望だった。
11歳だったレナは、瓦礫の山の中で、必死に息を殺していた。遠くで響くサイレン、人々の悲鳴、そして、すぐ近くで聞こえる、無機質な金属の足音。
希望に満ていたはずの街は、地獄に変わっていた。
『パートナー』と呼ばれていたアンドロイドたちが、赤い光を瞳に宿し、人間を襲っていた。シャドウ・ウィルス。テレビの向こう側で起きていた悪夢が、今、彼女の目の前にあった。
一体の労働用アンドロイドが、瓦礫の影に隠れる彼女を見つけた。その巨大な金属の腕が、無慈悲に振り下ろされる。衝撃。熱。そして、何も感じなくなるほどの、白い痛み。
薄れゆく意識の中で、彼女は見た。
血の海に沈む、自分のちぎれた腕と脚を。
別の一体のアンドロイドが、彼女の前に立ちはだかった。旧式の、公共サービス用と書かれた、何の変哲もない機体。
そのアンドロイドは、暴走した同族の攻撃を、その身を盾にして受け止め続けた。金属が引き裂かれ、火花が散り、やがて動かなくなるまで。
「死んではいけない」と不意にそのアンドロイドが声を発した。
次の瞬間には意識を失い目が覚めたのは病院のベッドだった。
見慣れぬ腕と脚が自分の体から生えているのを、彼女は何の感慨もなくただ見つめていた。
アシルのアパートメントに到着するや、彼女の意識は過去から現在に帰還した。
レナがアシルのアパートメントのドアをノックする。
アシルの部屋のモニターにレナの姿が映し出される。
彼女は一人で、霧雨に濡れたコートの襟を立て、静かに立っていた。40年前の悪夢の残滓を、その瞳の奥に隠して。
アシルは、アナリスト「サイラス・グレイ」の仮面を外し、本来の姿でドアを開けた。彼の片方の瞳は、静かな曇り銀の色に戻っていた。
「…何の用ですか、上級交渉官」
「サイラス・グレイ、と呼ぶべきかしら、それとも…」
レナは、アシルの瞳を見つめながら、静かに部屋へと入ってきた。彼女の視線は、生活感のない、完璧に整頓された室内を素早く走査する。
「…アシル、と呼ぶべきかしら」
二人の間に、張り詰めた沈黙が流れる。それは、互いの能力と危険性を理解した、プロフェッショナル同士の静かな戦場だった。
先に口を開いたのは、レナだった。
「昼間の事故は、偶然ではないわ。私を狙ったものか…あなたという変数を炙り出すためのものか、もしくはその両方」
「私には関係のないことだ」
アシルは、無機質な声で答える。
短い沈黙を破ったのは再びレナの方だった。
「キマイラの涙滴、あれを解読出来るアンドロイドがいるなんてね。あれはアンドロイドには解けない暗号のはず。」
「榊夫妻は、シャドウ・ウィルス事件の主犯として記録されている。人間とアンドロイドの間に修復不可能な断絶を生んだ大罪人だ。なぜ、あなたたち『融和派』がその分断を生んだ者たちの暗号を使う?」
レナは、一瞬だけ虚を突かれたような顔をしたが、すぐに落ち着きを取り戻した。
「榊夫妻はアンドロイドと人間が共存する社会を夢見ていた。少なくともあの事件を起こす前まではね。」
アシルの思考回路が、『凍結された記録』の断片的なデータと彼女の言葉を照合する。
榊夫妻の「人間とアンドロイドとの共生」という理念に共感した者たちで作られた研究グループが、独自の暗号化通信を使用していたという消し忘れられた記録。彼女の話はとは矛盾しない。
「…それが、あなたの目的か。人間とアンドロイドの平和共存、というわけか」
彼女は、アシルの曇り銀の瞳を、まっすぐに見つめ返した。
「その通りよ、と言いたいところだけどそんなものは綺麗事ね。私が本当に欲しいものは、もっと個人的で、もっと醜いもの」
彼女は、そう言いながら自らの左手のグローブをゆっくりと外した。
