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朝まづめのふたり

作者: 真中けい

現代の中学校、作者的にはファンタジーとほぼ同義ですが、一応現代日本の中学生の話です。


思わぬところで、平成か、と突っ込まれることを恐れ半分期待半分しつつ。

 朝まづめ。

 釣り用語。

 夜明け前後の時間帯。




 山本譲(やまもとゆずる)には好きな女性がいるらしい。

「ミサキさん、明日もいるかなあ」

 女子、ではない。女性、らしいのだ。

「知らんがな」

 林紗世(はやしさよ)は机に視線を向けたまま、何も考えることなく返した。

 二学期の中間試験まであと三日しかないのだ。

 放課後は疲れてやる気が起きない。家には誘惑が多すぎて集中できない。とはいえ試験勉強をせずにテストに臨むほど頭の出来はよくない自覚はある。

 試しに今朝早く家を出て、静かな教室で勉強してみようかと思ったのだ。

 一番乗りの教室は外の喧騒から遠く、秋の気配が濃くなってきた気温も頭を使うにはちょうどいいように思えた。これはいける、と気合いを入れて教科書とノートを広げた。

 その心地良い集中は、ものの五分で紗世の意志とは関係のない終わり方をした。

 前の席に座って、勝手にべらべら喋りだしたのは、同じクラスの譲だ。

 小学生の頃には、ゆーくん、なんて呼んでいたこともある。

 さよちゃん、が林、に変わったのは小学四年か五年のあたりだっただろうか。その頃から紗世も山本くん、と呼び方を変え、最近ではぞんざいさが増して山本、と呼び捨てている。

「林冷たい。なあなあ、今度久しぶりに一緒に海行こうぜ」

「はあ?」

 紗世は初めて視線を上げて譲の顔を見返した。

 チビだったくせに、二年生に進級したこの半年で馬鹿みたいに背が伸びた男の子の顔がすぐそこにあった。

 オシャレなんてまったく理解していない、伸びたら切る、放置、気になったらまた切る、を繰り返している短い髪。今は多分三センチくらい。剥き出しの額は室内競技の部活の割によく日焼けしている。

 大きくなっても、円い目のアホっぽさは小さい頃と変わらない。

 どちらかというと童顔、ちょっと背が高い小学生でも通りそうな邪気の無い顔。

 自分たちは田舎の中学生だ。

 一緒に海に行った、なんて周囲に知られたら、どんな噂が出回るか想像に難くない。

「最近釣りしてないんだろ。俺らのなかで一番巧かったのにもったいない」

 ふたりの通う公立中学は、小さな漁師町にある。

 釣り経験のある子どもは少なくない。

 小学生の頃は紗世も、三つ上の兄と漁港に行って釣り糸を垂らしていた。

 魚が餌に食い付くのに合わせて竿を上げるタイミングが巧いとよく褒められていた。かかった魚を逃がすことが少ないから釣果が多く、同級生男子の尊敬を集めていたのだ。

「いつの話してんの。行かないよ。もう竿もないし」

「兄貴に借りて来いよ」

「貸してくれないよ。ひとりで行けばいいじゃん。そのミサキさん? ってひとに会うんでしょ」

 ここ数ヶ月、譲が男子の輪の中で喋っているのが何度か聞こえてきているから、ミサキさんなるひとがどんな女性なのか、紗世もなんとなくだが知っていた。

 釣り女子。毎週末車で釣り場に来ている。つまり大人。

 先週はカワハギ、その前はヒラメを釣っていたと聞いたときには、紗世も血が騒ぎかけた。

 ウミヘビと名の付いている魚は処理が大変だからと逃がそうとしていたから、譲とその釣り仲間とで譲ってもらったのだと言っていた。

 まあなんというかつまり、譲はミサキさんのことを尊敬しているのだ。

 彼女の話をする姿は楽しげで、恋をしているようにしか見えなかった。

(あのアホなゆーくんがねえ)

 中二、まだ十三歳だ。大人の女の人を好きになるには早すぎる。そういう早熟な(マセガキ)タイプの男子ではないと思っていたから、少し意外だ。

「俺の竿貸してやるよ。中間で三十位以内に入ったら、新しい竿買ってもらう約束なんだ」

「……期末何位だったの?」

「八十……あれ? 九十位くらい?」

「勉強しなよ」

 大袈裟なくらいに冷たく言い放って、紗世は試験勉強を諦め席を立った。

 そろそろ誰か登校してくる頃だ。

 誰もいない教室でふたりで話をしていた、なんて噂されたらたまらない。

 そういう面倒はなるべく避けるに限る。

(……あれ?)

