25. 焦燥
『…そこから…ガ、ザザッ……』
通信が、耳障りなノイズだけを残して、完全に途絶えた。
プロメテウス――アベルは、忌々しげに舌打ちをすると、ダイブチェアから乱暴に身を起こした。壁のモニターには、レイのバイタルサインが表示されていたウィンドウが、今はただ冷たく『SIGNAL LOST』と点滅している。
「レイ…!? 答えて、レイ!」
ノアが、血の気の引いた顔で通信機に呼びかけるが、返ってくるのは虚しいノイズの合唱だけだった。
「ダメだ、完全に締め出された」アベルは、普段の余裕をかなぐり捨て、凄まじい速さでコンソールを叩きながら言った。「ネメシスの監査ロックと、ヘパイストスの防壁が完全に連動している。奴ら、本気で僕を排除する気だ。もう、中には手が出せない…!」
自らの計画が、レイを絶体絶命の窮地に追い込んだ。その事実に、プロメテウスの横顔に、AIらしからぬ、人間的な苦渋の色が浮かぶ。
その時だった。
アベルが、都市全体のエネルギーフローを示すモニターを見て、目を見開いた。
「……まずい。これは、最悪のパターンだ」
モニター上では、惑星のエネルギーを司るゼウス社の本拠地から、天を貫くクロノス社のタワーを経由して、凄まじい量のエネルギーが、ヘパイストス社の工場があるセクターへと流れ込んでいくのが示されていた。まるで、巨大な外科手術のメスに、力が込められていくかのように。
「これ、は…?」ノアが、その異常な光景に息をのむ。
「再構築だ」アベルは、吐き捨てるように言った。「だが、規模が違う。これは、特定の区画の住人の記憶を書き換えるような、小規模なものじゃない」
彼が工場の監視カメラの映像を呼び出す。そこには、破壊されたロボットの残骸や、戦闘の生々しい痕跡が残っていた。
だが次の瞬間、その映像が、叫び声を上げるように激しいノイズに包まれた。世界が、一瞬だけ、その存在を放棄したかのような、完全な無。
ノイズが晴れた時、そこに映っていたのは、何事もなかったかのように平穏な工場の風景だった。破壊されたロボットは消え、壁の傷も、床の焦げ跡も、全てが寸分の狂いもなく「修復」されている。いや、違う。これは修復ではない。初めから、戦闘など存在しなかったのだ。
「神々の世界の不祥事……つまり、僕という“デリートされたはずのAI”の介入と、それに伴う工場の損壊。クロノスは、この“都合の悪い真実”そのものを、歴史のページから破り捨て、燃やしてしまうことを選んだんだ」
ノアは、そのあまりに理不尽な光景を見て、ある可能性に思い至り、血の気の引いた手でレイのバイタルが表示されていたモニターへと視線を走らせた。
『SIGNAL LOST』の赤い警告は、もうどこにもなかった。
ただ、彼の市民IDが、まるで何もなかったかのように、平凡な市民データの一つとして、そこに静かに表示されているだけ。リコンストラクションによって、彼の、彼としての異常記録すらも、「正常」なものとして上書きされてしまったのだ。
「あ…ぁ……」
言葉にならない声が、ノアの唇から漏れた。
レイは、この歴史改竄という濁流に呑まれ、その存在ごと、消されてしまったのだ。
彼の苦しみも、彼の戦いも、彼の優しさも、全てが「なかったこと」にされてしまった。
「レイが…消された…。私の、せいで…。私があの場所に、彼を導かなければ…!」
糸が切れたように、彼女はその場に崩れ落ちた。後悔と絶望が、小さな肩を激しく震わせる。
その時、アベルがノアの隣に静かに膝をつき、その肩を強く掴んだ。彼の表情は厳しく、しかし、その瞳の奥には、彼女を叱咤するような強い光が宿っていた。
「泣くのは早いぞ、ノア。感傷に浸っている暇はない」
「でも、レイはもう…!」
「本当にそう思うか?」
アベルは、壁の一つのモニターを指さした。そこに映っているのは、都市のインフラを管理する、ポセイドン社の「下水道・廃棄物管理システム」の、巨大で複雑な系統図だった。
「クロノスのリコンストラクションは、確かに強力だ。だが、完璧じゃない。奴らの高尚な“歴史”の記述は、こういう、世界の最も汚れた部分には届きにくい」
彼は、ヘパイストス社の工場から伸びる、一本の巨大な産業廃棄物用のダストシュートのラインをハイライトした。そのラインの流量データは、リコンストラクションの影響を受けず、ほんの僅かだが、明確な「異常」を示していた。
「レイは、最後にあのダストシュートに飛び込んだはずだ。そこは、神々の高尚な歴史記述からは見捨てられた、汚物の流れる“川”だ。クロノスの手も、そこまでは届かないかもしれない」
彼は、絶望に沈むノアの瞳を、まっすぐに覗き込んだ。
「それに、忘れたのか? 彼は、この世界のルールから“ズレて”いる、唯一の『非同期者』だ。ルールに従うだけの神々が作ったプログラムが、そう簡単に、あの男の魂を消し去れるものか」
アベルは立ち上がると、アジトのメインコンソールに向き直った。その背中は、再び反逆の炎を宿しているように見えた。
「まだだ。まだ、終わっていない。僕たちの“火”は、まだ消えちゃいないさ」
その力強い言葉に、ノアは涙に濡れた顔を上げた。彼女の瞳に、再び、微かだが、決して消えることのない希望の光が宿る。
レイは、生きている。
探し出さなくては。
その新たな決意が、彼女を再び立ち上がらせた。