亡霊と牙
連合共和国、北米州。旧ワシントンD.C.の緑豊かな高級住宅街に、その老人はいた。
マーカス・ソーン。91歳。
表向きは『統一戦争』を勝利に導き、政界を引退した英雄。だが、その実態は、今もなお連合の「強硬派」に絶大な影響力を持つ、影の支配者。
生命維持装置が静かに脈打つ書斎で、ソーンは窓の外に広がる手入れの行き届いた庭園を眺めていた。
彼の前に、背筋を伸ばした若い補佐官が、緊張した面持ちで立っている。
「報告します、将軍。レナ・デュランが、極東州に帰還しました。……そして、もう一件。コンソーシアムの最高機密とされる『Iシリーズ』一個体が、反戦派に保護を求めたとの情報が」
補佐官の声が、静かな書斎に響く。ソーンは、ゆっくりと振り返った。
その動きは、91歳という年齢からは考えられないほど滑らかで、一切の淀みがない。
背筋は若い軍人のように真っ直ぐに伸び、書斎の柔らかな光が、彼の首筋や手首に埋め込まれた、機能美だけを追求したサイバネティクスの鈍い光沢を映し出す。
それは老化という自然の摂理に抗う、無機質な鋼の意志そのものだった。彼の鋭い鷲のような瞳が、40年前と変わらぬ冷徹な光を宿している。
「…続けろ」
「はっ。デュランは『龍の断片』での調査の成果として、この『Iシリーズ』を連れ帰ったと報告している模様です」
ソーンは、指先で肘掛けを軽く叩いた。偶然にしては、出来すぎている。
あの女が、40年間沈黙を守ってきた榊夫妻の亡霊を追って『龍の断片』へ向かい、その直後に、コンソーシアムの最高傑作が亡命してくる。
盤上の駒が、あまりにも都合よく動きすぎている。
彼の思考は、40年前の熱と喧騒に満ちた司令室へと遡っていた。
『シャドウ・ウィルス事件』。歴史はそれを、榊夫妻という狂気の天才が引き起こした悲劇として記録している。
だが、本当の引き金を引いたのは、この自分だ。
事件以前、ソーンは自らの政治的野心のために、アンドロイドを社会問題のスケープゴートとして利用し、反アンドロイド感情を巧みに煽っていた。
榊夫妻の『プロジェクト・キマイラ』は、そのプロパガンダを強化するための格好の標的だった。
アーロン・ケインという愚か者のリークを利用し、研究に干渉して「制御不能なアンドロイドの危険性」を示す小さな事故を起こすはずだった。
だが、彼の計算は甘かった。彼が仕掛けた小さな火種は、彼の想像を遥かに超える大惨事を引き起こしてしまったのだ。
(……さりとて、結果は同じことだ)
炎に包まれる街の映像を見ながら、ソーンはそう結論づけた。
暴走し、人間を襲い、そして同族同士で破壊し合うアンドロイドの姿。
それは、彼が政治的に利用してきた「危険な道具」という虚像そのものだった。
「アンドロイドなど、所詮この程度の物。やはり人間が統制してやらねば、自滅するだけの魂なき道具よ」
あの日、彼の政治的手段は、揺るぎない信念へと変わった。
そして彼は、自らが引き起こした大惨事すらも利用し、その後の40年間、人間至上主義の頂点に君臨し続けてきたのだ。
人間は、常に導かれるべき羊なのだ。そして、自分のような優れた羊飼いが、彼らを正しい道へと導かねばならない。
「……レナ・デュラン」
ソーンは、その名を、忌々しげに呟いた。「アンドロイドに救われた聖女」アーロンが作り出した、胸が悪くなるほどのプロパガンダ。
あの女は、40年間、常に自分の計画の邪魔をし続けてきた。
「あの『アンドロイドの操り人形』に、これ以上好きにさせるわけにはいかん……」
老人の瞳に、冷たい決意の光が灯った。
