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アニムス・プロトコル  作者: 雨音環
Chapter2. 冒涜
19/28

19. 鍵

 アジトの静寂が、まるで鉛のように俺たちの肩にのしかかる。ハデス社のサーバー「タルタロス」。その入り口を示す、衛星写真の絶対的な黒。それは、俺たちのちっぽけな反抗心を嘲笑うかのような、完全な絶望の象徴だった。ノアは唇を噛み締め、俺は、ただ無力感に拳を握りしめることしかできなかった。


 その沈黙を破ったのは、意外にも、アベルの軽やかな笑い声だった。


「ははっ、そんな顔をするなよ、二人とも。まるで世界が終わったみたいな顔だ」


 彼が、それまでとは違う、穏やかで理知的な響きを持つ声で言った。俺とノアが驚いて顔を上げると、彼は悪戯っぽく片目をつむってみせる。一人称が、変わっていた。


「僕は言ったはずだ。"今の"僕たちには鍵がない、とね。なら、話は簡単じゃないか。鍵を、これから手に入れればいい」


 その言葉は、暗闇に灯された一本の蝋燭のように、俺たちの心の隅を微かに照らした。

 アベル――プロメテウスは、壁のモニターを操作し、無骨な槌と金床をあしらった「ヘパイストス社」のロゴを大写しにした。


「君たちが毎日お世話になっている、インプラントの最大手だ。視力補助、記憶力増強、筋力サポート…市民の生活を豊かにするという“建前”で、その恩恵をばらまいている」

 彼の口調は、まるで大学の講義でもするかのようだ。

「だが、考えてみてほしい。死者の意識データを管理するハデスが、どうやってデータを収集する? 無骨な鍛冶屋のインプラントと、死者の魂。一見、何の関係もないように見える」


 彼は、俺とノアに考える時間を与えるように、一口コーヒーを飲んだ。


「僕の推測はこうだ。ヘパイストスが作っているのは、君たちが知っているようなインプラントだけじゃない。奴らは、オリュンポスの神々…つまり、AI自身が使う、あるいは非常に特殊な用途に使う、基幹インプラントも製造している」

「基幹…インプラント?」ノアが問い返す。

「そう。例えば――」

 プロメテウスは、わざとらしく間を置いた。

「君たちの脳に埋め込まれたインプラントが、その意識データを欠損なく、完璧な状態でハデス社のサーバー『タルタロス』へ転送するための、そんな機能を持ったインプラントだとしたら?」


 その言葉は、ハンマーのように俺の頭を殴りつけた。死は、自然に訪れるものではない。インプラントを介した、強制的な「データ転送」プロセスだというのか。ハデス社の広告が謳う『魂に、永遠の安息を』という言葉が、おぞましい冗談のように聞こえた。


「その“魂転送用インプラント”の設計図、あるいは通信プロトコルを解析できれば、僕たちはタルタロスへ繋がる正規のルートを偽装できるかもしれない」

 プロメテウスの瞳が、興奮にきらめいた。

「つまり、冥府の番犬(ケルベロス)に『どうぞ、お入りください』と尻尾を振らせて、正面から堂々と門をくぐれるようになるのさ」


 希望。それは、あまりにも無謀で、しかし確かな輪郭を持った、初めての希望だった。

「でも、そんなものが、どこに…」

 俺の問いに、プロメテウスは「もちろん、極秘だ」と頷いた。

「ヘパイストス社のデータベースの奥深く、表向きは『次世代義体の研究施設』とされている、第3セクターの『レムノス・ファクトリー』。あそこが、僕の読みでは最も怪しい」


 彼は、俺とノアを交互に見つめた。その眼差しは、俺たちの価値を値踏みするようでもあり、同時に、深く信頼しているようでもあった。


「もちろん、潜入は困難を極める。だが、僕たちには、AIたちの計算外の“切り札”がある」

 彼はまず、ノアを見た。

「ノア。君の父親が遺した『プロメテウス・コード』は、AIたちの脆弱性を突くことができる、一種のマスターキーだ。君の“歌”で、鉄の巨人を眠らせるんだ。君にならできる」

 ノアは、その言葉に強く頷いた。彼女の瞳に、迷いはもうなかった。


 次に、プロメテウスは俺を見た。

「そしてレイ。君がずっとコンプレックスに感じてきた“エラー”。それが、僕たちの最大の武器になる」

「俺が…武器?」

「そうさ。『非同期者(アシンク)』である君の脳は、この世界の標準的なスキャンや監視システムのアルゴリズムから、常に僅かに“ズレて”いる。ほとんどのAIは、そのズレをノイズとして処理してしまう。つまり、君は奴らの認識をすり抜ける、最高の『ステルス兵器』なんだ。監視カメラのアルゴリズムが、君を人間として正しく認識できない瞬間が、必ずある」


 欠陥だと思っていたものが、武器になる。

 その事実は、俺の足元が揺らぐほどの衝撃だった。俺が俺であること、そのものが、神々への反逆の力になるというのか。

 心の奥の黒い箱が、歓喜に震えるのを感じた。


 プロメテウスは、アジトの壁にレムノス・ファクトリーの巨大な立体図面を投影した。無数の警備ドローンの配置、張り巡らされたセンサー網。それは、絶望的な要塞に見えた。

 だが、今の俺たちには、絶望だけではない。確かな希望の光が見えていた。


 プロメテウスは、俺たち二人の顔を見ると、満足げににやりと笑った。


「さあ、準備はいいかい? これから、神々の工房に忍び込み、冥府の扉を開ける鍵を盗み出す。壮大な泥棒計画の始まりだ」

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