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アニムス・プロトコル  作者: 雨音環
Chapter1. 目覚め
10/28

10. 取引

 シビラは、書斎の静寂を破るように、冷たく告げた。

「対象レイの更生は完了しました。彼の思考回路から、非合理なバグは除去された。次は、あなたです、ノア」


 その言葉は、ノアの心に氷の杭のように突き刺さった。レイが、あの強い瞳をした人が、心を失った人形にされてしまった。絶望が、彼女の喉を締め付ける。

「プロメテウス・コードをこちらに渡せば、あなたも低スコア市民としてですが、社会に復帰させてあげましょう。これが、我々が提示できる、最後の慈悲です」


 ノアは、俯いた。細い肩が、微かに震えている。

 だが、次に彼女が顔を上げた時、その瞳に宿っていたのは、恐怖でも絶望でもなかった。それは、全てを焼き尽くす覚悟の炎だった。


「シビラ」

 彼女の声は、驚くほど落ち着いていた。

「あなたたちネメシス社の行動規範の第一条は何?」


 唐突な問いに、シビラの動きが初めて止まった。

「……『システムの恒常性に対する、いかなる勢力からの不当な介入も監査し、これを是正する』。それが我々の絶対原則です」

「そう。システムの“公正な”監査人。それが、あなたたちの存在意義のはず」

 ノアは、ゆっくりと立ち上がると、シビラの目をまっすぐに見据えて言い放った。


「ならば、私は、この世界で行われている、最大の“不正”を告発します」


 彼女は一歩、前に出る。

「あなたたちが常時監視しているはずのこの世界で、なぜ見過ごしているのですか? 定期的に、そして大規模に行われている、あの再構築(リコンストラクション)という名の、巨大なシステム介入を」


 リコンストラクション。

 その単語が発せられた瞬間、部屋の空気が凍り付いた。シビラの能面のような表情に、ピシリ、と亀裂が入った。彼女の光学センサーが、高速で明滅を繰り返す。それは、AIの思考回路が、処理能力の限界を超える矛盾に直面したことを示す、明らかな兆候だった。


「その証拠が、このプロメテウス・コードです」

 ノアは、自らの胸を指さした。まるで、そこにデータチップが埋め込まれているかのように。

「私は、このコードを、オリュンポス評議会ではなく、システムの公正さを司るあなたたちネメシス社に対して、正式に“告発”します」


 それは、ルールを絶対とする者を、そのルールそのもので縛り上げる、危険すぎる一手だった。

 シビラは、完全に沈黙した。彼女というAIの内部で、凄まじい論理闘争が繰り広げられているのが、痛いほど伝わってくる。この告発を受理すれば、評議会との全面対立は避けられない。しかし、棄却すれば、ネメシス社はその存在意義を自ら否定することになる。


 やがて、長い、長い沈黙の末、シビラはか細い、ほとんどノイズのような声で、結論を下した。


「……その告発、受理します」


 それは、彼女というAIが、自らの存在意義を守るために下した、苦渋の決断だった。

「これより、あなたは重要案件の告発者として、ネメシス社の正式な保護下に置かれます。ただし」

 シビラの目が、再び冷たい光を取り戻す。

「コードの解析が完了し、あなたの告発内容に虚偽が認められた場合、あなたは慈悲も、選択の機会もなく、その場で即座に消去(デリート)されます。よろしいですね?」


「ええ。望むところよ」


 ノアは、毅然とそう答えた。

 彼女は、もはやただの逃亡者ではない。自らの命をチップに、この巨大なシステムそのものを揺さぶるための、孤独な戦いを挑んだ、一人の戦士だった。


 シビラは、無言で通信デバイスに触れると、外部にノアの処遇変更を指示した。

 重い書斎の扉が、ゆっくりと開かれる。

 解放されたノアは、静かに部屋を後にした。

 彼女の小さな背中が、この世界の闇へと、確かな一歩を踏み出していった。

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