3(N)
最後の賭けだった。
あの日、白川さんを追って会場を出ていった黒瀬先輩。
どうなったのか、どんな顔で私を見るのか――
正直、少し楽しみだった。
なのに。
「七瀬、今日からひとり立ちな」
「……え?」
思わず聞き返した。
「なんでですか?他の子たちはまだ――」
「黒瀬が言ってた。七瀬は優秀だから、1人でも大丈夫だって」
その一言で、体からすっと血の気が引いていった。
……黒瀬先輩が?
急いで自分の席に戻ると、隣の席が、空っぽになっていた。
ノートもペンも、私の好きなあの横顔も、何もなかった。
廊下に飛び出す。
彼の影を、必死に追いかけた。
「…湊先輩!」
お願いだから、
「……黒瀬先輩!待って!」
声が掠れた。
でも、ようやく立ち止まった彼が、ゆっくりと振り返る。
「……どうして、ですか? 私、まだ――」
「七瀬さん、優秀だよ。ひとりでも平気だよ」
「そんな……っ」
涙が滲んでくるのを堪えながら言葉を探す私を、
先輩は無言で見下ろして、
つま先で、私たちの間に“線”を引いた。
「七瀬さんがその線を見失うたびに、俺は何度も引き直してきたんだけど」
「……ちょっと、自由にさせすぎたかもね」
声が、冷たい。
あの優しさは、全部幻想だったの?
「俺は、キミに興味がない」
一瞬、息が止まった。
心臓が――ドクンと大きな音を立てて、落ちていった。
「あと、これはお願いってより忠告なんだけど」
目を細めて笑ったその顔には、かつてのあたたかさが欠片もなかった。
「白川に、関わんなよ」
声の温度が、空気を凍らせる。
ただの言葉じゃなかった。
威嚇でも、警告でもない。
それは“命令”だった。
腰が抜けて、床に崩れ落ちた。
何かを言おうとしても、声にならなかった。
さっきまでの優しさが嘘だったみたいに、黒瀬先輩の瞳は一片の情も宿していなかった。
見下ろすその目は、まるで踏みつけた泥に気づきもしないような――冷たい軽蔑を一瞥だけ残して、
黒瀬先輩は、私の世界ごと切り捨てるように背を向けて歩き去っていった。
ポタポタと、涙が落ちる音がやけに大きく響いた。
恐怖で泣いたのは、たぶん、生まれて初めてだった。
「……相手が悪かったね」
不意に差し出された、白いハンカチ。
視線を上げると、そこに立っていたのは――
どこか飄々とした、でも得体の知れない笑みを浮かべた男。
「俺は君の味方じゃないし、君を手札にするつもりもないけど」
すっと顎に触れて、持ち上げられる。
「……キミを手懐ける自信は、あるんだよね」
その言葉が、甘い毒のように耳の奥に絡みついた。
「……キミ、今どんな顔してるか分かる?」
「今まででいちばん、可愛いよ」
「――捨てられて、怯えてる、子猫ちゃん」
目が笑っていなかった。
でも、その狂気すら、どこか魅力的に映る自分が、怖かった。
「さて」
唇だけで綴られるその言葉に、空気が震える。
「……ゲーム、スタート」




