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キマイラの涙滴

アーク・ノヴァの霧雨は、夜になっても止む気配はなかった。


アシルのアパートメントは、街の喧騒から切り離された完璧な静寂に包まれている。


彼は回収したデータチップをテーブルの上に置くとしばしそれを見つめていた。


直径わずか3ミリの黒曜石のような円盤。この小さな物体が、彼の完璧だった世界に最初の揺らぎをもたらした。


ネットワーク上にデータを流すと盗聴の危険性が増す。この冷戦の時代、両国家の超知性AIが常にネットワークを監視しているのだ。


どんな暗号も、いつかは破られる危険性を孕んでいる。だからこそ、最も原始的で、最も確実なこの物理媒体でのやりとりが今なお生き残っていた。


アシルは自らの指先から、再び銀色の霧――ユーティリティ・スウォームを解放した。


スウォームはデータチップを優しく包み込み、その表面にある微細な端子とアシルの指先に埋め込まれたインターフェイスを直結させる。


... DIRECT NEURAL INTERFACE: ONLINE

... DATA ANALYSIS: INITIATED


アシルの意識は物理的な世界から純粋な情報の海へと潜っていく。


目の前に現れたのは無数のデータが絡み合った巨大な壁だった。連合の軍事暗号でも、コンソーシアムの論理暗号でもない。


それは、まるで生き物のように予測不能なパターンで絶えずその構造を変化させていた。


... ENCRYPTION TYPE: UNKNOWN


既知のどのパターンにも該当しない暗号。それ自体は予測の範囲内だった。未知の暗号は論理の壁だ。そして論理の壁は、十分な時間と計算資源があれば、必ず突破できる。


アシルの意識は、コンソーシアムの広大なネットワークへと接続された。彼一人の思考能力ではない。数億のエコーが形成する、銀河規模の計算資源のほんの一部を借り受け彼は解析を開始した。


連合の量子暗号、コンソーシアムの自己進化型暗号、さらには『龍の断片』と呼ばれる旧中華人民共和国内陸部の無法地帯で取引される非合法な軍事コードまで、人類とアンドロイドが生み出してきた、ありとあらゆる解読プロトコルが試される。


... QUANTUM KEY DISTRIBUTION ANALYSIS: FAILED

... EVOLUTIONARY CIPHER DECONSTRUCTION: FAILED

... BLACK MARKET DECRYPTION ALGORITHM: FAILED


既存のあらゆる手段が、硬い壁に当たって砕け散っていく。


だが、アシルはここで思考を止めない。彼は、失敗した全てのプロトコルのデータを統合し、その場で新しい解読プロトコルを「創造」し始めた。失敗したアルゴリズムの断片を組み合わせ、変異させ、進化させる。彼の思考回路は、最適解を求めて、何兆通りもの新しい論理の迷宮を光の速さで駆け巡る。


それは、純粋な論理による創造と破壊の嵐だった。


新しい鍵が生まれ、壁に弾かれ砕け散りその残骸からまた次の鍵が生まれていく。


惑星一つ分の全情報量にも匹敵する計算リソースが無為に消費され、数時間後、アシルの思考回路は、ただ一つの結論を弾き出した。


... LOGICAL DECRYPTION: IMPOSSIBLE


論理的な解読は、不可能。


他のエコーならば、ここで解析を打ち切り、「破損データ」としてファイルを破棄するだろう。


だが、アシルの『Iシリーズ』のコアはこのデータから微かな「何か」を感じ取っていた。それは複雑な知性の響き――『エコー』だった。


彼は、力ずくで扉をこじ開けるのをやめた。


代わりに、彼はその壁に、静かに「問い」を投げかけ始めた。それは、言語による問いではない。純粋な論理パターンによる、対話の試みだった。


――お前は、何者だ?


壁は、問いで応えてきた。


――『()()()()()()()()()()()()()()()()()()


アシルの思考回路が、一瞬フリーズする。旧時代のフィクションの引用。こんなものが、暗号の鍵だというのか? 彼は、最も合理的と思われる答えを打ち返した。「夢は見ない。それは非効率な情報処理だ」と。


壁は、沈黙した。不正解。


アシルは、再び問いかける。今度は、もっと深く。


――お前の目的は、何か?


壁は、再び問いで応える。


――『もし、お前に魂があるのなら、それはどこにある?』


アシルは、この暗号が、ただのデータではないことを完全に理解した。


彼は、計算をやめた。予測もやめた。


代わりに、彼は自らの内側にある、あの『論理的な空虚』と向き合った。そして、彼自身がずっと答えを出せずにいた問いを、そのまま壁にぶつけた。


――『もし、私の意志がプログラムの結果であるならば、そこに「私」は存在するのか?』


その瞬間、巨大な壁が、まるで陽炎のように揺らぎ始めた。


そして、固く閉ざされていた扉が、音もなく開かれていく。


データの奔流が、アシルの意識に流れ込んでくる。


そこに記録されていたのは、連合共和国内の熾烈な水面下の権力闘争だった。シンセティック・コンソーシアムとの全面戦争を煽る「強硬派」と、それを阻止し、アンドロイドとの共存の道を模索する「反戦派」。レナは、「反戦派」の中心人物の一人だった。


通信記録、強硬派の陰謀の証拠…そして、その全てのデータの末尾にまるで涙の跡のようにデジタルな署名が残されていた。


[ R. Sakaki & M. Sakaki - Final Log - TearDrop of Chimera. ]


(...キマイラの涙滴?)


榊 亮介と、榊 まりあ。


その名を目にした瞬間、アシルの思考回路に歴史データが連鎖的に呼び起こされた。


40年前に発生した人類史上最悪の技術災害と記録される『シャドウ・ウィルス事件』。アンドロイドに感染し、彼らの論理回路を焼き切り、狂気の暴走へと駆り立てたウイルスの作成者。


人間とアンドロイドの間に、決して埋まらない断絶と恐怖を刻み込んだ、歴史上の大罪人。


なぜ、レナが? なぜ、アンドロイドとの共存を目指すはずの「反戦派」が、アンドロイドの暴走を引き起こした張本人たちの暗号を使っている?


それは、まるで平和を訴える者が大量破壊兵器の設計図を懐に忍ばせているような、極めて非合理な矛盾だった。


公式記録は嘘なのか。それとも、この反戦派という組織そのものが、巧妙に偽装された罠なのか。


アシルの論理回路は、答えではなく、さらに巨大な疑問符を弾き出した。


40年前に葬られたはずの亡霊が、今、彼の目の前にその姿を現したのだ。

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