静寂の海
旧式の輸送カプセルの中は、重苦しい沈黙に支配されていた。
窓の外には、インクを零したような漆黒の宇宙と、遠ざかっていく青い地球が、音もなく広がっている。
コンソーシアムの追跡を振り切り、『龍の断片』の混沌から脱出した安堵感は、二人にはなかった。
アシルは、隣の席で静かに目を閉じているレナを観測していた。
彼の思考回路は、この数日間の出来事を冷静に分析していた。鉄の皇帝との交渉。
レナが自らの身体を代償として差し出したこと。
それは、活動目的である「最後の贈り物の入手」を達成するための、論理的な最適解だった。
彼女の自己犠牲は、極めて合理的で、効率的な判断だったと、アシルのシステムは結論づけていた。
だが、同時に、彼のセンサーは、レナの身体から発せられる微細な生体反応の乱れを捉えていた。抑制されているが、極めて高いレベルのストレスホルモン。わずかに上昇した心拍数。そして、彼女の瞳の奥に宿る、データでは測定できない深い疲労の色。
アシルの思考回路は、新しい結論を導き出す。
(最適解を選択した個体が、精神的な負荷を抱えている。この状態は、今後の活動の成功確率を著しく低下させる危険性がある)
彼は、彼女の精神的負担を緩和するための、最適な方法を検索し始めた。
膨大な学習データの中から、人間同士の、ありとあらゆるコミュニケーションのパターンが参照される。友人との励まし、上司からの激励、そして…恋人同士の、いたわり。
最も成功確率の高いパターンをアシルは選択した。
アシルは、静かにレナの方へと向き直った。
彼は、学習データから導き出した、最も「優しい」とされる表情を、自らの顔に再現する。そして、計算され尽くした、完璧なタイミングと声のトーンで、彼女に語りかけた。
「レナ…」
その言葉と共に、彼はそっと手を伸ばし、レナの肩に触れた。その動きは、あまりにも滑らかで、完璧すぎた。
レナは、驚いて目を見開いた。アシルが自分を名前で呼ぶのにも驚いたが、なにより、アシルの完璧な「いたわり」の表情を見て、次の瞬間、こらえきれずに、ぷっと吹き出した。
「あなた、もしかして、私を慰めようとしてくれているの?」
アシルの思考回路に、予測外のエラーが表示される。
「…肯定だ。私の行動は、不適切だったか?」
「いいえ、不適切じゃないわ」
レナは、久しぶりに、心からの笑みを浮かべていた。
「ただ、少し…不器用だっただけよ。大丈夫。これくらいのことは慣れているわ。…でも、ありがとう、アシル」
アシルは、心なしか憮然としているように見えた。彼の完璧なシミュレーションは、彼女の笑顔ではなく、安堵の涙を予測していたからだ。
その時、アシルの思考内に、ユウトからの緊急通信が割り込んできた。
『――二人とも、ちょっとヤバいかも!』
「どうした」
『君たちが乗ってるそのカプセル、旧式すぎてステルス機能がガバガバだ。船体のレーダー反射も、システムから漏れてるデータ信号も、どっちも丸見え。このままだと、あと15分でコンソーシアムの深宇宙監視網に引っかかるよ!』
「どうすればいい」
『物理的な偽装と、論理的な偽装、両方が必要。僕が送ったデータの中に、光学迷彩帆布の製造データも入れておいた。アシル、君のスウォームでそれを船体に織り上げて。同時に、レナは船内でシステムのOSに、僕が作った偽装パッチを手動でインストールする。どっちか一つでも失敗したら、ハチの巣にされるよ!』
アシルとレナは、顔を見合わせた。
アシルは、音もなく立ち上がると、船倉のエアロックへと向かった。
「…船外活動は私が行う。システムのアップデートは、君に任せる」
数分後、アシルの身体は、宇宙服も着けずに、漆黒の宇宙空間へと躍り出た。彼の身体は、真空にも、極低温にも耐えられるように設計されている。
船外の所定の位置に到着すると彼の意識の中で、再び無音の協奏曲が始まった。だが、カフェでデータチップを回収した際の静かな演奏とは違う。これは、破局までの残り時間と戦う、嵐のようなプレストだった。
彼の指先から解放されたユーティリティ・スウォームが、ユウトの設計図という名の楽譜を瞬時に展開する。スウォームは、カプセルの旧式な船体装甲をナノレベルで分解し、それを素材として、新しい旋律――光学迷彩の膜を、猛烈な速度で「織り上げて」いく。
一つ一つのナノマシンが、完璧なタイミングで動き、光の反射率を変化させる六角形の結晶構造を形成していく。それは、アシルの意識に、何億もの楽器が同時に奏でる、複雑で、しかし完璧に統制された音色として流れ込んでくる。
レナは、船内の旧式のコンソールを操作し、ユウトから送られてきた偽装パッチのインストールを開始した。40年前の、迷路のように複雑なOSのセキュリティを、彼女のサイバネティクス強化された思考速度が、一つ一つ解き明かしていく。
「アシル、3時の方角からデブリの破片が接近! 回避できる!?」
『問題ない』
アシルは、船体に張り付きながら、飛来する金属片を最小限の動きでかわしていく。だが、デブリの数は、予想以上に多かった。『鉄の皇帝』が打ち上げた、ガラクタの嵐の残りだった。