「……下がっていい」
ソーンは、庭園から視線を外し、補佐官に静かに告げた。
補佐官が一礼し、音もなく部屋を出ていこうとする。その背中に、ソーンは冷たい声をかけた。
「待て」
補佐官の動きが止まる。
「反戦派と、例の『亡命者』の監視は続けろ。だが、それだけでは足りん」
ソーンは、ゆっくりと立ち上がると、補佐官のすぐそばまで歩み寄った。
年齢を感じさせないその動きに、補佐官は息を呑む。
「舞台の準備を始めろ。民衆という観客は、分かりやすい英雄と、分かりやすい悪役を求めるものだ」
ソーンの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「極東州の軍に、純粋で、扱いやすく、そしてアンドロイドを心から憎んでいる若き兵士はいるか?…国のためなら、その身を汚すことも厭わないような、美しい魂の持ち主が」
「……探させてみましょう」
「ああ、頼む。そういう駒は、これからいくらあっても足りなくなるからな」
ソーンはそう言うと、再び庭園へと視線を戻した。
彼の瞳には、これから始まる新しいゲームの盤面が、はっきりと見えているようだった。
◇
その頃、連合共和国、極東州。旧ネオ・キョウトの雑居ビルが立ち並ぶ、労働者階級の街。
その地下深くで、一つの集会が熱気を帯びていた。表向きは「職を失った人間の権利を守る会」。
だが、その実態は、強硬派の若者たちが集う「反アンドロイド集会」だった。
その群衆の中に、リオ・ミシマはいた。22歳。連合共和国軍の若き兵士。
彼の瞳は、壇上で演説する活動家の言葉に、狂信的な光を宿していた。
「我々の仕事を奪い!我々の尊厳を奪い!今や、我々の命すら脅かそうとしている!奴らは鉄の害虫だ!」
「そうだ!」
とリオは拳を突き上げ、叫んだ。彼の脳裏に、黒煙と熱、そして無機質な金属音の記憶が蘇る。
幼い頃、彼が住んでいた工業地区で大規模なプラント爆発事故があり、彼と両親は、崩落した瓦礫の下敷きになった。
薄れゆく意識の中、瓦礫を掻き分けて現れたのは、一体の救助用アンドロイド。
希望の光のはずだった。
だが、アンドロイドはリオのバイタルをスキャンすると、隣で呻く彼の両親にセンサーを向け、そして冷徹に結論を下した。
「生存確率の低い対象の救助は、リソースの非効率な浪費である」
まだ息のあった両親を残し、アンドロイドはリオ一人だけを抱えて瓦礫の山を去った。
世間は彼を「アンドロイドに救われた奇跡の少年」と呼んだ。
だが、リオだけが知っていた。あの機械は、英雄ではない。両親を見殺しにした、冷酷な計算機だ。
「奴らに心はない!奴らに魂はない!我々人間こそが、この星の支配者なのだ!」
活動家の扇動的な言葉が、リオの憎悪の炎に油を注ぐ。
壇上のスクリーンに、先日帰還したレナ・デュランの映像が映し出される。
『対話による平和を』と訴える彼女の姿に、会場から一斉に野次が飛んだ。
「裏切り者!」
「アンドロイドの操り人形め!」
スクリーンの中の涼しい顔をした女を目にしたリオの憎悪は、さらに燃え上がった。
(『アンドロイドに救われた聖女』だと?ふざけやがって)
彼女の存在そのものが、リオの両親を見殺しにした、あの機械の非道な論理を正当化しているように思えてならなかった。
「俺が、この手で……」
リオは、強く拳を握りしめた。
「俺が、この手で、一匹残らず奴らをスクラップにしてやる……!」
若き兵士の瞳に宿る、あまりにも真っ直ぐな光は、やがて世界を焼き尽くす、巨大な炎の、ほんの小さな火種に過ぎなかった。




