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美学生 水咲華奈子Ⅹ -黒い休日-  作者: 茶山圭祐
第10話 黒い休日
3/4

解決編

        3


 大学合格をかけた最後の試験は終わりを迎えようとしていた。

 ここまで来ると、おおよそ自分の成績の見当はついてくる。合格に手応えを感じている者は最後の最後まで手を抜かない。手応えなしと強く感じる者は投げ遣りに問題をこなす。出だしは皆、前者なのか後者なのか分からない。試験が終わるにつれ、どちらなのかがはっきりしてくるものである。

 ところが、根坂の場合は違っていた。出だしは間違いなく前者だった。中盤も前者だった。終盤で後者に遷移しようとは思ってもいなかった。

 午前の2科目は完璧だった。それだけだったら合格は間違いないだろう。しかし、最後の試験は最悪だった。水咲の存在が気になって仕方がなかったからだ。

 水咲は根坂の目の前に椅子を置いて脚を組んで座っていた。試験官だから教室を見渡せる位置に座っているのは当たり前のことなのだが、試験直前にあんなことを言われ、そして試験中はずっと目の前に座っているのだから動揺しないわけがない。いや、もしかしたら、水咲は動揺させるためにわざと言ったのかもしれない。

 彼女が教室を見渡していると、自分だけを見ているのではないかという錯覚に陥っていた。だから、ふと視線を感じると水咲を見る。だが、彼女は見ていない。教室を見渡しているだけだ。

 テスト中、これの繰り返しだった。こんな集中力でいい点が取れるわけがない。根坂の回答用紙は半分しか答えが埋まっていなかったのである。

「残り5分です」

 一心不乱に回答用紙に答えを書き込んでいる受験生に向かって水咲が冷たくアナウンスした。彼女は立ち上がって教卓の前に立つ。

 根坂は残り5分にしてようやく水咲から開放された気分だった。しかし、こういうときの5分は非常に時間が過ぎるのが早い。水咲から開放されても5分ではどうすることもできなかった。次の問題を読むことだけで精一杯だった。