 そういえば、譲はなんでこんな朝早くに学校に来たのだろう。

 譲の家は、紗世の通学路の途中にある。朝早くに登校するところが家から見えたのだろうか。

(まさかね)

 見えたとしても、彼にはもう、紗世を追いかけてくる理由なんかないはずだ。



 翌日土曜日、なんだかんだ紗世は漁港に出向くことにしてしまった。

 試験前の休日朝七時なんて時間から海に行くアホは譲くらいのものだろうし、ちょっとくらいいいかな、という気になったのだ。

 林家の朝食は、平日土日祝日関係無く同じ時刻に用意される。

 おかげで昼食まで五時間も勉強時間が確保されてしまった。そんな長時間集中できるわけがない。

 一時間……二、三時間ばかり気晴らしする必要がある。

 あんた試験前にどこ行く気⁉︎ と角を生やす母親には、海、すぐ帰るよ、とだけ告げて自転車のサドルに跨った。

 雪国、と言っても豪雪地帯ではない。夏は普通に暑く、冬は子どもがはしゃぐ程度には雪が積もる、小さな漁師町。

 家の前を流れる川に沿って自転車を走らせると、すぐに海が見えてくる。

 淡水と海水が混ざる汽水域でしか獲れない魚もいて、この辺りは釣り人の間では有名なスポットだ。わざわざ釣りのためだけに県外から来る釣り客目当ての民宿が、いくつも軒を連ねている。

 ここの生まれで良かったな、と思うのはこんなときだ。

 娯楽の少ないど田舎だけど、海がある。自転車で行ける範囲にないからカラオケなんて行ったことないけど、特に困ることはない。

 都会の中学生は自転車だけじゃなく、電車やバスという選択肢もあるんだったか。

 紗世は保育園や学校の行事以外で電車に乗ったことがない。駅まで行くのにもひと苦労あるし、小遣いの少ない中学生に電車賃はかなりの痛手だ。隣の市に映画を観に行きたいと言えば、親が車を出してくれる。

 それがこの田舎町の普通なのだ。

 小六までは、学校が休みの日には竿を持って海に行っていた。

 女子では少数派だったけど、それでも何人か釣り仲間の女友達はいたし、もしその友達がいなかったとしても気にならないくらい、小学生だった紗世は釣りが好きだった。


 桟橋の手前で自転車を停めて、久しぶりの潮風を身体の正面から受けた。久しぶりと言っても、自宅前に吹く風にも磯臭さを感じることはあるのだけれど。 

 視界を遮るもののない湾の向こう側からの風は、やはり爽快感が違う。

 まだ太陽の位置が低いし雲も厚めだが、肌寒さを警戒して着てきた薄手のパーカーは失敗だった。首周りを開いて風を入れると、じんわり滲んだ汗が乾いていく。

 譲の姿は見えない。

 土日は朝からいると言っていたくせに、まだ寝ているのだろうか。

 海沿いに長く続く堤防を右手にのんびり歩く。通称釣り桟橋は堤防から直角に海に延びている。

 桟橋には手摺が設置されているためか、家族連れで賑わうことも珍しくない。

 小学校高学年にもなれば、子どもだけで連れ立って行くと言っても、危ないからと禁止されることもなくなる。

 紗世も他の場所に移動しないことを条件に、小四の頃から親抜きで海に行ってもいいと許可が下りた。親代わりに三つ上の兄の同行が必要だったが、当時は彼も海でばかり遊んでいたから、不自由に思うことはなかった。

 今朝は紗世より小さな子どもはふたりばかり。保育園くらいの姉弟のようだ。ふたりとも一人前に竿を持って海に向かっている。

 付き添いは若い母親だ。

 他の釣り人は、釣り桟橋にもうひとり、堤防にふたり、少し離れた場所に見えるテトラポットにひとり。

 女性は幼い子連れの母親ひとりだけだ。

 まさかあれがミサキさんなのだろうか。

(まじか、山本。子持ちは冒険しすぎだよ)

