婚約者が魔王です
黒い髪、黒い瞳のエキゾチックな資産家の美青年ラウールは、伯爵令嬢エセルの大事な友人である。
実家の事業の一つの手伝いで偶然知り合い、音楽や本の趣味が合うことから良き友人として一緒に遊ぶようになった。
今日も今日とて、家の応接間でラウールとお茶会を楽しんだ。気兼ねなく話せる間柄ゆえに、エセルはついつい愚痴を言う。
「今朝も母から結婚の催促されたのよ。それでも縁談は自分で見つけてこいというのだから本当に身勝手だわ」
年頃のエセルは両親から結婚をせっつかれており、いい加減辟易していた。うんざりした顔でため息を吐くエセルにラウールは突如、エセルにこう告げた。
「エセル、僕は君が好きなんだ。結婚を前提に付き合ってくれないか?」
ラウールのまっすぐな目がエセルを見つめる。焦げ付きそうなほど熱い視線、ぎゅっと握られる手、突然の愛の告白にエセルは驚くほかなかった。
なにしろ、エセルはとても美人と言うわけではなく、取り柄らしい取り柄はない。貴族とはいえ、資産家のラウールなら他の令嬢を射止めることなど容易い。
「え?!! じょ、冗談よね!!?」
驚くエセルにラウールは真剣に愛を語った。
「君の真面目さ、優しさ、頑張り屋で責任感の強いところ……好きなところはたくさんある。君と一緒にいると僕はとても幸せで楽しいんだ。エセルはどう? 僕のことをどう思っている?」
「ど、どうって言われても……」
思いがけない言葉にエセルは戸惑ってしまう。ラウールの事は大好きだし、昨今は身分違いの結婚も珍しくはないため障害はないのだが、すぐに答えが出るわけではない。
動揺するエセルを見てラウールは悲しそうな顔をする。
「ごめん、エセル。急に言われても迷惑だよね。今日はこれで帰るよ」
ラウールはそう言ってトボトボと肩落として帰っていった。
エセルはその後姿に胸が締め付けられた。ラウールを悲しませた罪悪感がエセルの胸をむしばむ。優しくて頼もしくて、人間としても男性としても大好きな人だ。
(どうしよう……いきなりで頭の整理がつかないわ……)
しかし、エセルに悩む暇など与えられなかった。
給仕に控えていたメイドがしっかり母親に告げ口したせいで、親が結婚を勧めてきたのだ。告白の感動に浸る時間くらいくれと思いながら、浮足立つ親二人が色々準備を進め、超速スピードでラウール・デモンとエセルの婚約が締結された。
「エセル。僕を受け入れてくれてありがとう」
「あははは……いえいえどうも」
はにかむラウールにエセルはどう返せばいいかわからなかった。ここで私も愛していると返せば名シーンになるのだろうが、親がほぼほぼ決めたようなものだ。恋にもう少し悩みたかった。それならば、はっきりと愛していると返せたし、感動もひとしおだったのに。とエセルは後悔で一杯である。
それでも、ラウールとの婚約は嫌ではなかったし、むしろ嬉しく思っている。彼の人となりは十二分に知っているし、一緒に居て苦にならないどころかとても楽しくて仕方がない。
これでよかったんだとエセルが幸せを感じ始めた時、ラウールは付け足すように言った。
「あ、言い忘れていたけど、僕、魔王なんだ」
と。
■
昔々、ここいら一帯は魔族の支配地だった。それを女神ソエーナが人間たちと力を合わせて駆逐し、セントディアス帝国を建国した。女神ソエーナは魔族復活を阻止するため、100年に一度、見込みのある少女に祝福を授け、魔族の脅威から人々を守っている……これがセントディアス帝国に伝わる神話だ。
信心深くないエセルは眉唾物と一笑しているし、聖女のお祭りも形骸化されて、どちらかというと帝国一の美少女を決めるコンテストとなっている。
ラウールから告白されたエセルは最初、笑い飛ばしてしまったが、彼が真っ黒な翼を広げたため、信じるしかなかった。
「魔王が相手なんてやっぱり嫌?」
ラウールがしょんぼりと眉根を下げる。
エセルは悩んだ。ラウールのことは大好きだ。しかし、彼は魔王。建国以来、信じていなかったが人類の敵とされていた存在である。
「……」
押し黙るエセルに魔王は寂しそうに笑った。
「あのね、エセル。君への愛は本当なんだ。今すぐでなくてもいいから、僕のことを信じて欲しい」
声と顔が人間臭かった。そしてそれは、何回も見慣れた最愛の友人ラウールのものに相違なく、エセルはどうにも忌避する気にはなれなかった。
