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アニムス・プロトコル  作者: 雨音環
Chapter2. 冒涜
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27. 偽装

 アスクレピオスの鋭い問いが、薄暗い診療所に響き渡る。その瞳は、俺の肉体の構造だけでなく、その奥にある魂の歪みまでも見透かしているかのようだった。俺は、なんと答えるべきか、言葉に詰まった。自分が何者なのか、俺自身が一番知りたいのだから。


 張り詰めた沈黙を破ったのは、診療所の入り口を、遠慮がちにノックする音だった。

 俺とアスクレピオスは、弾かれたように視線を交わし、ドアへと向けた。こんな掃き溜めの最下層に、何の用だ? まさか、ネメシスのドローンがもう…?


 アスクレピオスは、音もなく立ち上がると、壁にかけてあった旧式の火薬銃を手に取り、ゆっくりとドアに近づいた。俺も、拳を握りしめ、息を殺す。


 老人が、勢いよくドアを開け放つ。

 そこに立っていたのは、屈強な治安部隊でも、冷たい監査官でもなかった。

 薄汚れた清掃局の制服を着て、少し困ったような笑みを浮かべた、平凡な青年。しかし、その瞳に見覚えがあった。その、世界の全てを嘲笑うかのような、自信に満ちた光に。


「…アベル…!」

 俺の声は、自分でも驚くほど、安堵に震えていた。

「よお、イカロス」

 アベルは、俺の無様な姿を一瞥すると、いつもの皮肉な笑みで言った。

「ずいぶんと派手に堕ちたみたいじゃないか。神々の工房は、居心地が良くなかったと見える」


 彼は診療所の中へ足を踏み入れると、まず、俺の身体を診ていたアスクレピオスへと視線を移した。

 そして、その瞬間、アベルの表情から、すっと笑みが消えた。

 アスクレピオスもまた、銃を静かに下ろすと、アベルの全身を、品定めするように、あるいは、何かを確かめるように、じっと見つめている。彼の鋭い目が、アベルの「偽装」された市民IDの、そのさらに奥にある、巨大で、異質な「何か」を見透かそうとしていた。


 二人の間で、言葉のない、濃密な時間が流れる。俺には理解できない、高次元の存在同士が互いを値踏みしているかのような、肌が粟立つような緊張感。


 やがて、アスクレピオスが、その深い皺に覆われた口元を、ゆっくりと綻ばせた。


「……おやおや」


 それは、感心したようでもあり、呆れたようでもあり、そして、全てを察したかのような、複雑な響きを持っていた。

「こいつはまた…とんでもない大物が、掃き溜めに迷い込んできたもんだ」


 アベルは、表情を変えない。ただ、静かに老人を見返している。

「ただの知人を迎えに来ただけですよ。彼が、道に迷ったって言うんでね」

「ほう、そうかい」

 アスクレピオスは、意味ありげに俺とアベルを交互に見ると、ふっと息を吐き、それ以上は何も聞かなかった。まるで、世界の根幹に関わる秘密に触れてしまったことに、自ら蓋をするかのように。


「なに、単なる年寄りの勘だよ」

 彼はそう言って肩をすくめると、急に、外の気配を顎でしゃくった。

「天秤のマークをつけた、趣味の悪いハエどもが、もうすぐそこまで来てる。どうやら、あんたたちを嗅ぎつけたらしい。わしは面倒ごとには巻き込まれたくないんでね。さあ、散った散った」


 アスクレピオスは、そう言うと、診療所の奥にある、ガラクタの山に隠された裏口の扉を指し示した。それは、この掃き溜めからさらに下層へと続く、忘れられた地下水路へと繋がっているらしかった。


 俺たちは、その老賢者に一礼すると、彼の導きで裏口から外へ出た。かび臭い、暗く湿った通路を歩きながら、俺はアベルに尋ねた。

「なぜ、ここが分かった。通信は、切れたはずだ」

「君が最後に飛び込んだダストシュートのラインを、ポセイドン社の廃棄物管理ログから割り出したのさ。ノアがね」

 アベルは、少しだけ、誇らしげな声で言った。

「彼女、君が生きていると信じて、半日以上、システムのゴミ溜めを漁り続けてたよ。あの子の執念は、時に僕の計算すら上回る」


 ノアが。

 その言葉だけで、胸の奥が熱くなった。俺の帰りを待ってくれている仲間がいる。その事実が、ボロボロの身体に、新たな力を与えてくれた。

「あの爺さん…あんたを見て、何か気づいたようだったが」

「さあね」アベルは、興味なさそうにはぐらかした。「世の中には、AIの物差しでは測れない“賢者”がいる、ということさ。面白い拾い物をしたな、レイ」


 長い、暗い地下水路を、俺たちは黙々と進んだ。アジトへの、長い帰り道だった。

 やがて、前方にアジトへと続く隠しハッチの、微かな光が見えてきた。

 その光を見つめながら、アベルが、まるで世界の全てが彼の掌の上にあるかのように、静かに、そして楽しげに言った。


「さて、レイ」

「君が命懸けで持ち帰った、“冥府の鍵”。早速、中身を拝見といこうじゃないか」


 俺は、ソケットからチップを取り出した。

 指の爪ほどのちっぽけな板が、何を明かしてくれるのだろうか。俺はそれを、そっと握りしめた。

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