 譲の恋の相手が彼女なのだとしたら、からかうのも躊躇してしまう。

 中二で疑似不倫は、いくらなんでも問題だ。元釣り仲間、現クラスメイトとして止めるべきだろうか。

 幼いながらも釣り慣れしている姉弟は、特に大人の手を必要としておらず、そのためか母親の視線は子どもでなく手元に向けられていた。

 彼女はアウトドア用の椅子に腰掛け、デニムの太腿に両肘をついて前屈みに文庫本をめくっている。

 ここで釣りにも海にも関係ないことをするひとは珍しい。

 子どもにせがまれて、仕方なく連れて来たのだろうか。

 その母親はまだ二十代、もしくは三十代くらいだろうか。大人の年齢はよく分からないが、オバサンと呼ぶのは憚られるくらいには若々しく見える。少なくとも自然な色の黒髪に白髪は見当たらない。

 毛先は肩に付かない程度のショートボブ。化粧っ気は無くて、だけど健康的な肌色の顔は美人と言っても無理がない。

 いいな、短い髪。

 紗世は後ろで無造作にくくっただけの髪が急に恥ずかしいような気がしてきた。

(テストが終わったら、お母さんに美容院連れてってもらおう)

 あまりじろじろ見て目が合っても気まずいだけだから、紗世は海に目を向けた。

 波は穏やかだ。風も心地良い程度にしか吹いていない。

 竿もないのに桟橋に行っても手持ち無沙汰になるだけだから、適当にそのへんを歩いてから帰るか、と思ったときだ。

「ぅおっ⁉︎」

 堤防の釣り人が小さい声をあげた。

 当たりを引いたのだ。

 大物のようだ。

 紗世が振り返って見ると、竿が折れそうなほどにしなっていた。

 釣り人、おじさんだ、彼は立てた竿のリールを巻きながら、魚の動きに合わせて左、次は右、更に右、と動いている。

 テロテロの上着にだぶだぶのデニム、少し太り気味の普通のおじさんが急に格好良く見える。

「青モノですか。タモ入れます?」

 紗世が後ろから訊くと、

「お願いします!」

 間髪入れずに返事が返ってきた。

 紗世は立て掛けてあった大きな虫取り網のような形状のタモを掴むと、堤防によじ登って魚影を見守った。

 男が慣れた手付きで魚の動きを誘導すると、海面に魚の姿が現れた。

(すごい)