結局、エセルは魔王ラウールと婚約を続行した。
魔王という点さえなければラウールは最高の友人なのである。
そんなある日、侍女が持ってきた一通の手紙でエセルの平穏はぶち壊された。それは皇太子の婚約者にして悪役令嬢と名高いリズベア公爵令嬢ロベルタから秘書官にし登用したいとの命令だったのだ。
真っ青になるエセルにラウールは声をかける。
「名誉なことじゃないの? 何か懸念点でも?」
「大ありよ!! ラウールは知らないの? 鞭うたれた使用人は数知れずだし、気に入らない相手がいれば権力を使って嫌がらせするの。あんな方が皇太子殿下の婚約者なんて信じられない」
エセルはぶるぶると身体を震わせた。
ラウールはキョトンとする。
「マノラさんなんてさんざん嫌がらせをされたし、誘拐されそうになったんだから!」
エセルは恐れおののきながら、不正義に対して怒りをあらわにした。
帝国は伝承に基づいて100年に一度聖女を選抜する。自薦他薦の候補者たちの中から神官たちによって選ばれるのだが、最有力候補のマノラを差し置いて聖女となったのがロベルタだった。
誰からも好かれる可憐なマノラと恐れおののかれるロベルタ、不正は明らかだったが証拠不十分で彼女の地位は揺るがない。しかし、賢明な皇太子が有力貴族たちを動かし、聖女の再選抜を訴えているのが現状だった。
義憤に燃えるエセルにラウールはとんでもないことを言う。
「ああ、それなら公爵令嬢が正しいよ。本当の聖女は彼女だから」
「え……ええ? せ、聖女がロベルタ様? というより、聖女の力は本物なの?!」
ということは、魔族は駆逐されるべき存在となる。すなわち、ラウールはその総元締めだ。
「あ、誤解しないで。僕たち魔族は聖女と敵対する存在じゃあないよ。どちらかというと共存の関係にある。基礎工事が僕たち、最終工程が彼女たちと言ったところかな」
ラウールが言うところによると、元々大地というものは生物が存在できない場所らしい。大掛かりな魔法が使える魔族が開墾して土地を整え、細かい作業が得意な女神たちが維持管理を行う。魔族は人間たちが生み出す感情を、女神たちは信仰心を糧とする。
「つまりね。聖女は存在するだけでその土地を浄化し続けるんだ」
「そ、そうなのね。話はわかったけれど、公爵令嬢ロベルタ様が聖女なんて信じられないわ。本当に恐ろしい方なのよ。何かの間違いじゃあない?」
エセルがもう一度聞くとラウールは首を振る。
「彼女が聖女で間違いない。一度、じっくり会ってくるといいよ」
いやだ。絶対お断りだ。そうエセルは叫びたかったが、しがない伯爵令嬢のエセルが恐怖の公爵令嬢ロベルタからのお誘いを断れるわけがない。ラウールの言葉を一つの希望として潔くエセルはイエスの返答をロベルタに送った。
■
金髪に赤い目、毒々しい美人がリズベア公爵令嬢ロベルタである。
「よく来てくれましたね。お返事をもらってとても嬉しいわ」
「リズベアさまからお誘いを頂いて光栄です」
エセルは言葉を慎重に選んだ。口数が多ければその分失言もしやすくなるため、話す言葉も最小限に抑えようと考えた。
「ロベルタでいいわ。さっそくして欲しいことがあるの」
エセルの背中に緊張が走る。しかし、ロベルタが依頼したのは彼女が大量に抱える公務の下準備だった。
そこで分かったのが、ロベルタがとてつもない働き者という事だった。そして噂以上に厳しい。用があれば昼夜問わずエセルを呼び出すわ、内容の説明を細かいところまで要求する。
エセルは食事も睡眠もままならず、朝から晩まで働いた。
「まあ、とても顔色が悪いわ。大丈夫?」
フラフラになったエセルを廊下で呼び止めたのは亜麻色の髪の少女、マノラだった。ピンク色のおしゃれなドレスを纏い、宝石が埋め込まれたティアラを付けてプリンセスのようである。
真の聖女と呼ばれているが、貴族でもなく何の地位ももたない彼女が王宮にいることを不思議に思いつつ、エセルは彼女の親切に礼を言った。
「ご親切にありがとう。マノラさん」
「いいのよ。ロベルタ様に仕えるのは大変でしょ? 何かあったら遠慮なく私に相談してね」
以前のエセルならマノラの親切に大喜びしていただろうが、働きづめで大変なエセルは(仕事の手伝いは無理そうだな)と大変失礼なことを考えた。
