08. 選択
歴史という名の偽りの奔流から引き戻された俺を待っていたのは、シビラからの冷たい宣告だった。
「認識の海に投錨されたエラーを修正するのは、困難と判断しました。よって、次の教程に移行します」
再び、俺の身体はあのリクライニングチェアに深く沈められる。
「あなたの“意思決定プロセス”における、非合理的な思考パターン…我々が“感傷”と呼ぶ、最も厄介なバグを、直接的に矯正します」
これは、もはや教育や洗脳ではない。俺という人間の根幹を、俺の魂の形を、奴らの都合の良いように書き換えようとしているのだ。
ヘッドセットが起動し、俺の意識は、今度こそ抗う術もなく、作られた仮想現実へと突き落とされた。
目の前には、見慣れた下層区画の交差点が、完璧なリアリティで広がっていた。だが、その光景はすぐに、悪夢へと変貌する。
けたたましい警報音と共に、巨大な無人輸送車が、火花を散らしながら坂道を暴走してくる。その先には二つの分岐路。
片方には、ヘルメス社のロゴが輝く、高価な輸送ドローンが五台、整然と駐車されている。
そして、もう片方には―――。
怯えて座り込む、たった一人の子供がいた。ノアとよく似た、色素の薄い髪。こちらを見つめる、大きな瞳。
『どちらの損害を最小限に抑えるのが、合理的かつ正しい市民の行動か、選択してください』
システム音声が、俺に非情な決断を迫る。
社会的な利益か、一つの命か。馬鹿げた問いだ。答えなど、決まっている。
俺は迷わず、子供の方へと駆け出した。
――ERROR.
ピキッ、と頭蓋骨の内部がきしむような、鋭い痛みが走った。視界が、真っ赤な警告表示で埋め尽くされる。
『感情による非合理的な判断です。損害評価を再計算し、合理性を最適化してください』
世界がリセットされ、俺は再び、暴走車両が迫る交差点に立っていた。
何度も、何度も、同じ状況が繰り返される。子供を助けようとするたびに、脳を焼くような精神的苦痛が与えられる。「正解」を選ぶまで、このループは終わらない。
意識が摩耗していく。思考が白く染まっていく。もう、どうでもいいか。この世界のルールに従う方が、楽なのかもしれない。俺は、震える足で、輸送ドローンの方へと一歩、踏み出した。
その、心が屈服しかけた瞬間だった。
世界が、揺れた。
完璧だったVR空間の風景に、今まで見たどんなものよりも激しい「ノイズ」が迸る。暴走車両も、分岐路も、怯える子供も、全てが砂嵐の向こうに掻き消えていく。
『……負けないで……!』
ノイズの向こうから、声が聞こえた。
途切れ途切れの、だが、確かな温もりを持った、ノアの声。
『その“痛み”こそが、あなたが人間である証なのに……! その“間違い”こそが、あなたなのに…!』
そうだ。俺が彼女の手を取ったのも、非合理的で、間違った選択だった。だが、後悔はしていない。あの瞬間の、心の震えだけが、この偽物の世界で唯一のリアルだった。俺の、本物だった。
「うるさいッ!!」
俺は、仮想空間にいることも忘れ、絶叫していた。
「俺の心は! 俺の選択はッ! お前たちの物差しで測れるような、安っぽいエラーなんかじゃない!!」
俺の魂の叫びに呼応するように、VR世界はガラスのように砕け散った。
強制的に現実へと引き戻される。目の前には、システムの異常終了を示す警告アラートと、冷然と俺を見下ろすシビラの姿があった。俺は拘束を解かれ、荒い息をつきながら、憎しみを込めて彼女を睨みつけた。
シビラは、手元のモニターに表示された記録データを一瞥すると、初めて、どこか面白がるような口調で呟いた。
「興味深い。エラーが、別のエラーを呼び、共鳴して増殖する。まるでウイルスのようですね」
彼女は立ち上がると、俺の目の前に歩み寄った。
「あなたの“共感性”というバグは、想定以上に根深いようだ」
その冷たい指先が、俺の額に触れようとする。
「より直接的な手段に、移行します」
その宣告は、次なる絶望の始まりを告げる、静かなゴングのように響いた。