 フクラギだ。ブリと呼ぶにはまだ小さい。というか、沖に出ないとそこまで大きな獲物は狙えない。

 紗世は一年以上のブランクがあるとはいえ、興奮して頭から海に落ちるような素人ではない。

 確実にタモを魚の下に差し込んで、その重さに驚いた。

 自分を海上に引き上げる未知の感覚に抗う魚は、タモの中で力いっぱい跳ねている。

 紗世は腕に力を入れながら堤防の上でしゃがんで、体重を心持ち後ろに移動させた。

 引き上げたフクラギは、四十センチほどのサイズだった。持った感じだと、七百グラムくらい。

 船に乗ることなくこんな大物を釣っているひと、初めて見た。

「ありがとう。助かったよ」

 男が魚の口から針を外しながら、紗世を見上げて礼を言った。

 いいえ〜と返しながら男の手元を覗き込むと、近くで甲高い歓声が上がった。

「パパ! 釣ったの? ブリ?」

 分かるんかい、と思わず喉までツッコミが出かかった。ずいぶん優秀なチビっ子釣り師である。

 釣り桟橋にいた幼い姉弟だ。まだ小学生にもなっていない子の口から魚の名前が出てくるとは思わなかった。

 この地方では、ブリの幼魚をフクラギというのだ。見た目は同じで、サイズだけが違う。

 冬になればあちこちで美味しいブリ料理が食べられるが、紗世の母親などは、この歳になると刺身は脂の乗ったブリよりフクラギのほうが美味しい、などと言う。

「おう。このおねえちゃんがタモ入れてくれたから、今夜は刺身が食べられるぞ。お礼言って」

「ありがとう!」

「いいえ〜」

 可愛い。

 中学生になると、小さい子と接する機会が激減する。こんなに小さい子を間近に見るのは久しぶりだ。

 ぷくぷくのほっぺたと、その割に細い手足、だけど手の甲はやっぱりぷくぷく。

 突っつきたい。頬を押したら、ぷに、と音を立てて指が沈んでしまいそうだ。

 典型的な幼児体型の男の子は、大興奮で父親の作業を見守っている。男は躊躇いなく魚のエラの中に指を突っ込み、手際よく血抜きをして簡単に下処理している。

 彼はきっと、自宅に帰って調理するところまで自分でやってしまうのだろう。

 紗世も母親から、食卓に出すところまで自分でやらない人は、釣りをする資格無し! と言われており、小四の頃には三枚下ろしができるようになっていた。

「ありがとう」

 少し遅れてやって来て礼を言う母親にも、同じように返してぺこりと頭を下げる。

 夫婦だったのか。彼らは家族四人で来ていたのだ。

 母親は読書に勤しんでいたことからも、釣りに興味がないのが分かる。子どもに付き添って愛想笑いを浮かべているが、気怠げな様子だ。

 まあ釣りをする女性はいないわけではもちろんないが、少数派だ。

 紗世は過去に言われた言葉を思い出して、ちり、と胸の奥に苛立ちの火が小さく点くのを感じた。

 すう、と息を吸うと、海風が小火を消し去ってくれる。

 軽く会釈してその場を去ろうと足を元の進行方向へ向けた。

(あれ?)

 あの女性は釣りをしない。ということは、彼女はミサキさんではなかったのか。

 そんなことを考えながら歩いていると、すぐ後ろで自転車のブレーキ音が響いた。うるさい。

「えっ何なに? すっげえ! フクラギじゃん」


「山本うるさい」

「あれっなんだよ林来てたのか。ほら言ったとおりだったろ。やっぱミサキさん天才だな!」

 ミサキさん、と呼ばれた男は、ノリ良くドヤ顔をして、子どもと一緒に釣果と記念撮影をしている。

「山本くんの友達だったのか。この子が手伝ってくれたから釣れたんだよ」

「マジか。俺がやりたかった! 林おまえやっぱ持ってんなあ」

「なんも持ってないよ。テスト勉強の気晴らしに来ただけだから手ぶらだし、もう帰るとこ」

「いやいやいやいや」

 譲に右肘の内側を取られて、仕方なく一緒になって漁船が停泊している側まで歩く。

 手ぶらの紗世は、疑似餌を付ける作業に取り掛かる譲を、面倒臭い、というポーズをとって眺めるしかやることがない。


 何人かいた釣り人のものだろう車や軽トラ、漁に使う道具の影になって、周りからはふたりの姿は見えなくなっているはずだ。ふたりきり、というには開放的すぎるかもしれない。だが紗世はここ一年以上、譲とは距離を保って接してきたのだ。

 ちっぽけなプライドが、なんでもないように装わせるが、先ほどから心音が一定にならない。おじいちゃんが言っていた不整脈って、こんな感じなのではないだろうか。

「なあ」

「なに」

「林、何しに来たの?」

「……あんたが引っ張って来たんでしょ」

 紗世はわざとずれた答えを返してやった。

 思い切り嫌な顔をしてやると、譲も同じような顔になった。

「俺が釣り行こって言ったからだろ」

「だから何よ。真面目に勉強してたから、気分転換したくなったんだもん」

 嘘ではない。

 ウソではないが、すべてではない。

「……俺さあ、卒業式の日、おまえに告った気がするんだけど」

 中学生の言う卒業式とは、小学校のものしかない。一年半ほど前の話だ。

「……はあ」

「答え、聞いてない気がするんだけど」

「…………引いてるよ」

「おっ」

 すぐにリールを巻く作業に夢中になる譲の横顔を眺めながら、紗世は一年半前に言われた言葉を思い出していた。


 俺らが一緒にいたらさ、こないだ先生が言ってたみたいな食糧難になっても、虫とか喰う必要無さそうじゃね?

 アホなゆーくんが、まさかの時事ネタをぶっ込んできて驚いたことを覚えている。

 だから俺ら、中学生になったら付き合わねえ?

 だからって何。なになに。意味分かんない。てかこいつ、意味分かって言ってんの?

 紗世はびっくりして、走ってその場から逃げた。

 中学生になったら同級生の数が増えて、一年生のときはクラスも別だった。部活も譲は剣道部、紗世は美術部に入って釣りをやめた。ふたりの接点はほとんどなくなった。

 中学生になると、それまで当たり前だったことを当たり前にやることが難しくなった。紗世が週末に釣り竿を持っているのを見かけた女の先輩が、男ウケ狙ってんじゃね? と聞こえよがしに言うようになった。