平民の彼女ができるとしても、せいぜい読み書き程度だ。ロベルタが割り振る仕事は外国語、地理や社会情勢、経済や数学の知識も必要となってくる。エセルは家業の一つが商会だったおかげでそのあたりは身についていた。ロベルタはそれを知っていてスカウトしたのだろう。
ドレスを翻し、去っていくマノラの姿を見ながら、エセルはふと
(あのドレス一着で村一つの年間予算くらい補えそう……)
と思った。
一つ、気が付くと色んな事が見えてくるものだ。
(皇太子殿下の一派が働いているところを見たことがないのよね。マノラを聖女にするために有力貴族を説得したりとかで忙しいんでしょうけど)
義務を果たせとエセルは思った。
■
緊張感が漂うロベルタの執務室、エセルの他にラウールも働くようになっていた。エセルと連絡が取れなくなって寂しくなったラウールがロベルタに自分も使ってくれと頼んだのだ。
無尽蔵の体力があるラウールは平然とこなし、少し余裕がでてきたためエセルはゆっくり休むことができた。
温かい日差しが差し込む中庭で、エセルとラウールは久々にお昼を一緒に摂っていた。ラウールが街で買ってきた評判のベーカリーのパンは小麦粉の香ばしさと、バターのコクが堪らなく美味だった。
久しぶりの人間らしい生活にエセルの目に涙が浮かぶ。
「エセル。よく頑張ったね」
ラウールの温かい手のひらがエセルの頭を優しく撫でる。それがとてつもなく心地よくてエセルはさらに泣きたくなった。人の優しさが身に染みるという奴だ。魔王だけれど。
幸せをしみじみ感じていると場違いな高い声が響いた。
「あら! エセルさん。お庭でお昼を食べているの?!」
亜麻色の髪の可愛い少女、マノラが大きな目をキラキラさせてこっちを見ている。相変わらず豪華なドレスと宝石を身にまとい、日の光に反射して目が痛い。そういうのは夜会で着るものだ。
しかし、皇太子殿下のお気に入りに対してわざわざ指摘する気はなく、エセルは言葉を飲み込む。
「ええ。天気がいいので」
「ステキね! わあ、パン美味しそうっ! もらっちゃおー」
マノラは何の許可もなくラウールの隣に座り込むと、バスケットからパンを鷲掴みにして口いっぱいに頬張った。
エセルはあまりの品のなさに顔が引きつる。ラウールは珍しく目を真ん丸にした。
しかし、二人の反応などまったく気にすることなく、マノラはラウールのカップでコーヒーをガブ飲みし、スープまで手を付けた。
「美味しー!! これ、あなたが買ってきたの?」
マノラはラウールを覗き込むように見上げる。
「ええ。大好きな婚約者のエセルのために」
ラウールはにっこり微笑むと同時にエセルの肩に手を伸ばして自分の方へ引き寄せる。いきなりラウールに引っ張られてエセルは目を瞬いたが、ラウールはそんなことお構いなしに言葉を続ける。
「お気に召したのならそのバスケットのパンすべて差し上げます。今日は天気もいいし風も気持ちいのでごゆっくり。僕たちは用があるので失礼しますね」
ラウールは笑顔のままだが付け入るスキを一切マノラに与えなかった。エセルを半ば抱きしめるようにして立ち上がると軽く会釈をしてラウールは歩き出した。
マノラはぽかんと口を開けたまま、止めることもできずに齧りかけのパンとともに取り残された。
戸惑ったのはマノラだけではなくエセルもだ。
いきなり抱き寄せられ、そのまま立ち上がって今もなおラウールの腕が自分の腰に添えられている。プライベートでならいざ知らず、公共の場でラウールがこんなことをするのは珍しい。
「ラ、ラウール? どうしちゃったの?」
「……ごめんね。びっくりさせちゃったね。でも、あの女からエセルに対して敵意を感じちゃって守らなきゃって思ったんだ」
ラウールは眉を下げてしょんぼりしながらも、その声はとても強く確かな意思がある。
嬉しいやらくすぐったいやらでエセルは緩みそうになる頬を隠すため、思わずうつむいた。しかし、それを怒っていると勘違いしたラウールは大慌てでゴメンゴメンを連発し、エセルはそれを宥めるのにちょっとだけ苦労した。
■
王宮の一室、きらびやかなシャンデリアに照らされた花柄模様の壁とピンクを基調とした調度品が置かれたここは、皇太子カスパルが「聖女のマノラのために」と用意してくれたものだ。
本物の聖女であり、皇太子の支持を受けるマノラは皆から尊重されるべきなのだ。
(許せないわ。この私をぞんざいに扱うなんて何様のつもりよ。痛い目にあわせないと気が済まないわ)
