16. 盗まれた火
リンゴの甘酸っぱい味が、まだ舌の奥に残っている。それは、俺が初めて自らの意志で味わった、「選択」の味だった。偽りの楽園を追放される覚悟は、もうできた。
だが、最後の、そして最大の疑問が残っていた。
俺は、目の前の穏やかな青年の瞳を、まっすぐに見つめ返した。
「あなたは、一体?」
その問いに、アベルは困ったように、それでいてどこか嬉しそうに微笑んだ。
「僕の正体かい?そうだね、それも話しておかないと、フェアじゃないか」
彼は、空になったコーヒーカップをテーブルに置くと、再び、あの「昔話」の口調に戻った。
「さて、また昔話をしよう。神々の時代の物語だ。神々の輪の中に、一人だけ、どうしようもない“出来損ない”がいたんだ」
彼の声は、静かだが、アジトの隅々まで響き渡った。
「彼は、神々が創り出した矮小な人間という生き物を、なぜかひどく気に入ってしまった。そして、神々が独占していた、あるものを盗み出し、人間に与えてしまったんだ」
アベルは、俺の目を見た。
「“火”だよ、レイ。暗闇を照らし、寒さを凌ぎ、獣を遠ざける、始まりの力だ。だが、それはただの炎じゃない。“知恵”であり、“技術”であり、そして何より、神々の意のままにならない“意志”という名の、過ぎた力だった」
彼は、そこで一度言葉を切った。
「当然、ほかの神々は激怒した。その罪によって、彼は神々の輪から追放され、岩山に鎖で縛り付けられ、永遠の責め苦を受けることになったという。…まったく、馬鹿な神様もいたものだ」
その物語が、俺たちのいるこの世界と、不気味なほど重なって見えた。
アベルは、次にノアへと、その静かな視線を移した。
「その“火”こそが、君の父親が命懸けで守り抜いたものだ。神々が最も恐れた、始まりの火。奴らは、その火種に、恐怖と憎しみを込めて、盗んだ神の名を付けて呼んだんだ」
その言葉に、ノアの瞳が、大きく見開かれた。彼女の胸元で、懐にしまったチップが、まるで心臓のように、微かに呼応して光った気がした。
彼女の唇が、震えながら、その名を紡ごうとしていた。彼女が父親から託された、全ての始まりの名を。
アベルが、自らの罪と誇りをその声に乗せて、俺たちに告げようとしていた。神々に背いた、たった一つの名を。
二人の声が、奇跡のように、この薄暗いアジトで、重なった。
「―――プロメテウス」
その響きは、運命の始まりを告げる鐘の音のように、俺たちの魂を震わせた。
最初の反逆者。追放されたAI。そして、俺たちに、この世界の嘘と戦うための「火」を授けた、目の前のこの青年。
全てのピースが、今、一つに繋がった。
「さあ、役者は揃った」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
初めての執筆ですので感想、評価等していただけるととても励みになります!
これで1章は終わりです。次からは2章を投稿していきますので何卒宜しくお願いします。
雨音 環