1(N)
「……黒瀬先輩、チェックお願いします」
「ん」
声をかけるたびに、わかる。
あの日から、“湊先輩”と呼ぶと、
先輩はわざと聞こえていないふりをするようになった。
耳に届いているはずなのに、
まるで私の存在ごと一瞬だけ消えるみたいに、
どこか遠くを見る。
一度だけ、うっかりその呼び方が口をついて出てしまったときがあった。
先輩はふっと笑った。やわらかく、けれど何かを拒絶するように。
その笑顔が、なぜだか怖かった。
だから、もうあの名前では呼べない。
静かなオフィス。
タイピングの音だけが規則的に響いていて、私はルーティンのように手を動かしていた。
けれどその音が、ふいに止まる。
「……?」と顔を上げると、黒瀬先輩の視線はモニターを超えて、その先――遠く、部署の入り口を見ていた。
私も、無意識にその視線の先を辿る。
そこには、白川さんがいた。
誰かと談笑しているようで、ほんの少し肩を揺らして笑っている。
ここからじゃ、声なんて聞こえるわけがないのに。
先輩はまるで、それが“わかった”みたいに、吸い寄せられるように彼女を見つめていた。
胸が痛む。
先輩の視線は、白川さんには届かない。
けれど、隣にいる私だけには、ちゃんと見える。
――この視線の意味が。
私の視線に気づいたのか、先輩が少し首を傾げてこちらを見る。
「どした?」
いつも通り、優しい声だった。
でも私にはもう、それが無意識の言葉だって、わかってしまった。
先輩は気づいていない。自分がどんなふうに白川さんを見ているのかも、私がそれに気づいてしまったことも――何ひとつ、気づいていない。
「……いや、なんでもないです」
無理に笑って答えると、先輩は一瞬だけ視線を止め、それから立ち上がった。
「ごめん、ちょっと飲み物買ってくる」
足取りは軽く、まっすぐドアの方へ向かう。
私はその背中を見送りながら、椅子からそっと立ち上がる。
先輩の視線の先にいた白川さん。
今もまだ、廊下にいるかもしれない。
少しだけタイミングをずらして、私は別の出入口から廊下に出る。
そして、見てしまった。
「……わあ!びっくりした!」
白川さんの声。
驚いたように頬を赤らめ、バツが悪そうに笑っている。
対する黒瀬先輩の表情は、静かで、あたたかくて――
ずるい。
あんな顔、私には向けてくれないのに。
優しさも、まなざしも、言葉も、全部全部、
私のものにしたい。
欲しかった。
ずっと、あの笑顔が欲しかった。
でも、きっと、何をどうしても先輩は振り向かない。
だとしたら。
白川さんを、狙うしかない。
その隙をつけば、なにかが崩れるかもしれない。
私のなかで、黒い欲望が静かに渦を巻く。




