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古着屋  作者: ハクノチチ
5/5

そう告げられた店主の妻

 あの古着屋はもう存在しない。妻が休職中の職場へ娘を連れて行ったとき、誰よりも最初に抱いてもらった「姉」からその後の顛末を聞いた。


 今年の冬のことだった。どうしても忘れられない悲しみを相談に来た、姉の顧客の身内だと言う身なりのいい若い夫婦が現れた。夫は違ったが閣僚経験者の孫であるらしい妻は「#」だった。そしてそれは店主自身のkeyでもあった。

 二年前の夏、ファーストクラスで飛んで行った南国のプールの底に沈んだ幼い娘の両親と、十年前の春、カーブを曲がりそこねた青年の男親に出来るのは、互いの悲しみを共有することだけだった。

 店主は「閉店」と書いた紙を表に貼ってから着ていたウールのセーターを脱ぎ若い妻に渡した。keyの違う夫には何の効果もないことを伏せたまま、自分のバッタモンの腕時計を渡した。そして妻がしてきた皮手袋を借り、夫からは高級時計の「ディープマスター」を受け取った。

 丸椅子の上ですすり泣いていた妻はやがて声を上げて泣いた。夫は妻の肩に手を添えて見守っていたが、腕時計の交換が少し引っかかっていた。自分でもよくないな、とは思っていたのだが、頭や心の中から払うことは困難だった。店主は店の壁に掛けていた黒いダウンを羽織り一人表に出て何本も煙草を吸った。

 一時間ほど経つと妻は泣き止み、二人は外へ出てきた。冷たい風に冬の底が目で見えるような、今日はそんな晴天だった。

 「幾らでも構いませんので、こちらのセーターと時計をお売りしていただけませんか?」妻は言った。化粧がド派手に崩れた顔はとんでもなく酷かったが、少しは気が晴れたようだ。

 「お金はいりません。交換してください」店主は皮手袋とディープマスターのことを言った。

 「えっ」ずっと気になっていた夫はつい口にしてしまった。閣僚経験者の孫は夫の脇腹に本気の肘鉄を打った。女の目は本当に吊り上がるもんだな、と店主は感心した。

 「冗談ですよ旦那さん。お返しします。それと手袋も。時計だけ返してください。セーターはどうぞ」店主は微笑んだ。

 「でも」と妻が呟いたとき、夫は店主に近づいて「おとうさん」と言い強く抱きしめた。学生時代ボート部で鍛えた肩が震え出して間もなく膝から崩れ落ち号泣した。


 娘がプールの底へ沈んだとき、彼はプールサイドのバーへ、甘いカクテルを貰いに行く用事を作り、東京にいる現役の女子大生へLINEの返信をしていたのだった。

 

 妻も店主もあっけに取られたが、嗚咽する夫の姿に二人は声を上げて笑った。二年ぶりに妻が声を上げて笑うのを聞いた夫も地面に両手を着いたまま泣きながら笑い始めた。  

 「自分の顔だって凄いんだぞ」社会人になった元女子大生から納得してもらえていた夫は妻に言った。

 「むしろ誇らしいわ」娘が小学生になったら、夫と同じかそれ以上に激しい不貞を夢見ていた妻は店主に微笑んだ。


 若夫婦の心の傷の本当の深さを知るわけもない店主は、しかし初めて人間にはkeyを超越する「場所」があることを知った。

 

 夜になると、思い描いていたよりも悲しみは癒えていないことに気が付いた。おそらく彼らも同じだろう。

 でもいつか今日の日が来るのを待っていた店主は店を畳むことにした。そう告げられた店主の妻は「今までごくろうさまでした」と言って、今夜も夫の肩を揉んだ・・・・・・。







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