第4話:『瞳』
「迷う必要があるでしょうか。ワタクシが見捨てれば、貴方は遠からず貴方ではなくなるのです。この村の住人達と同じ末路を辿り、無秩序に人を襲う穢土の怪魔へと成り果てる。あの醜悪な生ける屍に。助かる術はありません。今ここでワタクシと出会えた幸運へ縋る以外には」
僕の心中を見透かすように、魔女は冷たい微笑みを向けてくる。
彼女の言葉が正しいのかどうか、僕には正確な判断ができない。そのための材料が無さすぎる。
所持している情報は明らかに相手が勝り、こちらは予想や憶測さえままならない状況だ。
分かることといえば、彼女が僕に同意を求めてきていること。つまり彼女個人で強引に進められないだろうこと。ただそれだけ。
僕が自分の意思で自由にできるのは拒否権だけなのだろう。
けれどそんなもの、あってないようなものじゃないか。彼女を拒めば、僕の生涯はそこで終わる。村民の仲間入りをするか、そうでなくても失血死という、どちらに転んでも最悪の未来。
現状で助かる方法は一つしかない。例えそれが、僕の人生を全て売り渡すことになったとしても。
このまま無為に散るよりは、そっちの方が何百倍もマシというもの。
「覚悟は決まったようですね。それでいいのです。これはお互いにとって損のない取引なのですから」
魔女の蒼白い手が、顔の上へと伸ばされてきた。
いつの間にか掌には一筋の切り傷が刻まれている。
そこから赤とも蒼ともつかない奇妙な色合いの滴が一粒、僕の口へと落ちてきた。
舌の上に刺激が躍る。
仄かな鉄臭さと苦みに加え、独特な甘やかさが伝わった。
これが魔女に流れる血の味なのか。
僕は残された力をなんとか振り絞り、舌に乗った雫を飲み込んだ。
「これで貴方はワタクシの物。そして貴方は人の身を、うつろうものの域を越えたモノとなるのです。忠実なる魔女の従僕、ワタクシ達はその存在を『瞳』と呼んでいます。何故かと言えば、ほら、始まりました」
これは、なんだ。
体の奥が熱い。喉が焼けるように痛む。
さっきまで遠く感じていた全てが、急激に鮮明さを増してきた。
腕の中を、脚の内側を、何かが這い回っているような、異物感が強い。
背骨が軋む。内臓が暴れているのか、腹が脈打つ。
だけど何より大きいのが、右目の痒み、疼き。やたらと染みて、震えている。
抑えられない、苦しい、辛い。掻きむしってしまいたい。指を突っ込んで、抉り出してしまいたい。
でも体が動いてくれない。手足が自分のものじゃないみたいで。
ああ、あぁ、目玉が勝手に、蠢いて、痛くないのに、痒くて、痒くて、堪らない!
「貴方の体は、ワタクシの血を受けて作り替えられています。今は苦しいでしょうが耐えなさい。旧い肉体の象徴として、貴方の右目は腐り溶け落ちようとしているのです。でも安心してください。すぐに新しい瞳が再生されるのですから。下僕たる証、主であるワタクシと同じ瞳が其処へ生まれ嵌ります。だから貴方のような存在を『瞳』と呼ぶのですよ」
音が、聞こえる
右目の中から
針を刺すような音が
幾つも、幾つも
プスプスと、ツプツプと
プスプスと、ツプツプと
何度も何度も、響いてきて
止まらない
異常な痒みと、小さな音が
繰り返し、繰り返し
気が、狂いそうだ
「ああ、ワタクシとしたことが、そういえばまだ名乗っていませんでしたね。ワタクシの名はプリムラ。もっとも、本名で呼ばれることは滅多にありません。いつの頃からか『誉血啜りの魔女』という俗称の方が知られるようになりましたから。いいえ、貴方は名乗らなくともけっこうです。人間だった頃の名前は、右目と共に捨ててしまいなさい。御主人様となったワタクシが、新しく付けてあげますからね」
赤い目をした、黒い魔女が、嗤っている。