「やめて下さい」

 ついに試験が終わってしまった。根坂の心臓の鼓動の間隔が開き始めた。そして、今まで感じたことのない疲労感に見舞われた。

「回答用紙を回収するまで、そのままでお待ち下さい」

 水咲ともう1人の試験官が手分けして回収する。やがて、水咲が最後の1枚である根坂の用紙を回収した。

「根坂くん、ちょっとお話が」

 それだけ言い残すと水咲は再び壇上に立った。

「お疲れ様でした。これで試験は終了です。お気を付けてお帰り下さい」

 教室は慌しくなった。ドアが開け放たれると、受験生達がぞろぞろと帰路へつく。

 廊下の冷たい空気が根坂の足を襲った。

 やがて、試験場には根坂と水咲だけになった。

「お疲れ様でした」

 水咲は笑顔で壇上から降りると教室の前の扉を閉めた。

「どうだった? うちの入学試験は難しかった?」

 そう言って水咲は根坂の隣りの席に脚を組んで座った。

 根坂はため息を1つつくと、天井を見つめながら呟いた。

「難しくなんてなかったです。合格ですよ」

「難しくなかった? うーん、そうかな? この回答じゃ、まずいんじゃない?」

 水咲は回答用紙の束の1番上の用紙を摘んで見せた。それは根坂のものだった。半分以上が空欄である。

「どうしちゃったのかしらね?」

 根坂は彼女の目を見ることができなかった。目を見てしまったら、彼女が確信を得てしまうかもしれない。だから、何かを口にすることすらしなかった。

「そろそろ本当のことを話さない?」

 水咲はついに核心へ向けて話の路線を切り替えてきた。まるで居留守をしていたことがばれていて、ドアを突然叩かれた気持ちだ。

「どういうことですか? 本当のことって?」

 根坂はまだ居留守を続けた。

「根坂くんは自分の為に試験を受けに来たんじゃないんだよね? 誰か別の人間の為に試験を受けたんだよね。要するに替玉」

 ドアをこじ開けた水咲は、居留守を続けた根坂の部屋に一気に踏み込んできた。だが、何も悪いことを認めていない根坂は、当然のことながら水咲を部屋から追い出そうとする。

「何を根拠に言ってるんですか? 受験票を見ましたよね? こういうときの為に顔写真が貼ってあるんじゃないんですか?」

「受験票の顔写真なんて、替玉をしていない証拠にはならないよ」

 水咲はきっぱり言うと、頬杖をついてくつろぎ始めた。どうやら、替玉を認めるまで帰さないらしい。根坂は認める気はさらさらなかったので、黙りこくることにした。

「わたしが1番最初に気になったのはタバコ。根坂くんに最初に出会ったときよね」

 水咲はブラウスの胸ポケットから没収した根坂の煙草の箱を取り出した。

「これ見てわたし不思議に思ったの。だって、あそこのコンビニのシールが貼ってあるんだもん」

 水咲はそのシールを指した。コンビニ名の入ったオリジナルシールが確かに貼ってある。

「このシールが貼ってあるってことは、あそこのコンビニでこのタバコを買ったっていうことだよね? あそこで買ったっていうことは、あそこでタバコを買えたってことだよね?」

 根坂は依然目を合わせられなかった。腕を組んで白を切ることしかできなかった。それにしても、出会ったときからもう目をつけられていたなんて思いもしなかった。それじゃ、昼ご飯のときに盛り上がったサザンの話題のときには既に軽蔑の眼差しで僕を見ていたのか。

「あそこのコンビニってすっごい厳しいんだよね。お酒やタバコを買おうとすると必ず身分証を見せろって言うんだよね、ほんとは当たり前のことなんだけどさ。で、20歳以上でないことが分かると売ってくれない。けど、高校3年生であるはずの根坂くんは買えたんだよね? どうしてかしら?」

 水咲は実に嬉しそうだった。顔を傾げて根坂を下から覗き込んでいた。彼女の長い髪が真っ直ぐ揺れる。

「根坂くん、高校生じゃないんだよね? もっとそれ以上でしょ? 何回も目薬をさすのは、ほんとは今日からコンタクトをやり始めたばっかりなんじゃない? すぐに顎を撫でるのは、今日髭を久し振りに剃ったからなんじゃない? メガネをかけて髭を伸ばしていた顔が、根坂くんの昨日までの顔だったんじゃないかな? まあ、わたしの想像だけどね」

「想像でものを言うな!」

 根坂は思わず声を荒げた。水咲の想像は一寸の狂いもなく真実と同じだったが、それを認めたくなくて大きな声を出して悔しさを紛らわせた。がらんどうの教室に根坂の声が、怯えた犬の遠吠えのように響いて空しい。

 水咲は相変わらず冷静だった。根坂が1人で取り乱しているせいもあって冷静さが引き立っていることもあるが、全てを見切っている人間の心の平静さには勝てない。

「決め手になったのはジュースよ」

「ジュース?」

 なぜそれが決め手に? 水咲の言わんとすることが分からない。このとき、根坂は初めて水咲の目を見た。澄んだ瞳をしている。とても人を疑っている目ではない。いや、彼女は疑ってなどいないのだ。確信しているのだ。

「さっき学食でジュースをおごってくれるって言ったとき、根坂くん、こう言ったよね? 『あっぶねぇ、小銭ちょうどあと200円しかなかった』って」

 なに? なに? 何がいけない? それと替玉とどういう関係があるんだ? 

 根坂は眉間にしわを寄せたまま待った。将来、眉間にしわの跡が残ってしまっても今は良かった。それほど、水咲の決め手が奇怪に思えた。

「小銭200円でジュースは2本も買えないよ。ちょっと昔なら買えたけど、今は1本120円するんだよ。なのに、どうしてちょうど200円しかないのに『あっぶねぇ』なのかな? 1本しか買えないよね? 普通の自販機ならさ」

 それを聞いた途端、軽度の目まいに襲われた。額を手で覆いたかった。眉間を強く摘みたかった。だが、落胆する素振りなどして見せたらお終いだ。彼女のようにいつまでも冷静でいるんだ。どんなことがあっても動揺するな。彼女の思う壺だぞ。だけど、やってしまった。あれほど気を付けていたつもりだったのに、ついポロリと出てしまった。もしここにタイムマシンがあるならば、2時間ほど前に遡って自分自身に忠告したい。それだけは絶対に言うな。黙ってジュースを買いにいけ。余計なことは口走るな、と。

