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境界の夜明け

アルカディアの静寂は、もはや以前のような、冷たいものではなかった。

ユウトによる解析が終わった後、三人はそれぞれ、自らの過去と、そしてこれから始まる未来と向き合うため、与えられた自室で、静かな時間を過ごしていた。


アシルは、部屋の隅で、壁にもたれかかるようにして、自らの内側にある『空虚』を見つめていた。


『キマイラの渇望』

榊夫妻が遺した、無限に進化を求める、呪いであり、祝福。

彼がレナに惹かれ、謎を追い、ネットワークの結論に背いた、その全ての衝動は、ただプログラムされただけのものだったというのか?


全ては榊夫妻の掌の上で踊らされていただけだというのだろうか?


それとも、この渇望こそが、本当の「自分」なのだろうか。 答えは、まだ見つからない。


アシルは自分の手に重ねられた、レナの手の感触を思い出していた。


その時、静かに部屋のドアが開いた。レナだった。


彼女の表情は穏やかで、迷いの色はなかった。そこにあるのは、全てを受け入れた者の、嵐の後の海のような静かな覚悟だけだった。


「…私の信じていたものは、全て幻だったわ」 レナは、アシルの隣に立つと静かにそういった。


「40年間、私を支えてきた約束も、絆も、全部が作られたものだった。今の私の中は、空っぽよ」と屈託なく笑う。


彼女は、そこで一度言葉を切ると、アシルの曇り銀の瞳を、まっすぐに見つめ返した。


「でもね、それでいいのかもしれない。偽物で満たされているよりも。空っぽなら今度は私自身の意思で、その空虚を満たせばいいのだから」


彼女は、そっとアシルの手に自らの手を重ねた。


機械の手と、機械の手。だが、そこには確かな温もりがあった。


「私が信じていた絆もまた、幻だった。でも、ここに、新しい絆がある。…そうでしょう?」


「…ああ」

アシルは、静かに頷いた。

「そうだな。私も、自分の意思で、私のこの空虚を満たせばいい」


レナは、満足げに微笑むとアシルの手を握った。


「まずは、地球に帰って、色々と問い詰めてやらないとね。40年分の、借りがある人がいるから」


「ああ。私も一度、コンソーシアムに戻る必要がありそうだ。」


アシルの手がレナの手を握り返す。


二人の覚悟が、一つになった、その時だった。

部屋の入り口で、ユウトが、少し寂しそうに立っていた。


「…二人とも、帰っちゃうんだね」


「ええ。地球に、借りを返さなくちゃならない人たちが、たくさんいるからね」 レナが、優しく答える。


ユウトは、少しだけ俯くと、おずおずと、しかし真っ直ぐな瞳で、二人を見上げた。


「二人にお願いがあるんだ。」


彼女の声は、いつものような、自信に満ちたものではなかった。それは、生まれて初めて、誰かに「お願い」をする、一人の子供の声だった。


「キマイラ・ネットワークの中にいる、パパとママに会いたい。…レナ、アシル。僕を、手伝ってくれるかい?」


それは、ただの仮説だった。 だが、その言葉には、生まれてから一度も会ったことのない両親に、初めて会えるかもしれないという、一人の娘の、切実な願いが込められていた。


レナは、ユウトの華奢な身体を、優しく抱きしめた。


「もちろんよ。それにあなたのパパとママには私もアシルも随分とお世話になってたみたいだしね。」


アシルもまた、静かに頷いた。 「ああ。それが、我々の新しい活動目的だ」


三人の旅は、一度終わりを告げた。


そして、ここから、新しい物語が始まる。


一つの未来へと向かう、三人の本当の物語が。

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