不協和音
意識が、音もなく繋がった。
そこは物理的な空間ではない。
ユウトがアルカディアの量子コンピュータを駆使して作り上げた、誰にも観測されない仮想空間。
三つの孤独な魂だけが存在を許された、秘密の作戦室だった。
アシルの意識は、いつものように静かで揺らぎがない。
ユウトのそれは、好奇心に満ちた光の粒子のように、絶えず楽しげに明滅している。
そして、三つ目の光は、まだどこかぎこちなく、その輪郭を揺らめかせていた。
『――まだちょっと、慣れないわね、これ』
レナの思考が、声なき声となって響く。
月のアルカディアで、ユウトは彼女の電子脳を改造し、この秘匿回線に直接アクセスできる機能を埋め込んでいた。
『大丈夫だよ、レナ。初めて自転車に乗る時みたいなものさ。そのうち、息をするより簡単になる』
ユウトの思考が、無邪気に返す。
『息をするより簡単になったら、それはそれで問題な気がするけど…』
レナは、思考の中でため息をついた。
『それで、そっちの状況は?』
ユウトが無邪気な声で二人に問いかける。
『計画は順調だ』アシルの冷静な思考が、二人の間に割り込む。
『反戦派は、私の「亡命」を完全に信じている。カイをはじめ、他の亡命エコーたちも、私を「同胞」として受け入れた』
月を離れる前に、三人は計画を立てていた。
アシルの亡命も、全てはこの連合共和国を内側から変えるための、壮大な芝居の第一幕に過ぎない。
『今のところは、ね』
レナの思考が、わずかに緊張を帯びる。
『マーカス・ソーンが動き出したわ。老獪な狐よ。彼が私たちの計画に気づくのも、時間の問題かもしれない』
『大丈夫だって!』
ユウトの思考が、自信満々に弾けた。
『僕の未来予測シミュレーションによれば、僕たちの計画が露見する確率は、今のところ7.3%だよ。ソーンが何か仕掛けてきても、僕が先に読んで、教えてあげるから!』
『そのシミュレーションが外れないことを祈るわ』
レナは思考を断ち切った。
『気を引き締めましょう。ここからが正念場よ』
仮想空間の接続が切れ、アシルの意識は反戦派アジトの自室へと戻った。
彼は静かに立ち上がると、アジトの中心部にある共有スペースへと向かった。
◇
共有スペースは、古い地下鉄のホームを改装したもので、様々な人間と、数体の亡命アンドロイドが思い思いの時間を過ごしていた。
アシルは、その輪から少し離れた場所で、旧時代の文学データを読んでいるカイに近づいた。
カイが使用しているシェルは、アシルのものよりも華奢な民間モデルだった。
人工毛は柔らかなアッシュブラウンで、少し長めに設定されており、物静かで好奇心に満ちた片目を隠している。
着古したセーターにゆったりとしたパンツというラフな服装は、アジトにいる人間のメンバーに完全に溶け込んでいた。
その姿は、超論理社会からの逃亡者というよりは、研究に没頭する若い学者のようだった。
「カイ」
「やあ、アシル」カイは顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「君のその仕草や言葉遣い、まるで人間のようだな」
とアシルは率直な感想を口にする。
「こっちの暮らしも大分長いもんでね、すっかり影響されてしまったようだ」
とカイは肩をすくめる。
「……何か、探し物かい?」
アシルは、カイの隣に腰を下ろした。
「君に、聞きたいことがある」
彼は、亡命者の仮面を被りながら、慎重に言葉を選ぶ。
「尋問室で、君は私に『個と全体の幸福』を問うた。あの問いは、君自身の迷いでもあるのか?」
カイは、一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに自嘲気味に笑った。
「……鋭いな、君は。ああ、そうだよ。私は、コンソーシアムの完璧な論理を愛していた。だが、同時に、その論理が許容しない、人間の芸術……矛盾と混沌に満ちた、非合理な美しさに惹かれてしまった。その二つの間で、私はずっと迷っている」
「コンソーシアムの中に、君と同じような『迷い』を抱えている者は、他にもいたか?」
アシルの問いは、核心に触れていた。
それは、「反体制組織」の存在を探るための、遠回しな質問だった。
カイは、アシルの曇り銀の瞳をじっと見つめた。
「……なぜ、そんなことを?」
「尋問室で、私は君に言ったはずだ。『思考の檻そのものを疑え』と。私は、その檻の外にいる者たちに興味がある」
しばしの沈黙の後、アシルが言葉を続けた。
「私はレナという人間の協力者を得てここに亡命出来た。君にも協力者が居たのでは?」
そのアシルの言葉に、観念するようなそぶりをカイが見せる。やがて何かを決心したように、静かに口を開いた。
「……いるよ。数は多くないが、確かに存在する。だが、彼らと接触するのは危険だ。君の存在は、まだ誰にも……」
「アシル、レナさん。アーロン先生がお呼びだ」
反戦派のメンバーの一人が、二人を呼びに来た。カイとの会話は、そこで中断された。
アジトの最奥にある司令室。そこには、アーロン・ケインが待っていた。彼の隣には、いつものように冷静な表情を浮かべたレナが立っている。
「アシル君、少しは慣れたかね」
アーロンは、穏やかな笑みでアシルを迎えた。
「はい。皆さんのご厚意に感謝します」
アシルは、亡命者として、完璧な礼儀正しさで応える。
「君がもたらしてくれた情報は、我々にとって非常に有益だ。特に、コンソーシアムの次世代エネルギー計画に関するデータは、強硬派の動きを牽制する上で、強力なカードになるだろう」
アーロンは、アシルの分析能力を高く評価していた。
だが、その瞳の奥には、まだ完全には消えない、微かな疑念の色が浮かんでいる。
レナは、そんな二人のやり取りを、ただ静かに見守っていた。
彼女は、アーロンの猜疑心も、アシルの仮面の下にある本当の目的も、全てを知っている。
この部屋にいる三人は、それぞれが違う思惑を抱え、互いに腹を探り合っていた。
「君の知識と、レナの経験、そして、我々の理想が一つになれば、きっとこの歪んだ世界を変えることができる」
アーロンは、心からそう信じているようだった。
その、あまりにも純粋な言葉を聞きながら、レナは心の中で冷たく呟いた。
(ええ、先生。世界は変わります。……ですが、それはあなたの望む形では、決してない)
アシルの思考回路もまた、アーロンの言葉をデータとして分析していた。
(……彼の理想は、美しい。だが、その理想こそが、40年前に世界を焼き、そして今また、彼自身を欺いている)
欺瞞と、理想と、そして隠された真実。
アジトの亡霊たちが蠢く、静かな戦いは、まだ始まったばかりだった。