 たったの数秒で様々なことを考えていた根坂だったが、顔には一切気持ちを出さなかった。

「だけど、学食の自販機だけはすべての飲料水が100円で買える。ご飯だけじゃなく、飲み物も安く買えちゃうんだから、学生っていいよね。でも、根坂くんはどうして学食の自販機は100円で買えることを知ってたのかな? 知っていたから『危ない、ちょうど200円しかなかった』って言ったんだよね? 学園祭のときは学食は閉鎖されていて入れなかったはずだけど」

「知り合いから聞いたんだ。この大学に通っている知り合いから」

 とっさの言い訳が思い付いた。良かった。やはり、落胆した素振りを見せなくて正解だった。

 だが、水咲は根坂の理に合った言い訳を聞いていたのだろうか。まるで、根坂のセリフを飛ばして次のセリフを読んでしまったように自分の意見を主張した。

「根坂くん、この大学の学生さんでしょ? だから、学食の自販機が100円だってことを知っていた。だから、あそこのコンビニでタバコを買えた。これどう見ても、昨日かおとといに買ったんだよね? タバコを買いにわざわざ1時間もかけてあのコンビに来たの?」

「下調べに来たんですよ。今日試験だから遅れたらまずいし。もう1度どれくらいかかるか計ってみたんですよ。そのときに買ったんです」

「けど、そうなるとどうしてタバコが買えたの?」

「レジが貧弱な男のバイトだったから、ちょっとすごみを利かせて言ったら、びびって売ってくれたんですよ」

 根坂のデマカセは湯水の如く溢れ出た。自分でも驚くほどのホラ吹きだ。激しい攻防戦は根坂の守りで休戦を迎えた。

 水咲は脚を組み替えた。髪をかきあげた。そして、やわらかそうな左の頬を左手の甲に乗せてしばらくくつろぐ。やがて、鋭い美声を元の甘い美声に変えてゆっくりと喋り出した。

「在籍中の学生が、自分の入試は受けられないってことは知ってるよね?」

「だから、僕はここの学生じゃないですって。高校生です。今年卒業する高3の男子生徒です」

「根坂くんはここまでどうやって来たの?」

 突然、話を切り替えた水咲の出かたを読み取ろうとした。だから、慎重に答えた。

「電車ですけど、それがなにか?」

「いくらかかったの?」

「あのですね、運賃を知っているからって、ここの学生だなんて言えないですからね」

「そりゃそうよ」

 呆気ない返答に気が抜けた。どうやら運賃が問題ではないらしい。

「お金は1円もかかってないです。定期で来たから」

 と、口走った瞬間、言ってはならないことに気が付いた。1円もかからず定期券でここまで来られるわけがないのだ。来られるということは、ここまでの定期券を持っているということになる。高校3年であるはずの根坂が定期券を持っているはずがない。

 水咲は笑顔だった。運賃を聞いたのは誘導尋問だったのだ。定期券と答えるのを待っていたようだ。やっと認めてくれたのね、そんな声が聞こえそうだった。

 だが、こんな土壇場でも根坂の悪知恵は見事に働いた。彼は自分自身で頭脳戦においては悪運が強いんだと自負した。

「と言っても、自分の定期じゃないですよ。兄貴の定期を借りて来たんです。兄貴の会社はここら辺にあるから。ほんとは人の定期って借りちゃいけないんですよね。それは謝ります」

 しかし、水咲の表情は笑顔から変わることはなかった。

「その定期券、見せてほしいな」

「何ですか、信用してないんですか?」

 根坂は水咲が何を確かめようとしていたのか分かっていた。氏名と年齢だ。定期券にはそれが書いてある。本当に兄貴がいるのか確かめようとしているのだ。

 根坂は財布から定期券を出して机の上に放り投げるようにして置いた。定期券には自分の家の最寄の駅名、この大学の最寄の駅名、そして、根坂の氏名と年齢が堂々と印刷されている。年齢をふと見ると、24歳と印刷されている。兄貴は社会人であることに当てはまる。

