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美学生 水咲華奈子Ⅹ -黒い休日-  作者: 茶山圭祐
第10話 黒い休日
2/4

事件編《後編》

        2


 2時限目のテストも間もなく終わりそうだった。今回もまた楽勝だった。満点とまでは言わないが、そこそこの点はとれた。何も心配は要らない。あとは昼食後の1教科で全てが終わる。全てが決まる。

 それにしても、さっき煙草をとられたのはやはり痛い。最後のテストは缶コーヒーで我慢するしかなさそうだ。

「やめて下さい」

 水咲の澄んだ声が試験の終わりを告げた。

 室内の引き締まった空気が一気に緩んだ瞬間だった。たちまち教室はざわざわすると、みんな背伸びやあくびを始めた。机にうつ伏せになって身動きしない者もいた。きっと、人それぞれ色々な思いを胸にこの大学を受けに来たに違いない。この大学に入ることが第1目標で何ヶ月も前から試験勉強をしていた者もいれば、流す程度に勉強をしていた者もいることだろう。根坂もその1人だ。この大学は受からなければならない。この大学に入れれば大手企業にも就職できる。ひいては、余裕のある生活が送れるのだ。絶対に合格しなければならない。

 水咲は回答用紙を回収すべく教室内を歩き回っていた。そして、回収漏れがないかを確認する。

 教室は依然ざわざわしていたので、水咲はマイクを通してこれからの予定を話し始めた。

「これから昼食時間に入ります。食事はこの教室でとることは可能です。ごみ袋は教室の前にあります。燃えるごみと燃えないごみに分けて捨てて下さい。ご協力お願いします」

 と、根坂は水咲のその姿を見て突然思い出した。記憶の糸が一気に引かれてその先のくす玉が割れたような感覚だった。

「午後の試験は1時半からです。10分前には着席しているようにして下さい。以上です」

 水咲は用紙をトントンと揃えるとこちらへ向かってきた。そして、教室を出る際に根坂に囁いた。

「ねぇ、お昼一緒に食べない?」

 予想外の水咲の言葉に少し戸惑ったがオッケーした。まさか向こうから誘ってくるとは思わなかった。こっちも話がしたかったところなのでちょうど良かったのだが。

「それじゃ、玄関ホールで待ってて。これ置いてこないといけないから」

 水咲は回答用紙の束を掲げると教室を出た。

 筆記用具をカバンにしまい、肩に提げると根坂も教室を出た。廊下の先に水咲が歩いているのが見えた。歩くときでも背筋をピンと伸ばしていて姿勢が良い。まるでモデルのようだ。

 根坂も年老いた男に見られぬよう、背中を丸めないように気を付けて歩いた。


 しばらく玄関ホールでボーっとしていると、メトロノームのように一定間隔でヒールの音が響いてきた。途中、床の材質が違うのか、足に力が入ったからか、音程がずれることがあったがリズムは狂わなかった。

「おまたせー。ごめんね、寒かったでしょ」

 水咲は袖の中に隠した手を振りながら現れた。右手にはベージュの包みに包まれた弁当箱を持っていた。

「大丈夫ですよ。どこで食べます? 僕、昼飯は買ってきたんですけど」

「うんとね、根坂くんはうちのキャンパスに入るのは今日が初めて?」

 水咲の問い掛けに根坂は少し肩を落とした。質問を質問で返されたからだ。どこで食べるのか? という質問に対し、どうしてそんな質問が返ってきたのだろうか。根坂は水咲の真意を探りながら答えた。

「いえ。実は去年の学園祭の1日目、僕ここに来たんですよ。そのときが初めてです」

「なんだ。遊びに来てたんだ。じゃあ、もしかしたら、どこかですれ違ったのかもしれないね」

「そうですね」

 話が終わってしまった。一体、自分の質問はどこへ行ってしまったのだろうか。

「それなら学食がいいね。学食は、学園祭のときは閉鎖してるから入ったことないでしょ? 今がチャンスだよ」

 自分の質問がブーメランのように戻ってきて蘇えった。なるほど、そういうことか。この人ほんとにいい人そうだ。こんな人がこの大学にいたとは思わなかった。

 学食はだだっ広かった。ほとんどの受験生は教室で食べているようである。数える程度しかいない勇気ある受験生達は、まるで自分の大学であるかのように堂々としてそこに座っていた。大抵は同じ学校の生徒同士で固まって昼食をとるものだが、水咲と根坂のような関係で学食にいる者など誰1人いない。

 水咲はそんなことは全く気にしていないのか普通に説明を始めた。

「今日は入試だから学食はやってないの。場所は開放されてるんだけどね。1番安い料理でうどんが150円。1番高くても500円。ステーキ定食だよ。正規の授業があるときはいつも人でいっぱい。席を取るのも大変なくらいなの。もう少し増やしてもいいのにね」

 2人は適当な席に向かい合って座った。

「根坂くんは、今日は1人で受けに来たの?」

 水咲のこの質問は最初理解できなかった。1人で受けに来て悪いのか? と思ったのだが、考えてみると普通は同じ高校でまとまって受けに来るものだ。だから、昼はみんなと食べなくてもいいのか? と聞いているのだろう。