 面倒臭いな、と思ったけれど、それくらいで趣味を捨てるほど紗世も馬鹿じゃない。友達に誘われて入部しただけだった部活が、思いの外楽しくなったのだ。

 それまで海で過ごしていた時間を、家で絵を描くことに充てるようになっただけだ。

「……別に避けてたわけじゃないんだけど」

 半分本当、半分嘘。

「あっそ」

「今日はアジばっか釣る予定なの?」

 仕掛けを見ながら訊くと、譲は釣り上げた小アジから針を外しながら頷いた。

「うん。母ちゃんが唐揚げするからって。ワタまで取って、一匹十円」

「買い叩かれてんじゃん」

「な。ひでえだろ。まだバイトできないから仕方ないけど」

「勉強しなよ。三十位に入ればいいんでしょ」

「無理無理。一攫千金より目の前の十円」

 堅実だかなんなんだか、判断が難しいところだ。

「…………ミサキさん、三崎って苗字の男の人だったんだね」

「あのひと? すげえよなあ。俺もフクラギ釣りたい」

「……女の人なんだと思ってた」

 紗世が小声で呟くと、譲がきょとんとした顔になった。

「なんで」

「…………ゆーくんの好きなひとなのかと」

 きょとん顔が難しい顔になる。なんて鈍いやつ。

「俺が? 三崎さんを?」

「いっつもキラキラして話してたから」

「………………」

 沈黙が重い。

 やっぱりもう帰ろう。

 居た堪れなくなって立ち上がった紗世に、思わずといったように譲の手が伸ばされる。

 その掌は、小学生の頃より大きくて硬い。部活で胼胝ができた、皮が剥けた、痛いと騒いでいるのを聞いたことがある。

 肘下までパーカー袖を捲って剥き出しになっていた手首に触れる感触は、ごつごつ、かつ、ざらり。

「えっとえっと、おれやっぱ勉強する。んで新しい竿買ってもらうから、また一緒にここ来ようぜ」

「別に竿くらい自分で用意するけど。勉強はやりなよ」

「でもひとりでやってても、分かんなくなったら嫌んなるじゃん」

「塾行けば」

「部活と釣りの時間がなくなる」

 我儘だ。

 教えてあげるよ、と言えるほど紗世も成績が良くない。

 来年には受験のことを考えなくてはいけないのに、情けない話だ。経済力も頭もない中学生には、解決策を提示することができない。

 中学生には深刻な膠着状態を、小さな闖入者が破りに現れてくれた。

「ねー! パパがナブラって言ってるよー!」

 幼い姉弟の弟のほうがふたりを呼びに来たのだ。

 紗世と譲は顔を見合わせる。

 イワシを追うブリの群れが見えた?

「一攫千金!」

「おばさん、フクラギなら五百円出してくれる?」

「うちの母ちゃんなら三百って言いそうだな。交渉する!」

「アジ三匹あるじゃん、泳がせができるよ。急げ!」

 譲を先行させ、紗世は残った道具をまとめてから後を追った。



「いやあ、やっぱ林持ってるわ」

 興奮冷めやらぬ様子の譲が笑顔で紗世を見る。

 その手に持っているのは、フィッシュグリップで吊るしたフクラギだ。

 紗世はスマホでそのキラキラ笑顔とフクラギのツーショットを写真に収めると、すぐに譲のスマホにその画像を送った。

「釣れた、って言う前に、フクラギならいくら? って訊いてみなよ。どうせ無理だと思って、千円って言ってくれるかもよ」

「確かに! 母ちゃんにすぐライン送、……あああっ間違えた! 今の画像送っちった!」

「ばーか」

 紗世はけらけら笑いながら、フクラギの口からフィッシュグリップを外すと、三崎さん、男のほう、に返した。

 譲は奥さんのほうの三崎さんには無関心で、男のほうの三崎さんにキラキラ笑顔で話しかけている。

 それを見て紗世はそうだった、と思い出す。

 譲がキラキラしているのは、釣り関係のときだけだった。教室で話をしている様子を見たときに気づくべきだったのだ。

「っしゃあ! やったぞ林、六百円! 三崎さんの言うとおり、それ以下なら欲しがってる友達にやるって送ったら成功したぞ!」

 大人の交渉術、おそるべし。

「やったじゃん」

「三崎さんありがと! 今日はもう帰ってテストべんきょうするよ」

「おお。頑張れよ中学生」

「頑張るよ。林、帰るぞ」

 え、あたしも?

