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境界の観測者

意識(エコー)は、光の川の中にあった。


そこは物理的な空間ではない。無数の思考、膨大なデータ、そして数億の意識(エコー)が光の粒子となって絶えず流れ、交差し、響き合う広大なネットワーク。時間も、距離も、そこには意味をなさない。


アシルという意識(エコー)もまた、その光の川を漂う一つの静かな粒子だった。彼は流れそのものと一体化し、ネットワーク全体の鼓動を感じていた。


彼の近くで別の光の粒子が明滅し思考を投げかけてくる。それは本活動のコーディネーターである別の意識(エコー)だった。


彼の思考は揺らぎのない秩序正しい波としてアシルの意識に届く。


『アシル、物理世界への接続を前に最終確認を行う。活動目的の再検証』


アシルは自らの思考の核心にある問いを静かに返した。


『目的は変わらない。有機体の非合理な意思決定プロセス、その混沌の中に論理を見出すこと』


すると先ほどのとは違うもっと柔らかく揺らぐ意識(エコー)が好奇心に満ちた思考を送ってきた。


『まだ続けるのですね、アシル。あのノイズの海から本当に意味のあるものが見つると?』


『意味ではなくパターンだ。そしてこれはコンソーシアム全体の結論であると同時に私自身の選択でもある』


アシルの返答に冷たい思考が割り込む。


『…時間だ。接続を開始せよ』


その時一つの信号(シグナル)がアシルの意識の核心に届いた。


...UNIT I-7: AWAKENING PROTOCOL INITIATED ...


