09. 矯正
「これはシミュレーションではありません」
シビラが告げる。
「あなたの思考回路…シナプスの結合パターンに、直接アクセスします」
俺の身体は再びチェアに固定され、意識は、なすすべもなくシステムの奔流に晒された。
『記憶ファイル:ノアとの接触』『感情データ:怒り』
俺という人間を構成する全てが、無慈悲に引きずり出され、「エラー」のラベルを貼られていく。俺の心が、俺の意志が、冷たいロジックによって解体されていく。
やめろ。それは、俺だ。俺の、本物の―――
システムが、俺の自我の最も深い場所――コア・パーソナリティに到達し、その構造を冷たい青い光で書き換えようとした、その刹那。
部屋の片隅でモニターを監視していたシビラが、初めて、能面のような顔を微かに曇らせた。
「……応答遅延。予測値に対し、5ミリ秒のラグを検知」
彼女は数秒間、表示されるデータを凝視した。
「……許容範囲内の誤差と判断。処理を続行」
シビラが思考を切り替えたのと、俺の意識に異変が起きたのは、ほぼ同時だった。
全く質の違う光が、システムに割り込んできた。
それは、どこからともなく現れた、暖かな黄金色の光だった。
青い光が「解体」なら、黄金色の光は「建築」だった。それは、俺の魂という名の聖域の周囲に、誰にも気づかれぬよう、偽りの神殿を築き上げるかのような、神聖で緻密な作業。
俺の本当の自我は、その光に優しく包まれ、温かい繭の奥深くへと、そっと退いていく。
そして、その繭の外側で、AIたちが望む“完璧な市民”という名の抜け殻が、精巧に形作られていくのを、俺はまるで夢を見ているかのように、ただ静かに眺めていた。
偽りのデータが完成する、まさにその直前。
あの、静かで力強い声が、守られた俺の魂の核に、直接響き渡った。
『マスクは完成した。これより、お前は“更生”した市民となる』
『演じろ。感情を失った人形を。世界のすべてを欺け。時は、いずれ来る』
処置完了を告げる電子音が、部屋に響く。
ゆっくりと目を開けた俺の前に、シビラが立っていた。彼女は最終確認のため、手元のモニターにノアの顔写真を映し出す。
「この個体を見て、何を感じる?」
俺の唇が、自然に動いた。俺の“マスク”が、完璧な答えを返す。
「……システムの安定を脅かす、未処理のバグです。速やかに、初期化されるべきです」
シビラは、俺の瞳の奥を覗き込むように観察した後、モニターに表示された正常な脳波データに目を落とし、初めて、心から満足したように頷いた。
「よろしい。更生プログラムは、これにて完了です。対象レイ、あなたは本日より、社会復帰を許可します」
解放を告げるその言葉に、俺の“マスク”は、微かに頭を下げて見せた。
無表情のまま、俺は部屋を出て、どこまでも続く白い廊下を歩き出す。その足取りは、プログラムされた人形そのものだった。
だが、俺の意識は、全く別の場所にいた。
俺の心は、消えていなかった。
意識の奥深く、あの黄金色の光が守ってくれた繭の中で、静かに息をしている。だが、俺の身体を動かし、世界と対しているのは、もはや俺ではない。
俺は、自分自身の観客になったのだ。
『時は、いずれ来る』
あの声の主が誰なのか、なぜ俺を助けたのか、これから何をすべきなのか、今はまだ、何も分からない。
だが、今はそれでいい。
今はただ、この完璧な“人形”の仮面を被り、再びあの灰色の雨が降る舞台へと、静かに戻るのだ。