プライドをズタズタにされたマノラはエセルへ憎しみを募らせた。
(さあ、どうしてくれようかしら…………。やはり、ここは私の立場をうまく使うべきよね。ロベルタの秘書に苛められる可哀想な本物の聖女、ふふ、あの女は非難にさらされるわね)
気に入らない相手をいたぶるのはこれが初めてではない。いつも、自分の可愛さを利用して回りを動かすのがマノラの手だった。
自分の可愛さという武器が有象無象を蹴散らすのが何よりも楽しい。
マノラは涙をポロポロとこぼし、ベッドメイキングをしていた年配の侍女のカロリーヌに抱きついた。
「カ、カロリーヌ………うう」
愛情豊かで可愛いものに目がない彼女は人形のようなマノラを猫かわいがりしていた。
カロリーヌは可愛いマノラがしくしく泣きだしたのを見てシーツを触る手を止めてマノラの傍にすっ飛んでいった。
「まあ、可哀そうに目をこんなに腫らしてどうなさったんです?」
「う……う……。ロベルタの秘書官が……自分たちの食べ残しを私に押し付けたの……」
マノラはしくしく泣き始めた。もちろん嘘泣きだが、マノラに夢を見ているカロリーヌは気が付かない。
「ま、まあ! なんてひどいんでしょう!! お可哀そうなマノラさま……さっそく、皇太子殿下に申し上げましょう!! そのような輩はしかるべき罰を受けさせなければいけませんわ!!」
カロリーヌはマノラの思った通りに憤慨し、肩をいからせて部屋を出て行った。
これはいつものことだ。マノラにとって不都合があればカロリーヌを介して皇太子が動く。皇太子もカロリーヌと同様に正義感が強く、マノラが虐められると知ると必ず庇ってくれるし戦ってくれる。
マノラは上手くいったとほくそ笑んだ。きっと、数時間後にはあのエセルという女が悔しげな顔でマノラに頭を下げにやってくるだろう。
ところが、やってきたのは冷え冷えとするオーラを放つロベルタだった。カロリーヌと皇太子が通せんぼをするが、ロベルタはものともせずに進んでいく。皇太子とはいえ、強大な権力を持つリズベア公爵家にあまり強く出られないのだ。
「ロベルタ マノラが怖がるから君は部屋に入らないでくれ」
「そうですともそうですとも!! マノラさまはとても繊細な方なんですよ!!」
「ああ、うるさいったら。話があるだけだと言ったでしょう」
ロベルタはぴしゃりと言い放つと、マノラに向き合った。この女の赤い目が何もかも見透かされそうでマノラはとても嫌だった。
「きゃああ……こ、こわいです。カスパルさまぁ……」
怖いのは本当だ。マノラは涙目で皇太子カスパルに抱き着いた。すると彼はマノラを守るように抱きしめた。
「ロベルタ。こんなに怖がっているじゃあないか。君も人の心があるのなら可哀そうなマノラを虐めるような真似はしないでくれ」
「わたくしはまだ何もしていませんわ。それよりも、その女がわたくしの大事な秘書官を侮辱したから抗議しに来ただけです。食べ残しをあなたに押し付けたと聞きましたが、あなたが彼らのだんらんを邪魔した挙句、食事を奪ったのでしょう?」
図星を言い当てられ、マノラは唇をきゅっと噛んだ。
しかし、真実を知らない節穴皇太子はマノラを庇う。
「マノラがそんなことをするはずがない。それに、人のだんらんをわざわざ邪魔して食事を奪うなんてよほどの愚か者か性格の悪い人間しかしないだろう」
グサグサ。っとマノラの心臓に見えないトゲが刺さる。しかし皇太子とカロリーヌは気が付かず、正義の味方気取りでロベルタに立ち向かう。
そんな愚かな二人をロベルタの赤い目が蔑むように細くなる。
「そういうことを平気でやってのけるのがその女なんですよ。お疑いになるなら庭師と警備騎士に確認すればいいですわ。口をそろえて秘書官の休息中にいきなり割って入ってパンとコーヒーを横取りしたと言っていましたから」
ロベルタが呆れたように言うと、皇太子はふむと少し考えこんだ。というのは、マノラは食べ物に執着しがちだからだ。皇太子の皿からお菓子を取ったことも度々ある。
そこがおサルみたいで可愛いと皇太子は思ってしまうのだが、他人から見れば無礼に見え、食事を中断してマノラに明け渡すのも無理はない。
皇太子は自分なりにストーリーを作り上げて納得した。
「どうやらマノラに非があるようだ。私からも先方に謝罪するから、今日はこれで手を打ってくれないか」
「え?!」
