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オフィスの空気は、昨日と何も変わらない。
規則的なタイピング音。コピー機の動作音。
遠くで鳴る内線のベル。
いつもの朝。いつもの職場。
――だけど、私の中だけ、確かに何かが変わっていた。
昨夜、彼の腕の中で聞いた心音。
触れ合った肌の熱。
名前を呼び合って、確かめ合った想い。
ほんの少しだけ、未来の話までしてしまった。
それでも。
「白川さん、資料お願いできますか?」
「はい、すぐに!」
仕事モードの声で返事をする。
私は“いつも通り”の自分を装って、モニターに向き直った。
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昼休み、ひと息ついた社員食堂のテーブルで、
私は紗夜と西園寺先輩に、そっと声を落として伝えた。
「……あの、黒瀬くんと、お付き合いすることになりました」
「やっと、くっついた?」
紗夜が目を細めて、ほんの少しだけ、安堵の色を浮かべる。
私はぺこりと頭を下げた。
「色々と……ご迷惑おかけしてすみません」
「くっついたって、やることやったって意味も含む?」
西園寺先輩が前のめりで聞いてくる。
相変わらず、はっきりしている。
「……襲いました、私のほうから!」
「よっっっしゃあああ!!!」
ガッツポーズを決める先輩の声が、食堂に軽く響いた。
近くの席の人が一瞬こっちを見るけど、湊くんは苦笑い。
「紗夜ちゃん。もう我慢しない。付き合おう。無理。待てない!」
「……ムードとか、ないんですか?」
「ない!あと断る権利もないから!」
「紗夜?断る権利くらいあるよ」
「紗夜ちゃんは断らないよ。だってもう、ずっと前から俺のこと好きだもんね?」
「さあ、どうでしょう?」
「紗夜ちゃああん!今さらじらされるのきつい!!」
楽しげにじゃれ合うふたりを見ながら、
私の胸に、小さな棘のようなものが引っかかる。
――私、もしかして、ふたりに気を遣わせてた?
ずっと自分のことで精一杯で、見えてなかったもの。
ほんの少しだけ、胸がちくんと痛んだ。
でも、その瞬間。
トン、と机の下で湊くんの指が、そっと私の太ももに触れる。
驚いて視線を上げると、隣に座る彼の視線がぴたりと絡んできた。
そのまま、湊くんが首をゆっくり横に振る。
――え、もしかして……今、私の心読まれた……?
「……え、心、読めるの?」
「……うん、実は」
「えっ、超能力者?」
くすぐったいほど真剣な顔で見つめてきた彼は、
次の瞬間、デコピンをかましてきた。
「いった……!」
「んなわけないでしょ」
そのやり取りを見ていた紗夜が、少し呆れたように笑う。
「黒瀬くん、気抜いてると……また澪が退職願、書くことになるよ」
「えっ?」
「付き合ったら付き合ったで、気を抜きすぎ。お前ら、やることやってからダダ漏れ」
西園寺先輩も呆れ顔。
「これまでふたりで作ってた“壁”が、見事になくなってるな」
「……壁?」
「お、やった」
湊くんは、なぜか嬉しそう。
「お前、何ニヤついてんだよ」
「…いや、別に」
「お前ちゃんと分かってる?」
「……分かってますよ。ちゃんと守りますから」
言葉と一緒に、机の下で私の手を、そっと強く握る湊くん。
その横顔を見つめながら――
私はまた恋に落ちてゆく。




