2(H)
澪ちゃんと、ふたりで居酒屋のカウンターに座っていた。
あたたかい照明。煙るような空気。
彼女がグラスの水を指先でなぞる仕草が、妙に静かだった。
「……黒瀬くんと、お付き合いすることになりました」
ぽつん、と言葉が落ちる。
ぺこりと、真面目に頭を下げる澪ちゃん。
――ああ、そうか。
深刻そうな顔してたから、もしかして「うまくいかなかった」報告かと思ってたのに。
「マジかぁ。ちゃんと振られちゃったな、俺」
思わずそう漏らすと、彼女は眉を寄せて首を振った。
「……振ってないです。告白されてません」
その言い方が、やけに優しくて、でも遠くて。
「だって、先輩は私のことなんか……好きじゃないですもん」
「えー、好きだよ?普通に」
軽く笑って返してみる。
本気じゃないフリが、癖になってた。
でも澪ちゃんは、ふふっと笑って、もう一度首を振った。
「……私には、先輩はもったいなさすぎます」
その言葉に、一瞬だけ言葉が詰まる。
笑おうとしたのに、のどが動かない。
「もし……もし黒瀬くんと出会う前に、颯先輩と出会ってたらって、考えたんです」
彼女はグラスの水を揺らしながら、視線を落としたまま続ける。
「……何回考えても、多分、先輩は私のこと、好きにならないなって」
「なんで?」
思わず声が出た。
ほんの少し、棘が混じっていたかもしれない。
「私が、誰かを好きになってないからです」
その答えに、息を呑んだ。
無垢すぎる。まっすぐすぎる。
澪ちゃんは、自分が思っているよりずっと、人を見てる。
「……もしかしたら、“いいな”とか、“気になるな”って私が思ったとしても……。でも、そういう私のこと、先輩は興味ないですよね?」
それは、正解だった。
たぶん俺は、誰にも向いていない目に惹かれることはない。
無自覚な子を好きになるほど、純粋じゃない。
「先輩が、本当に好きな人に出逢って、本気を出したら……絶対、簡単に落とせると思います」
「……」
「七瀬さんとか、意外と燃えるんじゃないですか? 先輩なら、手懐けそう」
冗談のつもりだろうけど、妙に的確で、ちょっとだけ悔しい。
たしかに俺は、そういう駆け引きのほうが得意なのかもしれない。
会計を済ませて、店を出た瞬間――
空気が変わった。
ビルの影に、静かに佇む人影があった。
黒瀬くんだった。
仕事帰りのスーツ姿で、腕を組み、微動だにせずこちらを見ている。
感情の見えない目。だけど、ただの無表情じゃない。
――お。意外と独占欲、強いんだな。
少しだけ口角を上げて、俺は澪ちゃんの手を取った。
「……っ、先輩?」
無防備な腕を引いて、軽くバランスを崩した彼女の身体を支えながら、
その頬に、迷いなく口づける。
「……せ、んぱい!?」
大きく見開かれた瞳。
混乱と驚きと――たぶん、少しの戸惑い。
その全部が、愛おしくて。
でも、もう届かないと分かっているからこそ、痛くて。
「……ごめん。つい、ね」
軽く笑ってみせたけど、もう言い訳はしなかった。
何を言っても、届かないことくらい、俺が一番わかってる。
「つい、って……!?」
澪ちゃんが頬を押さえながら怒ってくる。
けど、その言葉の続きを、黒瀬くんが遮った。
彼は無言で澪ちゃんを抱き寄せ、その背に腕を回す。
「……何もされてないです」
澪ちゃんが慌てて言うと、俺は悪びれず肩をすくめる。
「えー?されてたよ? ほら、ここ」
頬を指差してニヤリと笑う。
「……あっ! 先輩、帰国子女でしたよね?! 文化の違い的な!」
「ん? 違うよ」
「ちがっ……! せんぱいっ!!」
必死な澪ちゃんが可愛くて、思わず笑いそうになる。
でも、その瞬間、黒瀬くんの瞳が細くなった。
――あ、まずい。これは、本気で怒ってるやつだ。
次に彼が口を開いたのは、俺に向かってだった。
「……前に言ってましたよね。どっちも助けるのは無理だって」
「うん、言ってたね」
「でも、俺はどっちも助けますよ。ただし――」
その声は、低く、静かで、妙に冷静だった。
「最優先は白川です。それ以外は、どうなろうがどうでもいい」
一瞬、背筋がゾクリとした。
本気で守りたいもののために、他を全部切り捨てられる人間。
……なるほど。怖いのは、強さじゃなくて、その覚悟だ。
「……泣かせんなよ?」
「……言われなくても」
黒瀬くんはそう言って、さらに強く澪ちゃんを抱き寄せた。
その肩越しに見えた澪ちゃんの横顔は、もう俺を見ていない。
――ああ、これはもう、完全に終わったな。
俺はゆっくりと視線を逸らしながら、ふっと笑う。
さて。
次は、どんなゲームを始めようか。