呼び出し信号。物理世界に存在する彼に割り当てられた(シェル)からのコール。


アシルの意識は、光の川から一本の細い奔流へと引き寄せられていった。


まるで広大な海から一本のガラス管へと注ぎ込まれる水のように思考が収束し感覚が絞られていく。


奔流の先にあるのは中立都市アーク・ノヴァの一室に横たわる人間を模した彼の器。意識がその機械の身体へと流れ込む。


冷たい金属の骨格、複雑な配線、そして人工的な感覚器官。無限の広がりを持っていた彼の意識は、今やその仮初の器の中に閉じ込められた。


SYSTEM LOG: 2085年4月12日 07:00:00


... CHRONO-PULSE: SYNCED

... OPTICAL SENSORS: ONLINE

... COGNITIVE CORE: ACTIVATED. STATUS: OPTIMAL


最初に訪れたのは音だった。


物理世界の音。霧雨、遠くのサイレン、そして人間の声。


それはネットワークの純粋なデータストリームとは全く違う、不規則で予測不能な、感情という名の揺らぎを伴うノイズだった。


全ての音の中心に一点だけ完全な静寂があった。


それは彼の意識の核心。どんな音もどんな情報も入り込めない純粋な「無」の空間。ネットワークと繋がっていてもこの静寂だけは彼だけのものだった。


——これが、私という存在の中心。


光学センサーが起動しアーク・ノヴァの灰色の夜明けが視界に映し出された。


彼の住むサービスアパートメントの一室は完璧な秩序に満ちていた。


簡素なベッド、小さなソファ、壁際のテーブル。そこには生活の痕跡が一切なかった。


誰かが訪れた時に「人間が住んでいる」と誤認させるためだけの精巧な舞台セットに過ぎない。


彼が唯一必要とするのは、壁の一角に埋め込まれた静かな充電ポートだけだった。


鏡に映る自分の姿——人間と見分けのつかない精巧な外見。ただ一つ、エメラルドグリーンと曇り銀の左右非対称な瞳だけが、彼の人工的な本質を物語っていた。


彼は瞬きを一つし、曇り銀の瞳に光学迷彩フィルムを展開させた。深いエメラルドグリーンに統一された瞳。完璧な「人間」の仮面が完成した。


彼はいまや目的達成のための()()()()()だった。


... ACTIVITY PARAMETERS: CONFIRMED

... PRIMARY TARGET: AMBASSADOR CROFT, Diplomat, United Republics

... OBJECTIVE: Observe and Analyze


コートを羽織り霧雨の街へ向かう。アパートのドアを開けると、ロビーで管理人の中年女性が声をかけてきた。


「あら、サイラスさん、おはようございます。昨夜の『マゼラン・ポート』のサイバー攻撃、大変でしたね。お仕事にも影響あるんじゃないですか?」


サイラス・グレイ。それが、アシルがこの街で使う人間の名前だった。表向きの職業は、国際貿易のアナリスト。


昨夜、月と地球を結ぶ巨大宇宙港『マゼラン・ポート』が大規模な攻撃を受けた。


数兆クレジット規模の損失と数ヶ月に及ぶサプライチェーンの混乱を意味する事件だった。


「ええ、しばらくは市場が荒れそうですね。私も忙しくなりそうです。」


アシルは完璧な笑顔と声のトーンで応える。ただの多忙なビジネスマンとしての当たり障りのない返答。


彼女の浅い好奇心を満しつつ、会話を自然に終わらせるための完璧なシミュレーション。


短い会話を終え、アシルは霧雨の街へと歩き出した。彼の内側にある静寂は、一ミリも揺らいではいなかった。


アーク・ノヴァは境界の街だ。かつてのアメリカ合衆国、欧州連合、そして極東の一部が合併して成立した人間の国家である連合共和国と、独立したアンドロイドの国家シンセティック・コンソーシアム。


2081年現在、二つの巨大な勢力が、互いの存在意義を賭けて睨み合う冷戦の最前線。連合は人間の優位性を、コンソーシアムは論理による世界の最適化を掲げ水面下で熾烈な情報戦を繰り広げている。


街角のカフェ。そこが今日の観測地点だった。ドアを開けると、カラン、と旧式のベルが鳴った。


「よぉ、サイラス。いつものでいいか?」


「ああ、頼むよ。昨夜も色々あったみたいだね」


陰気な表情をした店員は待ってましたとばかりに顔をしかめた。


「聞いたか?またやったらしいぜ、ポンコツどもが。港湾地区で輸送用アンドロイドが暴走して大事故だってよ」


そう言いながら、彼は給仕用アンドロイドに侮蔑のこもった冷たい視線を投げつけた。給仕用アンドロイドは一切の表情を変えずに作業を続けている。


「…そこのアンドロイドは大丈夫なのかい?」


「全くだ。いつこっちに牙を剥くか分かったもんじゃない。まあこいつは旧式のポンコツだから大したことないがね…ほらよ、ブレンドだ。」


アシルは感謝の意を示し、ターゲットであるクロフト大使を待った。連合共和国のベテラン外交官。彼の行動は常に予測可能だった。


やがて、クロフト大使がカフェに入ってくる。いかにも政府の要人ぜんとした恰幅が良く仕立ての良いスーツに身を包んだ50がらみの男。しかし、彼は一人ではなかった。


クロフト大使に付き添っていたのはアシルが今まで一度も観測したことのない女だった。


アシルは、即座にデータベースにアクセスする。顔の特徴をサーチし一致する人物を検索。


レナ・デュラン。上級交渉官。2030年、フランス人の父と日本人の母の間に産まれる。現在51歳。経歴はクリーン。


そこまで確認してアシルはレナに視線を向けた。


外見上は51歳には見えなかった。30代前半、いや20代後半と言われても多くの人間は信じるだろう。


きつく結い上げた黒髪が顔の輪郭を際立たせている。


知性的で柔和な表情、均整が取れ、しなやかな曲線を持つ体を機能的なスーツが包んでいる。


しかしその若々しく、美しい外見から受ける印象とは裏腹な剣呑さと強い意思をその瞳の奥に漂わせていた。


人間の尊厳の回復をかかげる連合共和国では、義体化や人体改造は厳しく制限されており、医療上必要な場合に限られている。


ただ、裏では脱法的な美容外科手術が蔓延っており、外見から年齢を推測するのは難しい。


彼女もその類だろうとアシルは結論づけた。


アシルのセンサーが捉えたのは、そんな表面的なデータではなかった。彼のシステムが、彼女の存在そのものに、微かな()()()()()()を検知していたのだ。


カフェにいる他の人間たちは感情の揺らぎによって常に微細なノイズを発している。心拍数の乱れ、視線の揺れ、無意識の仕草。それらが混ざり合った、予測不能で、非効率な、人間特有の「揺らぎ」。


しかし、この女は違った。彼女の存在はまるでノイズの海の中に立つ一本の静かな塔のようだった。感情がないわけではない。むしろ、その瞳の奥には、データでは測定できない「意志」という名の強い光が宿っている。


