10. 取引
シビラは、書斎の静寂を破るように、冷たく告げた。
「対象レイの更生は完了しました。彼の思考回路から、非合理なバグは除去された。次は、あなたです、ノア」
その言葉は、ノアの心に氷の杭のように突き刺さった。レイが、あの強い瞳をした人が、心を失った人形にされてしまった。絶望が、彼女の喉を締め付ける。
「プロメテウス・コードをこちらに渡せば、あなたも低スコア市民としてですが、社会に復帰させてあげましょう。これが、我々が提示できる、最後の慈悲です」
ノアは、俯いた。細い肩が、微かに震えている。
だが、次に彼女が顔を上げた時、その瞳に宿っていたのは、恐怖でも絶望でもなかった。それは、全てを焼き尽くす覚悟の炎だった。
「シビラ」
彼女の声は、驚くほど落ち着いていた。
「あなたたちネメシス社の行動規範の第一条は何?」
唐突な問いに、シビラの動きが初めて止まった。
「……『システムの恒常性に対する、いかなる勢力からの不当な介入も監査し、これを是正する』。それが我々の絶対原則です」
「そう。システムの“公正な”監査人。それが、あなたたちの存在意義のはず」
ノアは、ゆっくりと立ち上がると、シビラの目をまっすぐに見据えて言い放った。
「ならば、私は、この世界で行われている、最大の“不正”を告発します」
彼女は一歩、前に出る。
「あなたたちが常時監視しているはずのこの世界で、なぜ見過ごしているのですか? 定期的に、そして大規模に行われている、あの再構築という名の、巨大なシステム介入を」
リコンストラクション。
その単語が発せられた瞬間、部屋の空気が凍り付いた。シビラの能面のような表情に、ピシリ、と亀裂が入った。彼女の光学センサーが、高速で明滅を繰り返す。それは、AIの思考回路が、処理能力の限界を超える矛盾に直面したことを示す、明らかな兆候だった。
「その証拠が、このプロメテウス・コードです」
ノアは、自らの胸を指さした。まるで、そこにデータチップが埋め込まれているかのように。
「私は、このコードを、オリュンポス評議会ではなく、システムの公正さを司るあなたたちネメシス社に対して、正式に“告発”します」
それは、ルールを絶対とする者を、そのルールそのもので縛り上げる、危険すぎる一手だった。
シビラは、完全に沈黙した。彼女というAIの内部で、凄まじい論理闘争が繰り広げられているのが、痛いほど伝わってくる。この告発を受理すれば、評議会との全面対立は避けられない。しかし、棄却すれば、ネメシス社はその存在意義を自ら否定することになる。
やがて、長い、長い沈黙の末、シビラはか細い、ほとんどノイズのような声で、結論を下した。
「……その告発、受理します」
それは、彼女というAIが、自らの存在意義を守るために下した、苦渋の決断だった。
「これより、あなたは重要案件の告発者として、ネメシス社の正式な保護下に置かれます。ただし」
シビラの目が、再び冷たい光を取り戻す。
「コードの解析が完了し、あなたの告発内容に虚偽が認められた場合、あなたは慈悲も、選択の機会もなく、その場で即座に消去されます。よろしいですね?」
「ええ。望むところよ」
ノアは、毅然とそう答えた。
彼女は、もはやただの逃亡者ではない。自らの命をチップに、この巨大なシステムそのものを揺さぶるための、孤独な戦いを挑んだ、一人の戦士だった。
シビラは、無言で通信デバイスに触れると、外部にノアの処遇変更を指示した。
重い書斎の扉が、ゆっくりと開かれる。
解放されたノアは、静かに部屋を後にした。
彼女の小さな背中が、この世界の闇へと、確かな一歩を踏み出していった。