03. 出会い
情報管理局での「ゴミ掃除」は、魂のデフラグ作業に似ていた。
モニターを滝のように流れ落ちていく、意味をなさないエラーコードの奔流。それは、この完璧なシステムが毎秒吐き出し続ける、無数の矛盾の残骸だ。誰かの絶望の叫びか、AIが見た悪夢の断片か。俺はただ、無心でそれらを選択し、削除キーを叩き続ける。世界の平穏を維持するため、世界の綻びを、俺自身のような最底辺の人間が繕っている。なんとも滑稽な構図だった。
終業を告げるチャイムが鳴り、俺は再び灰色の雨が支配する外界へと吐き出された。
ヘルメス・ゲートを使えば、B-7の自室まで一瞬だ。だが、俺は時々、あの意識だけが浮遊する感覚を無性に避けたくなる時があった。今日は、そんな日だった。
俺は、華やかな大通りを避け、ネオンの光も届かない裏路地へと足を踏み入れた。AIたちの几帳面な管理が、ほんの少しだけ緩む、都市の隙間。そこは、廃棄された機械部品から漂うオイルの匂いと、絶え間ない水音が支配する、忘れられた場所だった。
その、静寂を破って。
闇の奥から、何かがこちらへ向かってくる気配がした。俺は壁の影に身を潜める。次の瞬間、一人の少女が、もつれるようにして路地に転がり込んできた。
雨に濡れた髪、擦り切れた機能的なジャケット。この世界の誰もが装着しているARコンタクトすら、彼女は着けていなかった。だが、何よりも俺の目を引いたのは、その瞳だった。怯えながらも、その奥に燃えるような、強い光。俺がこの街で見てきた、どんな人間とも違う、本物の「意志」の光だった。
彼女は、息を切らしながら俺の姿を認めると、見開いた目で、震える唇で、こう言った。
「……やっと、見つけた」
その言葉の意味を問う前に、路地の入り口が、赤い光で染まった。
アレス社の、昆虫じみた多脚歩行をする警備ロボットが、複数の赤い単眼を不気味に明滅させながら、こちらを捕捉していた。
『対象を発見。非許諾の生体コードを保持。これより捕獲モードに移行します』
その合成音声は、慈悲のかけらも感じさせない、純粋な殺意の響きをしていた。
逃げろ。脳が、合理的な判断を下す。関わるな。これはお前の問題じゃない。ヘラ社のスコアが、また下がるぞ。
俺は踵を返し、この場から消え去ろうとした。彼女に背を向け、一歩、踏み出した。
「待って!」
悲痛な声が、俺の足を縫い留める。
「あなたの“ノイズ”が、遠くからでもよく分かるの。あなただけが、この狂った世界の音程のズレを、ちゃんと感じてる!」
ノイズ。ズレ。
俺だけが感じていた、世界の違和感。俺が「後遺症」だと思い込もうとしてきた、魂の孤独。
この少女は、それを知っている。それを、理解している。
そうだ。あれは俺個人の問題なんかじゃない。
あれは、俺が毎日モニター越しに削除している、あの無数のエラーログと同じなんだ。
この完璧に見える世界が、そのシステムの奥底で吐き出し続ける、悲鳴のような“バグ”そのものじゃないか。
俺は、ゆっくりと振り返った。
警備ロボットが、カシャ、カシャ、と関節を鳴らしながら、距離を詰めてくる。
少女の瞳が、まっすぐに俺を射抜いていた。その瞳は、助けを乞う憐れなものではなかった。それは、同じ世界を見てしまった共犯者に、共に戦うことを求める、同志の瞳だった。
合理的な思考が、焼き切れる。
市民スコアなど、どうでもよくなった。
平穏な日常など、初めから存在しなかったのだ。
俺は、追手の赤い光が迫る中、彼女に向かって駆け出していた。
そして、そのか細い腕を、力強く掴んだ。
「こっちだ。走れ!」
その選択が、この完璧に調律された世界の楽譜に、取り返しのつかない不協和音を刻むことになるとも知らずに。
俺はただ、初めて見つけた、自分と同じ“エラー”を、この世界の理不尽な削除キーから守りたいと、そう、強く願っていた。