10
「失敗したくないって気持ち、分かる」
静かに、ぽつりと颯先輩が呟いた。
その言葉は、まるで独り言のように小さくて、
けれど、私の心に真っすぐ落ちてきた。
「……別にいいじゃないですか」
「失敗したら、お前ら面白おかしく話すだろ」
「それが嫌な人もいるよ。男って、プライド高いから」
颯先輩は、どこか遠くを見るように言った。
まるで黒瀬くんの気持ちを代弁するみたいに。
「……私は、言わないのに」
そう呟いた自分の声が、子どもみたいで情けなくて、
視線を落として、膝の上で手を握りしめた。
しょんぼり。
でも、なんだろう。
少しだけ、黒瀬くんの気持ちが分かった気がして、
嬉しいような、切ないような、不思議な感情が胸に広がった。
「澪ちゃんさ、黒瀬くんのこと、嫌いになった?」
不意に聞かれた問い。
私はしばらく黙ったまま、考えるふりをした。
「……」
「好きでしょ?」
その声に、無言のまま、小さくコクンと頷いた。
なんでだろう。
あんなに苦しいのに、嫌いになれなかった。
「てかさ、別に付き合ってないんだから、黒瀬の勝手じゃね?」
「はーる、それ言わないの」
颯先輩がたしなめる声に、私は苦笑いしながら呟いた。
「……そんなの、言われなくても分かってます」
もし、私と黒瀬くんがどこかで“ちゃんと”付き合っていて、
そのうえであんな過去を聞かされたなら――
私はきっと、怒り狂ってた。
泣いて、叫んで、彼を嫌いになろうと必死になってたと思う。
でも、実際は違った。
私はただ、一方的に好きでいただけだった。
だから、本当は何も言える立場じゃない。
責める資格なんて、ない。
もし、七瀬さんが言ってたことが事実だったなら――
私は、きっと、初恋を終わらせていた。
それくらい、ぐちゃぐちゃだった。
でも、本人の口から事実を聞いて。
瞬間的に思考はフリーズしたけど、
シャワーを浴びている間に、少しずつ冷静になった。
「俺、来る必要なかったわー」
「そう? 陽がいたから澪ちゃん冷静になれたよね?」
「……はい」
「マジ?」
「……なんでいるんだろうって」
「“ありがとうございます”だろ? ぶっ飛ばすぞ?」
――なんだろう。
この人たちが側にいてくれて、良かった。
颯先輩が「ベッドで寝ていいよ」って言ってくれて、
それを聞いた西園寺先輩が「俺が寝る!」って騒いでたけど、
私はその声を無視して、そっとベッドに潜り込んだ。
私は、ズルい女だ。
颯先輩の優しさを、都合よく利用した。
でも、先輩はそれを責めることなく、
いつも通りの優しさで包んでくれる。
そっと目を閉じる。
たぶん、一人だったら今夜は眠れなかった。
西園寺先輩の不器用だけど確かな優しさと、
颯先輩の何も聞かない包容力に、救われた夜だった。
__________
翌朝――
ピンポーン、と玄関チャイムの音が部屋に響く。
私は静かにリビングを覗いた。
ソファには、2人ともぐっすり眠っていて、
あの喧騒が嘘みたいに静かな空間が広がっていた。
再び、チャイム。
ぼんやりとした頭でインターホンに目を向け、
画面に映った人物に、思わず無意識で解錠ボタンを押していた。
数秒後、玄関のドアを開けると――
そこには、黒瀬くんが立っていた。
変わらないその表情。
けれど、どこか少しだけ、切実な何かを纏っていて。
「……なんで……?」
喉の奥で言葉が詰まる。
「白川。――デートしよう」
え?
思考が追いつかない。
言葉だけがふわっと、鼓膜の奥に残って。
これは――夢なんじゃないかと思った。
でも、目の前の黒瀬くんの瞳は真剣で。
夢じゃない現実が、今、私をまた動かそうとしていた。