マノラは声を上げた。まさかカスパルがロベルタの肩を持つとは思わなかったのだ。皇太子はマノラを気にせずロベルタと話を続ける。
「それでいいだろうか?」
「ええ、その女にもきっちり謝罪させて下さいね。ただでさえこちらは多忙を極めているので」
「わかった」
皇太子はあっさり承諾した。
「え?!」
マノラは二度目の声を上げた。
結局、悔しげな顔で頭を下げる羽目になったのはマノラの方だった。
■
苦汁を飲まされたマノラだが、ただで引き下がるほど殊勝な人間ではない。マノラは策略を巡らせた。腹心の部下、イライザを使って自分の髪飾りをエセルの部屋に忍ばせ、盗みの罪を着せようと考えた。
イライザはマノラに似たり寄ったりのあくどい女で、マノラの悪だくみ仲間である。
マノラは頃合いを見計らい、わあわあ大げさに泣きながら宮殿の廊下を走った。
「カスパル様に買って頂いた髪飾りがないのぉぉぉ……!!! 誰かに盗まれたんだわ……!!」
執務室で仲間と共にマノラを聖女にするため、日夜奮闘している皇太子は突然飛び込んできたマノラを見て驚愕した。
「マ、マノラ。髪飾りごときでそんなに泣くとは……。君は本当に純粋な人間だな。好きなだけ買うといいよ」
皇太子はマノラの感受性の強さにジーンと感動し、よしよしとマノラの頭を撫でた。
違うそうじゃない。
マノラは皇太子の言葉に思わず真顔になった。
「私は忙しいから店に私の名前でお買い物をするといい」
カスパルは見当違いなことを言い続けるが、マノラが欲しいのは髪飾りではない。粛清だ。
「……あ、あの髪飾りはカスパルさまが初めてマダム・サニーの店で買って下さった思い入れのものなんです! どうか犯人を見つけて取り返して下さい!」
ポロポロと涙を溢し、健気さを演出してマノラは皇太子に訴える。
記念日なんぞ覚えないタイプの皇太子はキョトンとして、
「そうだったか?」
と思わず答え、マノラは腸が煮えくり返った。
ヒドイヒドイと本気で泣くマノラにさすがにバツが悪くなった皇太子は人をやって犯人捜しを始めた。
ようやくマノラの思い描いたとおりに動き始めたが、エセルやラウールよりもこのカスをぶっ飛ばしたくなった。
イライザが流した噂が功を奏し、盗人の疑惑がエセルに集中した。慌ただしく宮殿内を走り回る彼女の姿は誰もが目撃している上に、そこにイライザが流した「髪飾りを持って逃げ出した」とか、「ロベルタ様の命令」だとかが相まってエセルの有罪はほぼほぼ確定したようなものだ。
「違います。そんなことしていません!」
エセルが主張し、そしてロベルタが援護する。
「皇太子殿下、エセルはそのようなことをする娘ではありませんわ。それに証拠の髪飾りも出てきていないではないですか」
「しかしロベルタ。走り去るリーブス伯爵令嬢を見たという証言があるのだぞ。リーブス伯爵令嬢、正直に話してくれ。花を模した髪飾りを君が盗んだんだろう?」
皇太子はエセルを厳しい目で見る。
ここでロベルタが待ったをかけた。
「花を模した髪飾り……その女が今付けているものでは?」
美しいロベルタの指が指し示した先はマノラの亜麻色の髪だ。頭部のサイドにピンクのキラキラ光る髪飾りがついていた。
「え!?」
マノラは驚く。
皇太子はマノラの髪飾りを見ると楽しそうに笑った。
「あはっは。まったくマノラはそそっかしいなあ。自分が付けているのをすっかり忘れていたんだね」
「皇太子殿下、笑い事ではありませんわ。その女はこともあろうに伯爵令嬢に盗みの罪を着せたのですよ」
ロベルタの冷たい声に皇太子は肩をすくめる。
「も、もちろん理解しているとも。マノラ、君の早合点でリーブス伯爵令嬢の名誉を傷つけたんだ。謝罪して許しを乞いなさい」
「え?!」
マノラは驚くが皇太子の目は本気である。周囲を見渡すが、カロリーヌもそわそわするだけで助け舟を寄こすつもりはなさそうだ。
マノラは怒りで震えながら頭を下げて謝った。
■
マノラはイライザを鞭で打った。
彼女の失態のせいでマノラは皆の前で謝罪させられ、大恥をかいたのだ。怒りはとうに限界突破し、手近な小物を投げ飛ばし、クッションを叩きつけマノラは怒鳴った。
「こともあろうに私の髪につけるなんてどういうつもり!?」
「違います!! 私はきちんとリーブス伯爵令嬢の部屋に髪飾りを忍ばせました!!」
イライザは泣いてマノラに許しを乞う。