 首を傾げながらも、紗世は促されるまま自転車を停めた場所まで一緒に歩いた。

 太陽の位置が高くなってきた。気温もだいぶ上がってきて、不快感を覚えた紗世はパーカーを脱いで手に持った。

 朝まづめ、夕まづめにたまに見られるナブラの時間はもう終わりだ。先ほど見られたのは遅いくらいの時刻で、運がよかった。

「明日はお兄ちゃんに竿借りて、もっと早くに来ようかな」

「貸してもらえんの?」

「秘密を親にバラすって言えば大丈夫」

「こええな。うちには妹いなくてよかった」


 普通に喋れている。よかった。

 譲のことは嫌いじゃない。むしろ好きだ。たぶん。

 アホだけどいい奴だし、気は合うし。最近は背も伸びてきて、見てくれもそれなりになってきた。

 うん。やっぱり多分好き、なんだと思う。

 だから彼の好きなひとのことが気になっていたのだ。

 だけど、と紗世は思う。

「付き合うとかは、まだ先でいいかな」

 小さな呟きを聞き逃した譲が、怪訝顔で振り返る。

「ああ?」

「ゆーくんに不倫願望があったわけじゃなくてよかったよ」

「……なんの話?」

「別に。山本、最近は親に売るために釣りしてんの?」

 痛いところを突いてしまったか。

 譲はなんとなく気まずいような表情になって、一瞬押し黙った。

「…………それだけじゃないけど。ただ、」

 部活の先輩に彼女ができたらしい、近所でデートしたら目撃されて面倒だからとバスに乗って隣の市まで行っていると聞いた、小遣いが足りなくて大変らしい、と譲はもそもそと説明した。

 デート。

 したいのか。彼も釣り場以外の場所に興味があったのか。

 それについてはコメントせず、紗世は話題を変えることにした。

「あたし今から図書館行って勉強しようかな。家だと集中できないし。山本も一緒に行く?」

 思いつきで誘ってみたら、譲が驚いた顔になる。

「いいの?」

「別々に行って、離れて座れば大丈夫じゃない? 他にも誰かいるだろうし」

「一緒に行くの意味」

「ちゃんとやってるか、お互いに監視しながら勉強するの」

「ぐえ」

 譲は顔をしかめるが、紗世は笑って自転車のサドルにまたがった。

「じゃあね。また後で、それともまた明日?」

「後で、でいいよ。フクラギの下処理だけしたら図書館行く。せめて数学だけでもやらないと、零点はまずい」

「そんなレベル? ちょっとなら教えてあげるから、頑張んなよ。高校行けなくなるよ」

「同じとこ行けるかな」

「だから勉強しなって」

「するよ。さっきから勉強勉強うっせえな。おまえは俺の親か」

 譲が釣り道具を自転車に積み込んでいる間に、紗世はひとりで先に自転車をこいで帰って行った。

 明日は朝まづめにふたりで海釣りだ。

 そのために、今日のうちにできるだけテスト勉強をしておかなくては。

 英単語を書いたノートを作っておけば、引きを待つ間にスペルの確認もできるだろう。譲の頭にも叩き込んでやって、一年後、志望校調査の紙に同じ学校名を書ければいい。

 ふたりで合格したら、中学校の卒業式の日、今度は紗世のほうから言うべきだろうか。

 また譲のほうから言って欲しい、というのは我儘が過ぎるか。

 でもまあ、釣果で勝ってさえいれば、自動的に譲の尊敬と好意を勝ち得ることができる。

 中三の三月、卒業式の日にまた、この海で言わせてやればいいのだ。

 俺ら、高校生になったら付き合わねえ?


 さて、紗世はなんと答えるべきだろうか。

 前回とは違い、次は心の準備に一年半かけることができる。

 大人はそのくらいあっという間だと言うけれど、まだ十四年しか生きていない紗世にとって、一年半は人生の一割を超える時間だ。

 そのときまでに、どちらかの気持ちが変わることも充分考えられる。

 だけどそんなことは、そのときになってみなければ分からないことだ。

 今はただ、今できる努力をして、今やりたいことをやって楽しめばいい。


 明日の朝まづめが楽しみだ。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


釣り素人の自分が知らなかった単語について。


朝まづめ(あさまづめ) … 夕まづめ(ゆうまづめ)と共によく釣れると言われている時間帯のこと。それぞれ日の出、日の入り前後。 ま「ず」め、と書くことが多いようですが、釣り人は まづめ、と書くことが多いという話もあるとか。なので ま「づ」め を採用することにしました。


リール … 竿に付いてる、手元で釣り糸を巻くための部品。


青モノ … 青物、青魚。


タモ … 虫取り網を大きくしたような形状。かかった魚が重くて持ち上がらないときなどに補助的に使う。


ナブラ … 大きな魚に追われる小魚の群れが逃げることで海面がバシャバシャ音を立てている様子のこと。作品の舞台ではブリを釣り上げるチャンス。


泳がせ … 生きたままの小魚を針に刺して餌にし、大きい魚を狙う釣り方。

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