01. 不協和音
雨の音で、目覚める。
この星、グレイシアに来てから、晴れた空というものを一度も見たことがない。
無機質な天井が、合成音声で一日の始まりを告げた。
『おはようございます、市民番号734-589-レイ。今日は新暦210年3月9日です。あなたの市民スコアはCマイナス。今日も世界の調和に貢献しましょう』
その声と同時に、ARコンタクトが起動する。殺風景なコンクリートの壁に、温かみのある木目調のテクスチャが投影され、何もない床には毛足の長いラグマットの映像が浮かび上がった。完璧な偽り。そして、完璧な日常。
俺はベッドから起き上がると、壁に取り付けられたフードディスペンサーの前に立った。デメテル社製の完全栄養ペーストが、静かにチューブから押し出されてくる。今日のメニューは「厚切りベーコンエッグと焼き立てのトースト風」らしい。コンタクトが視界に補正をかけ、多少は美味そうな見た目になっている。
ばかばかしい。俺はそれをしかめっ面で喉の奥に流し込んだ。
コールドスリープの後遺症で、俺の舌は複雑な味を忘れてしまったらしい。医者AIはそう言った。だから、この味気ない現実も、ARの優しい嘘も、どちらも俺にとっては同じくらい実体がない。
窓の外に広がるのは、いつもと同じ、雨に煙る居住区画B-7の風景だ。天を衝く摩天楼の頂は、ポセイドン社の降らせる厚い雲に隠れて見えやしない。
――故郷の太陽は、もっと暖かかった。
ふと、頭の中で、誰かのナレーションのように言葉が響く。まるで、何度も観たドキュメンタリー映画のワンシーンを、自分の大切な思い出だと必死に主張しているみたいに。
この、自分の記憶のはずなのに、どこか他人事のような奇妙な感覚。これにも、もう慣れてしまった。俺がポッドに突っ込まれて地球を発ってから、もう何百年も経つ。仕方のないことだろう。
鏡を覗き込むと、虚ろな目をした男が映っていた。ヘラ社の定める市民スコアはCマイナス。世界の歯車にすらなれない、ただの“エラー”。
それが、今の俺の全てだった。
「さて、と…」
俺は呟き、部屋のドアに手をかける。
今日もまた、完璧に管理された世界の片隅で、息を殺して生きていく。
そんな日常に、やがて取り返しのつかない亀裂が入ることなど、まだ知る由もなく。
仕事の時間だった。