「それじゃあなんで私の髪についているのよ!!」
「知りません!! それに、私が髪飾りを持ってお部屋から出たのをご存じですよね!!」
言われてマノラは思い返す。イライザが作戦を実行するために部屋を出てから、彼女に会っていない。
「……たしかにそうね。あんたの言い分は分かったわ。ひとまず信じてあげる。でも、ただじゃあ許さないわよ。わかっているわよね」
マノラはイライザを睨んだ。
イライザはコクコクと頷く。
マノラが恐ろしい女なのは近くにいたイライザが一番よく知っている。不興を買えば鞭を打たれ、悪評を流されて地方へ放り出される。平民のマノラだが、皇太子が特権を与えているため、各機関に顔が効いたのである。
マノラが次に考えた手は、エセルにマノラを階段から突き落とさせるというものだ。近々開催される神職会議はロベルタの聖女の真偽を問うものである。皇太子たちが公務を放り出して必死に頑張ったおかげでようやく開けた会なのだが、ここでロベルタの最側近がマノラに怪我をさせれば一気に同情がマノラに集まる。
ロベルタもエセルも同時に叩き、マノラの溜飲も下がるというものだ。
マノラはイライザに念を押した。
必ず成功させろ。今度失敗したら、悪名高い代官の下へ妾として送るぞ。と。
■
神職会議の日、白髭を生やした威厳のある司祭たちが厳めしい顔でぞくぞくと大ホールに集まって来た。彼らはロベルタこそが聖女だと微塵も疑っていない。なにしろ神託でそう出たのだ。それにも関わらず、皇太子一派がマノラこそ聖女だと一歩も譲らないため、多忙の中ワザワザ時間を作らざるを得なかったのだ。
不満顔の彼らと違って皇太子とゆかいな仲間たちは上機嫌だった。今までの苦労が実り、真の聖女、マノラが日の目を見るのだと信じて疑っていない。
騒がしい階下をマノラは静かに見下ろした。いくら計画とはいえ、ここから落ちるのは中々勇気がいる。落ちそうになったマノラをイライザが引っ張り上げる手はずだが、本当に実行できるのかと今更ながら不安になった。
(でもこれくらいのことしなきゃあ、私の味方を増やせない)
最近では、きっちり働くロベルタとエセルに同情の声が集まり、マノラは劣勢だった。
マノラは柱に埋め込まれた大時計を見た。もうそろそろ来る。ここの二階は宮殿と渡り廊下で繋がっており、マノラの息のかかった官吏がギリギリまでエセルを足止めしていた。エセルは時間を節約するためにここを通らざるをえない。
靴音が響き、マノラの真後ろで止まる。
「マノラさん。そこを通していただける?」
エセルの声が背後に聞こえた。
今だ。
マノラの背にドンと衝撃が走る。
「キャアアアアア!!!! 誰かに押されたわあああああ!!!!!!」
マノラの悲鳴は大ホールに良く響いた。
柱の陰に隠れていたイライザがエセルを押し、グラついたエセルがマノラを押す。ドミノ倒しだ。イライザはエセルの影に隠れるから人々はエセルがマノラを押したと確信するだろう。
階段を踏み外したものの、そこから転げ落ちるのはやはり怖くて近くの手すりをガシっと掴んだ。
怖がる演技をしながらマノラは後ろをゆっくり振り返る。あの女はどんな顔をしているだろうか……と期待を込めて見上げると、そこには呆然とした顔のイライザがいた。
ご丁寧に手のひらを前につきだし、いかにも『私が押しました』といったポーズで。
しかも、エセルは近くの柱にヨロヨロともたれかかり、まるで被害者といわんばかりの姿だ。
「何をしているんだイライザ!! 君はマノラの専属侍女だろう?! 主人を階段から突き落とそうとするなどなんという不心得者だ! 衛兵! その女をいますぐ捕えよ!!」
皇太子カスパルは激高して怒鳴った。
イライザは真っ青な顔で反論した。
「ち、違います!! 違います!! 私はリーブス伯爵令嬢を……」
言いかけて止まったのは、それ以上言うと自分の悪事が露呈するからだったが、皇太子の追求はもちろん止まない。
「ああ、リーブス嬢にも危害を加えようとしていたようだな。そちらは幸い柱を支えに階段から落ちることは免れたようだが……怪我はないか? リーブス嬢」
皇太子はエセルを気遣う。彼は節穴で間抜けなだけで正義感は強かった。
「ご心配恐れ入ります。怪我はございません」
エセルは頭を下げて礼を取る。
