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注文したときは、すごく美味しそうに見えたカルボナーラ。
濃厚でクリーミーな香りが漂って、空腹だったはずの私の心をくすぐった。
……のに。
「あ、白川さん! おひとりですか?」
その声とともに、反射的に背筋が凍った。
笑顔を浮かべながら、何の躊躇もなく私の向かいに座る七瀬さん。
その瞬間、食欲なんて一瞬で消え去った。
黒瀬くんに「大嫌い」と言ってしまった、あの日。
それ以来、七瀬さんとこうして対面するのは初めてだった。
冷や汗が、じわりと背中をつたう。
彼女は可愛らしい笑顔の奥に、
私の持っていない「攻め」の武器を持っている。
そして、それ以上に恐ろしいのは――
嘘を、真実に変えてしまう力があること。
「一緒にいいですか?」
「……あ、え、はい……」
断りたかった。
でも、どう断ればいいかわからなかった。
下手に拒めば、何を言われるか、
何を広められるか――そんな不安ばかりが頭を支配する。
「暑いですよね〜」「カルボナーラ、美味しそうですね!」
当たり障りのない世間話。
私は必死に相槌を打つけれど、心ここにあらず。
フォークを持つ手が震えて、麺がまったく減らない。
早く、この空間から逃げ出したい――
でも、彼女の存在が私をテーブルに縛りつけていた。
「白川さんって、湊先輩の同期なんですよね?」
「……うん」
「あと、湊先輩のこと、好きですよね?」
――っ。
一瞬で空気が変わった。
まるで甘い声に包まれた毒針。
七瀬さんの目が、ほんの少しだけ細くなったのを見逃さなかった。
小動物系なんて言われてるけど、それはきっと、表の顔。
2人きりになるときにだけ見せる“本性”が、そこにはあった。
「知ってます? 湊先輩、好きな人がいるんですよ」
言葉が、胸の奥に重たくのしかかる。
「……その好きな人、私、知ってて」
ドクン、と心臓が不規則に跳ねた。
何を知ってるの? 黒瀬くんは、何を言ったの?
次に何が来るのか分からなくて、体がこわばる。
「白川さん」
間を置いたその名前が、余計に不安をあおる。
「――に、そっくりな人なんですよね」
視界がふっと暗くなる。
“そっくり”――その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「名前も一緒で。深いに、青で、“深青”さん」
……えっと。あの……。
混乱した言葉を口にする前に、彼女は畳みかけるように話し続けた。
「湊先輩って、優しいから。勘違いされやすい人だなぁって思って」
「……」
「その深青さんと、湊先輩。大学のときに知り合って、付き合ってたみたいですよ?」
――ガン。
まるで、鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。
言葉が、理解できない。
意味を追いかける前に、どんどん心の中に侵食してくる。
「でも、仕事が忙しくなって、自然消滅したみたいで。結婚も視野に入れてたとか。でも、どうしても忘れられない人らしくて」
……忘れられない人?
「湊先輩が白川さんと、つい絡みたくなるのも……なんか、納得っていうか」
それでも、七瀬さんはにこりと微笑んだ。
無垢な顔をして、冷酷な刃物のような言葉を投げつけてくる。
「……黒瀬くんに、聞いてみようかな……?」
ようやく声を振り絞ったけれど、口から出たのは自分でも意味が分からない返しだった。
「聞いてどうするんですか?」
すぐに返ってきたその言葉は、まるで冷水を浴びせられたようだった。
「……え?」
「同じことを、湊先輩から言われたら――耐えられますか?」
「……いや、でも……」
「近くにいる“私”だから聞けた話で。白川さんが深く傷つかないようにと思って、教えてあげたんですけど」
「……」
「私は、湊先輩が“本当に”好きな人とお付き合いしてほしいだけなので。そのお手伝いができれば、と思って」
そして最後に、鋭く、確実に突き刺す一言。
「先輩が“誰かの代わり”でもいいなら……止めませんけど」
笑顔はすっと消えて、彼女は立ち上がった。
「では」と一言だけ残して、去っていく。
私は、そこに取り残された。
“似てる人”“好きな人”“忘れられない人”
どれが嘘で、どれが本当?
全部が嘘?それとも、全部が真実?
……見抜く自信も、立ち向かう勇気も、私にはなかった。
ただ、突きつけられた言葉のすべてを――
逃げ場もなく、受け止めるしかない自分が。
悔しくて、情けなくて、どうしようもなく惨めだった。




