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キミ想ウ花束  作者: 桜美 咲蘭
欲望、
83/107

1(N)

「……黒瀬先輩、チェックお願いします」


「ん」


声をかけるたびに、わかる。

あの日から、“湊先輩”と呼ぶと、

先輩はわざと聞こえていないふりをするようになった。


耳に届いているはずなのに、

まるで私の存在ごと一瞬だけ消えるみたいに、

どこか遠くを見る。


一度だけ、うっかりその呼び方が口をついて出てしまったときがあった。

先輩はふっと笑った。やわらかく、けれど何かを拒絶するように。

その笑顔が、なぜだか怖かった。


だから、もうあの名前では呼べない。


 


静かなオフィス。

タイピングの音だけが規則的に響いていて、私はルーティンのように手を動かしていた。

けれどその音が、ふいに止まる。


「……?」と顔を上げると、黒瀬先輩の視線はモニターを超えて、その先――遠く、部署の入り口を見ていた。


私も、無意識にその視線の先を辿る。


そこには、白川さんがいた。


誰かと談笑しているようで、ほんの少し肩を揺らして笑っている。


ここからじゃ、声なんて聞こえるわけがないのに。

先輩はまるで、それが“わかった”みたいに、吸い寄せられるように彼女を見つめていた。


胸が痛む。


先輩の視線は、白川さんには届かない。

けれど、隣にいる私だけには、ちゃんと見える。


――この視線の意味が。


私の視線に気づいたのか、先輩が少し首を傾げてこちらを見る。


「どした?」


いつも通り、優しい声だった。


でも私にはもう、それが無意識の言葉だって、わかってしまった。

先輩は気づいていない。自分がどんなふうに白川さんを見ているのかも、私がそれに気づいてしまったことも――何ひとつ、気づいていない。


「……いや、なんでもないです」


無理に笑って答えると、先輩は一瞬だけ視線を止め、それから立ち上がった。


「ごめん、ちょっと飲み物買ってくる」


足取りは軽く、まっすぐドアの方へ向かう。

私はその背中を見送りながら、椅子からそっと立ち上がる。


先輩の視線の先にいた白川さん。

今もまだ、廊下にいるかもしれない。


少しだけタイミングをずらして、私は別の出入口から廊下に出る。

そして、見てしまった。


「……わあ!びっくりした!」


白川さんの声。

驚いたように頬を赤らめ、バツが悪そうに笑っている。

対する黒瀬先輩の表情は、静かで、あたたかくて――


ずるい。


あんな顔、私には向けてくれないのに。


優しさも、まなざしも、言葉も、全部全部、

私のものにしたい。


欲しかった。

ずっと、あの笑顔が欲しかった。


でも、きっと、何をどうしても先輩は振り向かない。


だとしたら。


白川さんを、狙うしかない。


その隙をつけば、なにかが崩れるかもしれない。


私のなかで、黒い欲望が静かに渦を巻く。

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