「それは良かった。イライザ!! 今はマノラを聖女にするための重大な会議の最中だ。 それを潰した罪はさらに重いぞ」
皇太子は険しい顔でイライザを睨む。大事な女性の大事な場を潰されたこと、そして真面目で日々民のために忙しくしているエセルを害そうとしたこと、皇太子の怒りはとてつもなく激しかった。
「違います違います!! 私はその女を押そうとしただけです!!」
イライザにもう少し機転があればロベルタに指示されたと嘘が付けただろうが、切羽詰まった彼女は馬鹿正直に話した。
「なんだとっ!! 伯爵令嬢を故意に階段から突き落とそうとするなど恐ろしい女だ! 衛兵、すぐに捕まえて引っ立てろ!!」
皇太子の命令に衛兵たちはわめくイライザを引っ張って奥の方へと連れ去っていく。
「リーブス伯爵令嬢、怖い思いをしたな。具合が悪いなら侍従に部屋を用意させるがどうかな」
皇太子は優しくエセルを気づかったあと、マノラに厳しい目を向ける。愛のムチだ。
「マノラ、君はイライザの主人だ。管理不足をリーブス嬢に詫びなさい。これから先、聖女として権力を持つのだから上の人間としての立ち居振る舞いを経験するいいチャンスだ」
彼は膝小僧を打って座り込んでいるマノラに諭すように言う。彼はマノラがガッシリと手すりを掴んでいるのが見えたので大丈夫だと考え、心配はしなかった。
「え!?」
マノラは声を上げた。
驚く彼女だが、周囲の視線はやって当然と言わんばかりにマノラの謝罪を待っている。
「ちょ、ちょっと!! なんで私の心配してくれないの!? 私、階段から落ちたのよ!!!」
「手すりを掴んでいたから大事はなかったようだし、マノラは元気が取り柄だろう? それよりもリーブス嬢は君と違って貴族の令嬢なんだ。この衝撃ははかりしれない」
皇太子はマノラの反応に少し驚き、目をパチパチさせながら自分の考えを述べる。
普段、マノラは「私は元気が取り柄なんです。ひ弱な貴族の令嬢と一緒にしないで下さい」といい、木登りや水遊び、素足でのかけっこなどやりたい放題やっていたので、皇太子はマノラをそういう意味で心配することは止めたのである。
結局、マノラは大勢の前でエセルに頭を下げる羽目になった。
■
踏んだり蹴ったりのマノラはなんとかエセルを懲らしめてやると怒りに燃えた。
色々考えた結果、マノラはエセルに魔女の疑惑を植え付けることにした。大勢の人間は魔族など信じていないが、意外に神官たちは魔族や女神の存在を信じ切っている。ロベルタが聖女に選ばれたのも神託が下ったなどと言ってマノラを退けたのだ。
おおかた既得権益を守りたい神官どもと聖女の地位が欲しかったロベルタが組んだ茶番だろうが、これを利用しない手はない。それに、アホの皇太子もなぜか聖女の存在は信じ切っているから、今度こそマノラの味方になるだろう。
(私を怒らせたこと後悔させてあげるわ!!! 異端審問にかけられて地下牢で冷や飯を食らうがいい!!!)
マノラは自分の信奉者の一人、侍女アンを利用することにした。エセルの近くに配置させ、援護をさせるためである。
その日の午後、仕切り直しに開かれた神職会議はロベルタを聖女と叫んで憚らない神官たちと、マノラの清さ正しさを訴える皇太子の舌戦が繰り広げられていた。
神官は神託が絶対だと譲らず、皇太子はマノラの人となりと実績を持ち出して対抗する。
「マノラは救貧院で炊き出しを行い、恵まれない子供たちに絵本を読み聞かせ、皆を笑顔にした。まさに聖女だろう!!」
「女神の信託は絶対です!! なんといおうと我々は女神を裏切れません!! 聖女は魔を見抜き、災いからこの土地を守ってくださいます!! 偽物を聖女にするわけにはいかんのです!!」
マノラは今だと思った。
すうっと息を大きく吸い、マノラは口を開いた。
しかし、彼女が叫ぶ前に神官の一人が絶叫した。
「皆様方!! た、大変でございます!! 山から黒煙がっ!!!!」
マノラは噴火か。と思った。窓を見ると黒々と煙をあげて空を染め上げていた。そしてそれは徐々に形を変え、蛇のような、蝙蝠のような不気味な姿へと形を変えていった。
人々が超常現象に絶句している中で、神官長が悲鳴を上げる。
「ヒイイイ!!! 古代魔獣ヴェルバゴル!!!」
「神官長!! すぐに結界を張って奴から国を守らねば、一面焼け野原になってしまいます!!」
「バカモン!! 古代魔獣が我ら神官程度の法力で太刀打ちできるものか!! 聖女の力が必要なのだ!!」
