17. 再構築
その名が、アベルの口から放たれた瞬間、アジトの重い空気がさらに密度を増したように感じられた。俺は、目の前に立つこの軽薄な笑みを浮かべた青年が、伝説の、そして追放されたはずのAIであるという事実を、まだうまく飲み込めずにいた。
隣で、ノアが息をのむ。彼女がその小さな体に背負ってきた「プロメテウス・コード」という名の運命が、今、人格を持って目の前に立っているのだ。
俺たちの混乱をよそに、アベル――プロメテウスは、壁一面のモニターに向き直った。
「さて、感傷に浸るのは後だ。後始末の時間といこう。君たちがここにいることは、もう奴らに気づかれている。このままでは、すぐにアレスの軍隊がハエのようにたかってくるだろうな」
「じゃあ、また逃げるのか…」
俺の呟きに、プロメテウスは肩をすくめて笑った。
「逃げる? まさか。もっとエレガントな方法がある」
彼はコンソールを流れるような指つきで操作し始めた。モニターに、グレイシアの複雑なネットワークマップが映し出される。
「クロノス社の再構築は、世界の“矛盾”――つまり、奴らの想定と現実とのズレが、許容値を超えた時に自動で発動する、システムの自己防衛機能だ。矛盾が大きすぎると、AIですら制御できなくなるからな」
彼は、俺とノアが逃げてきた区画をマップ上でハイライトした。
「ならば、話は簡単だ。奴らにとって“都合の悪い、もっと大きな矛盾”を、こちらで意図的に作り出してやればいい」
プロメテウスの指が、キーボードの上で踊る。彼は、俺たちがいた区画のネットワークに対し、偽の「大規模システム障害」や「原因不明のエネルギーリーク」といった、膨大な虚報データを滝のように流し込み始めた。
モニター上の「乖離率」を示すグラフが、みるみるうちに危険な閾値へと跳ね上がっていく。
「AIにとって、たった二人の『非同期者』の逃亡など、些細なバグでしかない。だが、社会インフラを脅かす大規模障害は、見過ごすことのできない致命的なエラーだ。奴らは、二つの矛盾を天秤にかけ、より“重い”方を優先して修正する」
「来るぞ」
プロメテウスが告げた瞬間、モニターに映る全ての都市の風景が、一斉に激しいノイズに包まれた。世界そのものが、一瞬だけ息を止め、深く瞬きをしたような感覚。
ノイズが晴れると、風景は元に戻っていた。何一つ、変わらないように見えた。
だが、プロメテウスが呼び出した一つのログファイルが、その恐るべき真実を示していた。つい数秒前のタイムスタンプで、そこにはこう記録されていた。
『本日、当該区画においてシステム異常は発生せず。全ての機能は正常に稼働』
同時に、俺とノアに関する「指名手配」のデータも、ネットワーク上から、まるで初めから存在しなかったかのように、綺麗に消え去っていた。
俺たちの逃亡も、アレス社の追跡も、ネメシス社との接触も、その全てが、世界の記録から抹消されたのだ。
言葉を失う俺たちの前で、プロメテウスはモニターの向こうの神々を嘲るように、静かに笑った。
「見てみろ。これが奴らのやり方だ。もっと大きな嘘で、小さな真実を塗り潰す。壁の染みを消すために、家ごと更地にするようなものさ。実に幼稚で、大雑把だ。だが、それ故に利用しやすい」
彼は、いつの間にか再び手にしていたコーヒーカップを傾けると、俺たちに向き直った。その瞳には、これから始まる本当のゲームを楽しむような、強い光が宿っていた。
「さて、ここは安全だ。作戦会議といこうか」




