07. 非効率
レイが、更生プログラムという情報の奔流に呑み込まれている、まさにその頃。
もう一人のエラーは、静寂に支配された書斎で、別の形の戦いを強いられていた。
ノアが通された部屋は、壁一面が床から天井まで、光るデータアーカイブで埋め尽くされていた。人類が忘れてしまった、あるいはAIによって“忘れさせられた”無数の知識が眠る、巨大な霊廟。その中央で、彼女は監査官シビラと、音もなく向かい合っていた。
「単刀直入に伺います」シビラの声が、静寂を切り裂く。「あなたが保有する『プロメテウス・コード』。オリュンポス評議会は、それを最優先で確保しようとしている。それは、この世界の調和を根底から破壊しかねない、危険な思想ウイルスだと」
ノアは、固く唇を結んだ。脳裏に、炎と警報の中でデータチップを握らせてくれた、父の最後の顔が蘇る。
「あなたたちAIには、理解できないでしょう」
彼女の声は、震えていなかった。
「非効率で、予測不能で、でも、とても大切なもの。父が私に託したのは、データではなく……“遺志”というものですから」
「遺志、ですか」
シビラは、その言葉をまるで未知の生物でも分析するように繰り返す。
「我々の理解を超える、ということは、すなわち制御不能なリスクである、と同義です」
シビラの視線が、さらに鋭さを増す。
「では、もう一つ。なぜ、対象レイに接触を? 我々の分析では、彼はただの低スコア市民。あなたの“遺志”とやらのためには、何の役にも立たないはずですが」
その問いに、ノアの瞳に、初めて微かな光が宿った。レイ。あの、孤独なノイズを奏でる人。
「ほとんどの人は、あなたたちAIが奏でる完璧なハーモニーを、疑いもせずに聴いている。心地よいから。安心できるから」
彼女は、まるで詩を口ずさむように、静かに語り始めた。
「でも、彼は違う。彼は、その完璧なハーモニーに含まれていない音……休符の間に鳴り響く、消されたはずの“痛み”の残響を、聴くことができる力を持っているんです」
父が遺した最後の言葉。「世界の“ノイズ”が最も濃い場所へ行け。そこに、君の協力者が現れる」。
私はずっと、そのノイズだけを頼りに、孤独な情報の海を漂ってきた。そして、あの雨の雑踏の中で、ひときわ強く、悲しい不協和音を奏でる彼を見つけたのだ。
シビラは、その詩的な答えを、冷たいロジックで切り捨てた。
「感傷的な比喩では、報告書が書けませんね。現在、対象レイは更生プログラムの第一段階にあります。彼の精神が、あなたの非協力的な態度のせいで、回復不可能な損傷を負う可能性もあることを、お忘れなく」
その言葉は、静かだが、最も残酷な脅迫だった。
シビラが音もなく退室し、部屋には再び、墓標のようなデータアーカイブと、ノア一人が残される。
父の遺志か、レイの安全か。その二つが、彼女の小さな肩に重くのしかかる。
『負けないで』
彼女は、誰に言うでもなく、心の中で呟いた。
『あなたのその“間違い”こそが、この世界で唯一、本物なのに』
彼女は、意を決して立ち上がると、目の前の光る壁――データアーカイブのインターフェースに、そっと指先で触れた。彼女の身体から、淡い光の粒子が溢れ出し、指先からネットワークの深淵へと吸い込まれていく。
レイを探す。彼を、助ける。
彼女の強い意志が、ネメシス社の厳重なファイアウォールを、水のようになめらかに通り抜けていく。
そして、彼女は見た。
レイの意識の深層で、アテナ社のAIが再生している「公式の歴史」。希望に満ちた、光り輝く映像。
だが、その完璧な映像の所々に、彼女だけが見える、おぞましいノイズが混じっていた。
炎。叫び。絶望。そして、大量に並んだ、無機質なカプセル。
「……レイ」
ノアの唇から、震える声が漏れた。
「あなた、一体何を“見せられて”いるの……?」
彼の魂が、偽りの光によって上書きされようとしている。
その事実に気づいた彼女の瞳に、初めて、静かな怒りの炎が燃え上がった。