第2話:瀕死
どれだけ時間が経ったのだろうか。
気付いた時、もう周りにまともな村民はいなかった。
なんとか逃げ出せたのか。あるいは何処かに身を潜めているのか。それとも既に全員変わってしまったのか。
今や確かめる術はない。
僕も首や肩、腕に腹、足までも噛まれ千切られ、動けないでいる。
仰向けに倒れたまま、濁り曇った夜の雲を眺めることしか出来ない。
随分と血が流れ出たためだろうか、感覚がどこか遠い。
痛みも倒れた当初より鈍っている。
神経が麻痺しているだけなのかもしれないけれど。
ただ、おかげで頭の中は冷め、自分でも奇妙に思うほど混乱は薄い。
恐怖も不安もあまり湧かず、不思議と胸の中を掻き乱さない。何故か落ち着いていられる。
予期せぬ事態が続き、極限状態に追い込まれて、情緒が壊れてしまったと。そう言われた方が納得できそうだ。
もう既に僕はおかしくなっていて、それを認識できていないのだろうか。
あちこちからは絶えず、あの唸り声が聞こえている。
所在なく彷徨い歩く彼等の気配は、依然として感じられた。
別の場所に向かって大移動を始めたわけでもない。この村に留まっている様子だ。
一方で血風舞い散る狂乱は鎮まっている。
襲う相手がいなくなったから、とも考えられる。
彼等は村民を苛烈に容赦なく襲っていたものの、変わってしまったもの同士では危害を加え合っていなかった。
残虐で凶暴な有り様からは、知性が消えたように見えた。自分と同じものとそうでない者を、冷静に判断していたとは思えない。
なにかもっと動物的な、本能に近しい部分で判別していたのかもしれない。
だから正常な村民が姿を消したことで、攻撃対象を失い大人しくなった。その可能性がある。
少なくとも現状で、彼等が共食いを始めたと思しき騒がしさからは無縁。静かなものだ。前までの激動が嘘のように。
僕の考えが正しければ、彼等が僕をこれ以上襲わずに放置しているのは、もう既に彼等と同じものだからということになる。
噛まれた人は然して間を置かず変わっていった。男も女も、子供も老人も、誰もがそうだった。僕の見た限り例外はない。
つまりは僕自身も、じきに言葉をなくし、意識を手放し、普通の人間が近くに寄れば躊躇なく襲い掛かるように、なってしまうのだろう。
だけどまだ、僕は変わっていない。
自分を自分として捉え、今もこうして思考を続けていられる。誰かに噛み付きたいとも思わない。
それとも傍に襲う者がいなければ、彼等も同じように自我を保っているのか。
だとしても僕には調べようがない。体は動かないし、喉も噛み切られていて声は出せなかった。
彼等に話しかけて、意識の有無を確認することも不可能。
そもそも何が僕達に起こったのか、根本的な部分がわからない。墓地にいた最初の男は、何者だったのだろう。
質の悪い病気か、それとも、もっと邪悪な――
「惨いものですね」
唐突に、声が聞こえた。
変わってしまった村民の唸り声とは違う。細く澄んだ、女性の声だ。
聞き覚えはない。
「穢土の障りに蝕まれましたか。対抗する手段も知識も持たない村では、ひとたまりもなかったでしょう。そんな中で貴方だけは辛うじて抗っている。運が良かったですね」
声が近付いたかと思えば、視界に女性の姿が入り込んできた。
蒼白い肌に、銀色の巻き毛。尖った耳と真紅の瞳を持つ、見知らぬ女性が僕を見下ろしている。
顔と肩と手だけが露出し、それ以外は黒の長衣に包まれた姿。頭には三角形の特徴的な、これもまた黒い帽子をかぶっていた。
昔話に出てくる魔女そのものといった装いだ。
違いがあるとすれば皴枯れた老女ではなく、20代前半と見える若々しい女性というところ。