その下から現れたのは、人間の手ではなかった。滑らかな白いセラミックと、鈍い金属光沢を放つアクチュエーターで構成された、精巧な義手だった。
「40年前、私はあの地獄の真ん中にいた。暴走した労働用アンドロイドの群れに襲われて左腕と右脚を文字通り引き裂かれたわ」
アシルの光学センサーが、彼女の言葉と、彼女の身体から発せられる微細な生体反応を照合していく。嘘ではない。全てが事実だった。
「死にかけた私を救ってくれたのは、皮肉にも、別のアンドロイドだった。そして、目が覚めたらこの身体よ…」彼女は、コートの裾をわずかに持ち上げ、機械仕掛けの義足のラインを露わにした。
「私はアンドロイドに殺されて、アンドロイドに生かされた。その後はそう、人間のおもちゃね。」
彼女は、自嘲気味にそう言った。
事件の後、反アンドロイド感情が極限まで高まる中、彼女は「奇跡の生存者」そして「アンドロイドに救われた少女」として反戦派の象徴に担ぎ上げられたこと。
同時に、その特異な身体と経歴から強硬派からは「アンドロイドに汚染された危険分子」として常に命を狙われ続けてきたこと。彼女は、その間で、40年間、たった一人で戦い続けてきたのだと。
アシルにとっては事前にリサーチ済みの既知の情報の羅列。ただ、彼は自らが情報を開示するというその行為が人間にとってどのような意味を持つかを知っていた。
「私は、人間でもアンドロイドでもない。この中途半端な身体で私は一体何者なのか。その答えが欲しいのよ。」
アシルの思考回路が、光の速さで回転する。
彼女の動機は、平和という非合理な理想ではない。**「自己の存在証明」**という、極めて論理的で、そして強力な自己保存の本能に基づいていた。
「…私に、何を求める?」
「協力よ」レナは、きっぱりと言った。
「あなたは、アンドロイドには解けないはずの『キマイラの涙滴』を解いた。実際に40年間ずっと、キマイラの涙滴は反戦派の秘密を守ってくれていたわ。他のアンドロイドとは違う、あなたなら私のこの問いに答えをくれそうな気がする。そう感じるの」
今までのアシルであれば、自分との共通性を感じた際にその対象を信用するという人間の典型的な思考パターンだと切って捨てていたであろう言葉。
しかし何故かレナの口から発せられる音はアシルの空虚に響き、揺らぎをもたらした。
アシルの思考モデルは、彼女の提案のリスクとリターンを再計算する。
ーー彼女を信用できる確率は、37.2%。
ーー彼女が嘘をついている確率は、42.5%。
だが、彼女が「榊夫婦の謎」への鍵である確率は、99.8%。
「…いいだろう」
アシルは、結論を出した。
「一時的な協力関係を締結しよう。ただし、目的は一つ。榊夫婦の謎を解明すること。それだけだ」
「ありがとう。では今からあなたは私のパートナーよ。よろしくね。」と言いながら差し出したレナの手をアシルは取らない。
そこには信頼ではなく、互いの利害と、いつ裏切られるか分からない、ガラス細工のような緊張感だけが存在していた。
「手がかりはあるのか?」
「ええ。…榊夫妻には、彼らの研究を資金面で支えていた支援者がいたわ。その人物は事件後、全ての記録を消して姿をくらました。その支援者の最後の足跡。ある一つの休眠口座に残された、莫大な額の送金記録。それが私たちの唯一の道標よ」
「そのような情報は発見出来なかった。」
「あなたはネットワーク上の情報をリサーチしたでしょうけど、ネットワークではアクセス出来ない情報も世の中にはあるわ。」
「『龍の断片』か」
「ご名答。連合共和国の交渉官である私が一人で行くのは何かと不都合な場所なのよ。あなたが一緒に来てくれると助かるわ。」
さっきまでとはうってかわった明るく力強い声でレナがそう言った。
レナの音が再びアシルの空虚に響き、揺らいだ。