「それ、兄貴の名前です。年齢も合ってるでしょう?」

 ところが、水咲は全く違う箇所を見ていた。そして、笑顔を崩していなかった。自分の推測が当たっていたのか、安心した笑顔に見えた。

「お兄さんはどこで働いているの? 学校?」

 水咲は定期券の片隅を指差した。そこには根坂を嘲笑うかのように印刷された見慣れた2文字の漢字が存在した。「学」と「割」だ。

「でも、学校で働いていても学割にはならないよね」

 根坂は1ミリも動かなかった。そして、急に眠くなってきた。今日は朝早くから起きて1日中試験を受けていたのだ。それに加えてこの女性から必死に逃げようと、普段は使わないエネルギーを使った。矛盾しないように何度も嘘を付くというのは疲れるものだ。ピンと張った神経がだらしなく緩んだ。背伸びをして大きなあくびをすると、目薬をしなくてもよくなった。

 水咲が家族構成をあれこれ聞いてきた意味が今やっと理解できた。

「タバコを始めたのは去年の春からって表現しなかったのは、去年じゃないからなんだよね。根坂くんはいま24歳。高校3年の春はもっとずっと前だったから去年って言わなかった。学園祭に2日間とも来たのは、根坂くんはここの学生だから。もうどこかのサークルに入っているのね」

 水咲は少し残念そうだった。でも、彼女の期待に応えることはできない。やはり、サークル1つ入っているだけで精一杯だからだ。

「まさか、こんな結果になるなんて。受かる気でいたのに」

 根坂は大きく溜め息をついた。

「お兄さんて言ってたのは、ほんとはあなただったんだよね。24歳ってことは2浪かな? その制服は弟さんの物。あなたは自分の為ではなくて、弟さんの為に試験を受けた。メガネを外して髭を剃れば弟さんにそっくりになる。そんなところかな?」

 水咲の推測には恐れ入った。何から何まで合っている。

「どうして替玉なんか。そんなんで大学入っても意味ないと思うんだけどな」

「いや、僕だって、本人が勉強して自分で合格を勝ち取った方がいいと思いますよ。けど……」

 根坂はうつむくと、肩をがっくり落とした。

「僕が浪人してこの大学に入ったばっかりに、うちの家計が悪化して、弟は浪人だけは絶対にさせられないって親に言われたんです。僕は2浪してここに入ったのに、僕のせいで弟は浪人できないなんて、ちょっと理不尽じゃないですか? 今の状態じゃ、弟がこの大学に合格するなんてまず不可能です。だから僕が……」

「なんで浪人すること前提にしてんの?」

 根坂の語尾が水咲の声と重なった。

「浪人しないと合格できないって、なんでもう決めつけちゃってるの? 分かんないじゃん、やってみないと。一発で合格するかもしれないじゃん。やってもいないのに不可能だなんて、なんで言えるのよ」

 水咲の言っていることは正論だった。正論というよりも当たり前のことを言っているに過ぎない。この大学に合格できればきっといい仕事にも就けると、弟の将来までも考えた結果の行為だと思っていたのに、結局、弟の為にやったというよりも、自分の罪滅ぼしの為にやったことなのだ。

「人の合格をもらっても空しいだけだと思うな。やっぱり自分の力で合格しなきゃ。弟さんにもそう伝えといて」

 根坂の肩をぽんと叩くと長い脚を振り解いて立ち上がった。そして、回答用紙を再び机に立てて揃えていた。

「弟はこのこと知りません。僕が勝手にやったんです」

 水咲の用紙を揃える手が止まる。

「でも、仮に合格できたとしても、水咲さんと同じことを弟に言われてたかもしれない」

 根坂は筆記用具を鞄にしまうと数時間振りに椅子から身体を放した。

「根坂くんて、弟さん思いなのね。そこは感動」

 水咲の大きな瞳は相変わらず綺麗だった。自分の全身が彼女の瞳に映っているのが見えそうだ。用紙の束を腕に乗せた彼女は長い髪を揺らしながら教室のドアを開けた。

 根坂はバッグを肩に提げると教室を出る際に彼女に尋ねた。

「ちょっと聞いてもいいですか? 水咲さんはこの大学、一発合格?」

 彼女は少し照れながら笑顔でゆっくりうなずいた。

「死ぬほど勉強したけどね」

 このときばかりは水咲の甘い美声がかっこよく聞こえた。



 第10話 黒い休日【完】

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