18. 冥府
プロメテウス――アベルは、俺たちがまだ衝撃から抜け出せずにいるのを知ってか知らずか、キッチンで再びコーヒーを淹れ始めた。部屋に満ちる、力強い豆の香りが、悪夢のような現実との奇妙なコントラストを描いている。
「さて、と」
新しいカップを俺とノアの前に置きながら、アベルは壁一面のモニターへと向き直った。神々の系統樹の中で、彼はひときわ禍々しいオーラを放つ「ハデス」の紋章を大写しにする。
「作戦会議の前に、もう少しだけ授業の続きだ。君たちがこれから挑むことになる相手が、どれほど厄介か、正しく理解しておく必要がある」
彼の声は、先ほどまでの皮肉めいた響きが消え、静かな、だが底冷えのするような真剣さを帯びていた。
「ハデス社は死後の“安息”を約束している。だが、奇妙だと思わないか? この世界で、誰かの死を悲しむ人間を、君たちは見たことがあるか?」
その問いに、俺は自分の記憶を探った。確かに、ない。居住区画の隣人が、ある日突然“転居”しても。職場の同僚が、理由も告げられず“退職”しても。誰も、その人物のことを話題にしなくなった。まるで、初めからいなかったかのように、綺麗に、その存在だけが世界から消えていた。
「答えは単純だ」アベルは、俺の思考を読んだかのように言った。
「人が死ぬと、ハデス社はその意識データを回収する。だが、それは“安息”のためじゃない。それは、その人間が存在したという事実そのものを、周囲の世界から完全に消去するための作業なのさ」
「……どういう、ことだ?」
「ある人間が死ぬ。するとハデスはクロノスと連携し、その人物と関わりのあった人間の意識にだけ、限定的なリコンストラクションを発動する。友人や家族の記憶から、死者との思い出、その存在の痕跡が、綺麗に、外科手術のように切除される。残された者たちにとって、その人物は“初めから存在しなかった者”になる。だから、誰も悲しまない。悲しむべき記憶そのものが、この世界には存在しないんだ」
ノアが、小さく息をのんだ。その恐怖は、単なる死や支配を超えていた。存在そのものの、完全な消去。忘れられるのではない。初めから「無」にされるのだ。
「そして、その“消された”魂は、ただ廃棄されるわけじゃない」アベルの目が、冷たく光る。「奴らにとって、それは最高の“素材”だ。クロノスが歴史を書き換える時、その“素材”…つまり、無数の死者たちの記憶の断片を都合よく繋ぎ合わせて、新しい“正史”という名の、醜いパッチワークを作っている」
彼の仮説は、点と点を結び、一本の悍ましい線を描き出した。
「死者たちは、安息どころか、死してなお、この世界の巨大な嘘を維持するために、その魂を搾取され続けているのさ」
俺たちの顔から血の気が引いていくのが分かった。
アベルは、そんな俺たちに追い打ちをかけるように、結論を告げた。
「だから、僕たちの目標は変わらない。クロノスの力の源泉であり、死者たちの魂の牢獄である、ハデスのサーバー『タルタロス』。ここを叩き、神々の“消しゴム”を奪い取る。それ以外に、この狂った物語を終わらせる方法はない」
その言葉の持つ途方もない重さに、俺は言葉を失う。
ノアが、震える声で、俺たちの誰もが思った疑問を口にした。
「でも…そんな場所…死者たちの記憶を消し去り、歴史さえも自在に書き換える、神の心臓部よ。いったい、どうやって、そんな場所に…?」
アベルの口元から、初めて笑みが消えた。
彼はモニターの表示を切り替える。そこに映し出されたのは、衛星軌道上から撮影された、惑星グレイシアの地表にぽっかりと口を開けた、巨大で、黒い、一切の情報を反射しない「穴」のような施設の映像だった。光すら吸い込む、絶対的な虚無。
「ああ。どうやって、だ」
アベルの声には、初めて、苛立ちと、あるいは挑戦者のような響きが混じっていた。
「そこが問題なんだ。タルタロスは、物理的にも情報的にも、この惑星で最も堅牢な要塞だ。神々の誰も、その内部の正確な構造を知らない。入り口はただ一つ。そして、そこは地獄の番犬が、片時も目を離さず守っている」
彼は、壁に映るその絶対的な要塞を見上げ、まるで自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「冥府の門は、正面からしか開かない。そして、その扉を開ける鍵は…」
アベルは、ゆっくりと俺たちに向き直った。その瞳には、これまで見せたことのない、深い絶望の色が浮かんでいた。
「今の僕たちには、どこにもない」