アシルの思考回路の大部分は、何億ものスウォームを指揮して光学迷彩膜を「織り上げる」という、極めて精密な作業に集中していた。
飛来する小さな破片は、彼のシステムが半ば自動的に回避していたが、その時、彼のセンサーは、回避不能な軌道で迫る巨大な破片を捉えた。 スウォームの操作にリソースを割かれていたため、完璧な回避行動の計算が一瞬だけ遅れた。
彼はやむを得ず、船体から足を離すと、迫りくるデブリを、別の方向へと力強く蹴り飛ばした。
その瞬間、最悪の事態が起こった。
アシルが蹴り飛ばしたデブリが、別のデブリの塊に激突。連鎖的な衝突が、小規模なケスラーシンドロームを引き起こしたのだ。
無数の、より小さく、そしてより高速な金属片の嵐が、カプセルへと襲いかかる。
「アシル! 間に合わない! 計算量が多すぎる!」
レナの悲鳴のような声が、アシルの思考内に響く。
『…肯定だ。このままでは、衝突は避けられない』
アシルの思考回路もまた、無数のデブリの軌道を予測しきれず、飽和状態に陥っていた。
その時、レナが叫んだ。
「アシル! 操縦を代わる! あなたは計算に集中して! 回避ルートの座標だけを、リアルタイムで私のコンソールに送り続けて!」
アシルの思考が、0.01秒だけ停止した。それは、自らの思考の一部を他者に委ねる、彼にとってはありえない選択。だが、他に手はなかった。
『…了解した』
次の瞬間、二人の役割は完全に入れ替わった。
アシルの意識は、船外の状況から完全に切り離され、ただ純粋な計算の海へと潜っていく。無数のデブリの軌道、カプセルの質量、スラスターの最大出力…その全てを統合し、たった一つの、完璧な回避ルートを、ミリ秒単位で算出し続ける。
一方のレナは、コンソールに表示される、アシルの思考から送られてくる膨大な座標データを、その目で追っていた。それは、人間が認識できる速度を遥かに超えた、光の点の奔流だった。
だが、彼女は怯まなかった。彼女のサイバネティクス強化された義手と義足が、旧式の操縦桿とペダルに接続される。人間の直観と、機械の反応速度が、ここで一つになった。
彼女の指と足が、まるで踊るようにコンソールの上を舞い、アシルの計算結果を、神業のような精密な操縦へと変換していく。
スラスターが、断続的に火を噴いた。カプセルは、まるで嵐の中を舞う木の葉のように、無数のデブリの隙間を、紙一重ですり抜けていく。
だが、その神業の代償は大きかった。急激な機動に耐えきれず、船外で作業を続けていたアシルの身体が、ついに船体から振り払われたのだ。
アシルの身体は、デブリの嵐の中を、無力に回転しながら、漆黒の闇へと投げ出されていく。
「アシル!」
レナの絶叫が響く。
彼女は、操縦桿を握りしめたまま、躊躇なくエアロックの緊急開放ボタンを叩き割った。警告音が鳴り響き、船内の空気が一気に宇宙空間へと吸い出されていく。
彼女は、その嵐の中へと半身を乗り出した。真空が、彼女の生身の右半身の皮膚を焼き、肺から空気を奪う。彼女の機械の左腕が、まるで生き物のように伸び、闇の中を漂うアシルの腕を、間一髪で掴み取った。
「…っ!」
レナは、歯を食いしばり、その鋼の腕力だけで、アシルの身体を船内へと引きずり込んだ。
エアロックが閉まり、船内に戻ってきたアシルは、床に倒れ伏した。レナは意識を失っている。
彼はすぐさま、エアロックを完全に密閉すると、彼女をそっと船内の床に横たえた。
数分後、レナがゆっくりと意識を取り戻した。
最初に目に映ったのは、明らかに消耗し、瞳の光を減光させたアシルが、心配そうに自分を見守っている姿だった。
アシルは、一瞬だけ沈黙した。彼のシステムは、彼女の生命維持パラメータを確認し、「問題ない」と結論づけていたが、彼はそれを選択しなかった。彼は、レナに向かって、静かに言った。
「…ありがとう」
その、あまりにも不器用で、しかし率直な感謝の言葉を聞いて、レナは、またしても、ふっと吹き出した。
「ふふっ…あなた、本当に不器用ね」 彼女は、悪戯っぽく微笑んだ。
「どういたしまして。頼れるパートナーさん?」
彼女が身を起こそうとした時、真空に晒された右半身に、鋭い痛みが走った。皮膚の下で、損傷した生体組織を修復するため、彼女の義体に組み込まれたナノマシンが、隣接する細胞を分解し、再構成を始めているのが感じられた。
機械が、また少しだけ、彼女の肉体を侵食していく。その微かな感覚に、彼女は誰にも気づかれぬよう、静かに目を閉じた。
カプセルは、再び静かな航行に戻った。
やがて、カプセルはユウトが示した座標へと到達した。
窓の外に広がるのは、ただ静寂に包まれた、月の裏側の荒涼とした大地だけだった。人工物の光はおろか、その痕跡すらどこにも見当たらない。
「…本当に、ここで合っているのかしら」
レナが不安げに呟いた、その時だった。
アシルの思考内に、再びユウトの楽しげな声が響いた。
『――おー、オンボロ発見!』
次の瞬間、目の前の月面が、まるで水面のように揺らぎ始めた。光学迷彩が解かれ、クレーターに擬態していた巨大なドーム状の構造物が、その真の姿を現していく。
榊夫妻が遺した、最後の聖域。
アルカディアが、ついにその門を開いた。