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朝、目が覚めた瞬間、
スマホのロック画面に小さく「8月25日」と表示されていた。
――あ、誕生日だ。
わかってたくせに、なんだか心の準備ができてなくて、
枕に顔を埋めたまま「はぁ〜…」とため息。
25歳になった。
だから何?って思うけど、
ひとつだけ、毎年変わらないことがある。
「今日くらい、会いたいなあ…」
呟いた声が、寝室の白い天井に吸い込まれていく。
カーテンを開けると、まぶしい光が差し込み、
窓の外には青空と背の高い向日葵が揺れていた。
夏の風がほんのり、涼しい匂いを運んでくる。
昨日、美容院に行って髪を整えた。
いつもより少しだけ明るくなった髪の色が、
朝の光に溶けてゆく。
新しく買ったワンピースに袖を通し、
少しだけ背筋を伸ばした。
自分なりに頑張ったつもりだったけど、
やっぱり緊張で胸がざわつく。
それでも、今日くらいは、
世界が味方してくれたっていいと思う。
だけど。
「誕生日に推しがいないなんて……!」
隣の席でコーヒーを啜っていた
有栖川紗夜が、
チラリとこちらを見て呆れたように言う。
「黒瀬くん?外回りだね」
「あのボード一段ズレてるとかある?」
「ないね」
心の中では「恋してる」と何度も唱えてるけど、
現実はどこまでも空回ってばかり。
そして、さらに追い打ちをかけるように、
ひときわ明るい声が社内に響いた。
「白川〜!どうしたー、今日ワンピースじゃーん!
女子力アゲてきたなぁ〜?」
西園寺陽。営業部の先輩で、チャラくてうるさくて、
でもなぜか憎めない。
「……うるさい」
「 先輩に“うるさい”はないだろ!」
「事実を述べただけです」
「でも、残念だなぁ〜。愛しの黒瀬がいないってタイミングでその女子力……ぷぷっ」
「黙れください」
「日本語喋れよ?」
「先輩、今日この子、誕生日なんです」
「あ、そうなんだ。おめでとー」
全く心がこもっていない。
「プレゼント何がいい?愛の告白?」
「いりません」
「遠慮すんなよ。でもまあ、仕方がない」
コトン、と音がして
机の上に缶コーヒーが置かれた。
しかもブラックの。
「……西園寺先輩、私がコーヒー飲めないの知ってますよね」
「え、そうだっけ?あれ〜?
黒瀬がブラック派だから、白川も飲めると思ったのになー」
悪びれもせず笑うその顔が、
むかつくほどキラキラしている。
ちょっと顔がいいからって何しても許されると思ってる、絶対。
「無駄な出費ですね」
「白川にはちょうどいい金額だろ」
「もう……本っ当に、西園寺先輩大っ嫌い!」
「白川に嫌われても痛くも痒くもない」
「じゃあな〜」
軽く手をひらひらさせながら、去っていく西園寺先輩の背中。
私はそれを、これでもかというほど睨みつけた。
「澪もすごいよね」
ふいに、紗夜がぽつりと言った。
「え?」
「中学で一目惚れしてからずっと一途で、高校、大学、就職先まで同じって。……もう、ストーカーの域超えてる」
「それでも黒瀬くんにとったら、私はたまたま行く先にいる“A子”なんだよ……」
「13年も近くにいて、おかしいって思わない黒瀬くんって、やっぱおかしいよね」
「紗夜……。私、今日誕生日なんだけど……」
「ん?」
「虚しくなる……」
紗夜はにっこり笑って、私の肩をぽんと叩いた。
「今日の澪ちゃん、最上級に可愛いよ。
こんな可愛い澪ちゃんを見れないなんて、黒瀬くん、ほんっとついてないね。
——じゃ、仕事戻りまーす!」
一息にそう言うと自分の席に戻って行った。
お洒落をすれば、少しは黒瀬くんの目にとまるかもって。
淡い期待をしていた自分が、ちょっと滑稽だった。
きっと、どんなに髪を整えても
どんなに可愛い服を着ても
どんな“鎧”を身にまとっても
私はきっと、いつものように
「お疲れ様です」しか言えなくて
そのたびに、
どうしようもないくらい、歯がゆい想いをするのだろう。
──こんな日に限って、黒瀬くんはいない。
そんな小さな“運命のすれ違い”が、
今日という一日を、静かに締めくくっていく。