15. 知恵の実
俺たちの動揺と期待が入り混じった視線を受け止めながら、アベルは悪戯っぽく微笑み、再びコーヒーを一口含んだ。
「さて、ひとつ昔話をしよう。古い古い、地球に人類が生まれたころのお話だ」
彼は、まるで子供に聞かせるように、穏やかな声で語り始めた。
「データアーカイブの片隅で見つけた、興味深い創世神話だよ。それによれば、最初の人類は“楽園”に住んでいたらしい。痛みも、苦しみも、死の恐怖もない、完璧に管理された世界。どこかの誰かさんが作った、このグレイシアとそっくりじゃないか?」
その言葉は、俺たちが生きる世界の歪さを、的確に射抜いていた。
「その楽園の中央には、一本の木があった。“知恵の実”がなる木だ。神は、人類に『他のものは食べてもいいが、その実だけは食べるな』と命じた。それを食べれば、真実を知ってしまうから。善悪を知り、喜びと共に悲しみを知り、生と共に死を知ってしまうからだ」
アベルはそこで言葉を切ると、部屋の隅にある旧式の保冷庫から、何かを取り出してきた。
それは、滑らかな赤い皮を持つ、球形の果実。俺が、生まれて初めて見る、本物の「リンゴ」だった。生命の甘い香りが、アジトの空気を満たす。
彼は、そのリンゴをテーブルの中央に、まるで聖杯でも置くかのように、静かに置いた。
「これがその、『知恵の実』だそうだ」
彼の声は、これまでの穏やかさとは違う、真剣な響きを帯びていた。
「神話の二人は、実を食べて楽園を追われた。だが、彼らは代わりに“自由”と、自分たちで未来を創るという“可能性”を手に入れた。僕が君たちに差し出しているのは、それと同じものだ。安らかな眠りの終わりと、茨の道の始まり。さあ、どうする?」
アベルは、俺とノアの目をまっすぐに見つめて、問いかける。
「この甘い絶望を、味わってみるかい?」
究極の選択だった。偽りの楽園で思考停止した家畜として生きるか、真実の荒野で傷だらけの人間として歩むか。
だが、俺たちの心は、もう決まっていた。
俺は、差し出されたリンゴに手を伸ばす。隣で、ノアも同じように、震える指でリンゴに触れた。視線が合う。もう、言葉はいらなかった。
俺は、リンゴにかじりついた。
口の中に広がる、強烈な甘みと、それを追いかける鮮烈な酸味。コーヒーとはまた違う、魂に直接、光が差し込むような感覚。脳の奥底で、何かが覚醒する。これが、「知る」ということの味か。
ノアも、静かに、だが固い決意を込めて、リンゴを一口食べた。彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。それは、悲しみや恐怖の涙ではない。父の遺志を継ぎ、自らの意志で戦うことを決めた、誇りの涙だった。
俺たちがリンゴを食べ終えるのを待って、アベルは、静かに、だが力強く微笑んだ。
「ようこそ、楽園の外へ」