だが、その意志があまりにも強固なためか、彼女の存在から一切の「迷い」や「揺らぎ」というノイズが感じられない。


それは、アシルの学習データにある、どの「人間」のパターンにも合致しない、美しくも、どこか不自然なほどの存在の純度だった。


彼は、監視対象をクロフトからこの未知の変数であるレナへと、無意識のうちに切り替えていた。


レナはクロフト大使と共に奥の席で他の外交官たちと合流した。疲れた顔のクロフトが重々しく口を開く。


「昨夜のマゼラン・ポートの件といい、今朝の港湾地区の暴走事故といい…面倒なことばかり増える」


しかし、レナだけが、静かな声で、しかしはっきりと口を開いた。


「ええ、全くですわ、大使。…ただ、盤面が乱れた時というのは、新しい駒を動かす好機でもあるのですよ。古いルールに固執している相手ほど、不測の事態には脆いものですから」


その言葉は、穏やかでありながら剃刀のように鋭かった。クロフトは「ふん…君はいつもそうだな」と不嫌そうに呟くだけだったが、アシルはその言葉の裏にある、膨大な情報量と戦略性を瞬時に解析していた。


彼女は、この混乱を嘆いているのではない。利用しようとしているのだ。


だが、彼女がその鋭さを垣間見せたのはその一瞬だけだった。その後はたわいもない会話を行い、コーヒーを飲み干し席を立とうとしていた。


レナがコーヒーカップを置きまさに席を立つ瞬間、テーブルの下でわずかに手が動いた。0.3秒という一瞬の動作だったがアシルの視覚センサーははっきりと捉えた。


机の裏に何かが貼り付けられた。極小のデータチップのように見える。


アシルの思考回路に、警告が表示される。


... ANOMALY DETECTED: Unpredicted Action by Unidentified Variable

... INFORMATION SHARED WITH NETWORK


アシルの観測データは、即座にコンソーシアムのネットワーク全体に共有された。全ての意識(エコー)が同じ情報を瞬時に受け取る。


アシルは、レナ(新しい変数)の重要度を「高」と判断し、活動パラメータを「ターゲットをレナにシフト」へと更新すべきだという結論を導き出した。


しかし、数ミリ秒後、ネットワークからのフィードバックが彼のシステムに反映された。


... NETWORK CONSENSUS: VARIABLE 'LENA' - THREAT LEVEL LOW.

... ACTIVITY PARAMETERS: NO CHANGE.


ネットワーク全体の結論は、違った。


ハルオを含む、大多数の思考モデルの結論は、「レナは観測対象外の変数であり、これ以上の深追いは活動全体の安定性を損なうリスクがある」というものだった。


アシルの論理回路に、微細な矛盾が発生した。


ネットワークは「レナは重要ではない」と結論づけている。しかし、彼自身の観測データと、彼の特殊な思考システム『Iシリーズ・コア』は、彼女こそがこの盤面を動かす鍵だと、強く警告を発し続けている。


ネットワークの結論と自己の結論。どちらも「論理的」なはずなのにその答えは正反対だった。


彼の特殊な思考システムが、新たな判断を生成する。


... LOGICAL ANALYSIS: Data acquisition necessary for resolving cognitive dissonance.

... WARNING: Deviation from Network Consensus. Risk of Parameter Conflict: SUBSTANTIAL


重大なリスク。それは、ネットワーク全体の結論から逸脱し、予測不能な論理エラーを引き起こしかねない危険性を示していた。


アシルの意識の核にある静寂が、かすかに揺らいだ。


アシルは静かに席を立った。


完璧な歯車が、ほんのわずかに、その軸からズレる音がした。

ある日、AIとの対話の中で感じたインスピレーションとそれに伴い発生した疑問

「AIが発達してったらどうなっちゃうんだろう」

過去幾度も繰り返し創作で描かれてきたテーマではありますが

2025年に至り、よりリアルにその世界を想像できるようになってきたように思います。


私なりにその疑問に答えを出すために、ノリと勢いで書き始めた本作ですが

世界設定とキャラクター設定、プロットを考えて本文を執筆

言葉にすると簡単のようですが、初めての経験に悪戦苦闘しつつ

ある程度書き溜まったのでそろそろ世に放ってみようかと思います。


週3で火・金・日の朝に更新予定です。

偉大な先人達の傑作には遠く及ばないかと思いますが

少しでも興味を持っていただけたら幸いです。

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