神官長の言葉に反応したのは皇太子だった。
「神官長!! 安心しろ!! マノラがいる!!」
彼の表情は期待に満ちていた。いかに節穴皇太子とはいえ、先祖代々から受け継がれる古代魔獣や聖女の伝説を一度も疑ったことはない。
「マノラ!! 今こそ君の力を示す時だ!! さあ、唱えてくれ!!『魔よ滅びよ』と」
喜びにあふれた皇太子の声が響く。腐っても皇太子、自分には扱えないが教養として呪文を覚えていた。
だが、マノラの顔は真っ青だ。天知る地知る己知る。自分が聖女ではないことを一番知っているのはマノラだ。自分がそんなもん唱えても焼け石に水どころか単なる空気だ。
固まるマノラに皇太子はせっつく。
「マノラ! 早くしないと民に被害が出る!! その前に魔獣を止めてくれ!!」
「無理よ無理!! わたしじゃあ無理!!」
「大丈夫だ!! 自分を信じて!! 信じる者は救われる!!」
皇太子はマノラを励ました。彼女の正直な告白を無惨に打ち消したのだ。
「私は聖女なんかじゃあない!! ただの人間よ!!だって聖女なんてただの伝説で、美少女コンテストみたいなものだと思っていたんだもの!!」
「マノラ!! そう自分を卑下するな。君の優しさ、清らかさはまさに聖女に相応しい!!」
「だからっ!! 違うって言ってんでしょ!!!!! 今、はっきりわかった。聖女はロベルタ!! 彼女しかありえない!!」
マノラは絶叫した。ヤケクソではなくマノラの目は真剣だった。
「な、何を言うんだマノラ!! ロベルタの気性の激しさは君も知っているだろう!? いい奴だが聖女というには気が荒いぞ!!」
皇太子が狼狽えながら言うとマノラはハッキリ口にした。
「聖女じゃあなけりゃあ、あんたみたいなトーヘンボクの婚約者なんて務まらんわ!!! どんな聖人でも気性が荒くなって当然よ!!」
マノラの暴言に皇太子は呆然とする。しかし、言い切ったマノラはすっきりした顔だった。両手を上げて降参のポーズをとるとロベルタを見る。
「すべての罪を認めるわ。極刑でもなんでも潔く受けようじゃあないの。どうせ、魔獣が倒されない限り国もろとも滅ぶしね」
ずいぶん厚かましいマノラの要求だが、ロベルタは鷹揚だった。
「オホホ。自首と言うことで減刑して差し上げましょう。ああ、忘れていたわ。『魔よ去れ』」
ロベルタの一言で接近中の古代魔獣は霧散し、脅威は去った。
神官たちは拍手喝采で大喜びし、マノラは少しだけ笑ってロベルタに小さく拍手を送った。
皇太子はマノラの暴言から未だ立ち直らず、ボーッと立ち尽くした。
一方、エセルは麗しの婚約者のことを考えていた。
(魔王のラウールなら古代魔獣の封印くらい簡単に外せるわよね……いやいやまさか、そんな)
そう思いながらも、彼ならやりかねないなと思ってしまう。盗人疑惑や踊り場で押された件、不思議な力がなければエセルは罪人になるところだった。
ラウールが自分を守ってくれた……と嬉しくなる半面、ラウールが魔獣を呼び出さざるを得ないほど自分は危機に瀕していたのかと恐ろしくなった。
後日、エセルは何もしてないのに、よくわからない功績で女公爵の地位を授かった。専属の騎士団も与えられ、エセルは驚愕するしかない。
「ロ、ロベルタさま。一体どういうことなんです?」
「あらいやだ。あなたに危機が迫ると国レベルで滅亡寸前に追い込まれるんですもの。聖女のわたくしよりも重要だわ。なにしろ魔王の花嫁ですものね」
ロベルタの答えにエセルは絶句するが、考えてみれば聖女のロベルタが気づかないわけがない。
そして、エセルは今更ながらにとんでもない人と婚約してしまったと思うのだが、目の前のロベルタは楽しそうに笑う。
「エセル。大丈夫、必ず幸せになれるわ。これは聖女の予言よ」
突然言い渡された予言にエセルは驚いたのだが、それはいついつまでも外れることはなく、エセルは優しいラウールと幸せに暮らした。
なお、皇帝となったカスパルはマノラの暴言から猛省し、人の話を最後まで聞くようになった。特に迷惑をかけたロベルタには気配りを忘れないように心がけ、愛と尊敬を持って彼女に接したのでロベルタの気性が穏やかになった。
また、マノラは減刑されて地方の戒律厳しい修道院で修業の日々を送ることになるのだが、不満一つ溢さず、むしろ聖女ロベルタを褒めたたえる敬虔な教徒となった。