「はい、そうです」

 すると、水咲の表情が一変した。

「あれ? 受験票見たんだけど、根坂くんと同じ高校の人、あの教室にいたよ」

「ああ、違うクラスですから。面識ないんです」

「そゆことね」

 水咲は弁当の包みを解き、蓋を開ける。小さな弁当箱だ。小学生が食べてちょうどお腹がいっぱいになるくらいの弁当箱だ。

 根坂は驚きながらコンビニの袋からパンを出す。

「水咲さん、それだけで足りるんですか?」

「うん、少食だから、これだけでお腹いっぱい。根坂くんの方こそ、パンだけで足りるの?」

「ほんとは弁当にしようかと思ったんですけど売り切れで。しょうがないからパンをたくさん買って腹を持たせます」

「そっか。ああ、それ、あそこのコンビニで買ったんでしょ? シールが貼ってあるから」

 水咲はご飯を頬張りながらパンの袋に貼ってあるシールを指した。

「あそこのコンビニ面白いよね。個人経営でやってるみたいなんだよ。聞いたことないコンビニだからね」

 そのシールはコンビニ名の入った自家製シールだった。

「自分でシールを作ってるから貼りたくてしょうがないんだよね。普通は1個だけ買ったときとか、袋に入れないときに貼るじゃん。あそこは買った商品すべてに貼るんだから」

「へぇー」

 根坂はすべてのパンの袋にシールが貼ってあることを確認する。

「水咲さんは自分で弁当作ってるんですか?」

「うん、作ってるよ。昨日の残り物だったりするけどね」

「独り暮らしですか?」

「そう。もう冬はイヤよね。家に帰って最初にやることといったら、暖房をつけることだから。暖まるまで部屋の中が寒いんだよねぇ。あの待ってる間がイヤ」

 根坂はパンをひとかじりして次なる質問をぶつけた。

「どこに住んでいるんですか?」

 すると、水咲は大きな瞳をギョロっとさせて言った。

「あー、もしかして、わたしの家に来ようとしてるんでしょ? 独り暮らしの女の部屋に上がりこんで、何をしようとしてるのよ。だめよ」

 勝手な想像で拒否している水咲に、根坂は思わず吹き出してしまった。

「そんなこと、ひとっつも考えてないですよ。水咲さんこそ、変な想像しすぎ」

 水咲はきょとんとした目で根坂を見ると、一緒に笑い出した。

「ああ、そう。なら、いいんだけどね。でも、ひとっつも考えてないなんて、違う意味で悲しいけど」

 水咲の弁当箱は、もうそろそろ空っぽになりそうだった。

「根坂くんは独り暮らしはしないの?」

「したいですけど、お金がないです」

「お金なんてバイトすればすぐに貯まるわよ。あと、タバコをやめる。健康にもいいし、お金も貯まるし、一石二鳥だよ」

 根坂は苦い表情をして自分の発言に後悔した。お金がないなどと言わなければよかった。

「いやー、それはカンベンして下さい。タバコ大好きで」

「いつからやってるの?」

「高校3年の春からです」

「最近じゃん。それならすぐにやめられるわよ」

「ほんとにカンベンして下さい。それだけはやめる気ないんで、お願いします」

 根坂は没収されたタバコが返って来ないのではないかと必死だった。

 水咲は根坂の心を分かっているようで、笑いながら髪をかきあげた。

「大丈夫、大丈夫。ちゃんと返すから」

 その言葉を聞いて肩の力が抜けた根坂は、もうタバコの話には触れさせまいと話題を切り替えた。

「そう言えば水咲さん。僕、水咲さんに会ったときから、どっかで見たことある人だなぁって思ってたんです」

 水咲は不思議そうに顔を傾げた。

「それでさっき、教室でマイクを握っている水咲さんの姿を見て思い出したんです。水咲さん、去年の学園祭のカラオケ大会で準優勝しましたよね?」

 水咲は小さな悲鳴を上げると顔を手で隠した。

「それは言わないでー、恥ずかしいから。あれ、わたしの意思で出たんじゃないんだよ。サークルのメンバーがさ、出ろ出ろ言うから仕方なく」

「でも、準優勝するだけありますね。すっごいうまいじゃないですか、『太陽は罪な奴』。サザンは好きなんですか?」

「うん。もう昔から大ファン」

「ほんとですか? 実は僕、サザンのファンクラブに入ってます」

「うっそー。わたしも入ってるよ」

「ああ、もうこれは完全にどこかですれ違ってますね」

 まるで、外国旅行先で日本人を見つけた喜びのようなものがあった。

 2人はサザンオールスターズの話題で盛り上がっていた。昼食をとり終えても、しばらく話は尽きなかった。周りの受験生がチラチラと彼らの様子を窺っている。

 やがて、サザンから学園祭全般の話へとスライドしていった。

「名探偵研究会ってどんな出し物やってたんですか?」

「クレープ屋さんよ。チョコクレープとかフルーツクレープとか。本物のお店やさんにはない物とかもメニューに盛り込んだね」

 水咲は弁当を包みで縛ると、長い脚と細い腕を組んだ。背筋を伸ばして直立している姿も美しかったが、座った姿も美しかった。

「そうか思い出した。そういえば僕、食べに行きましたよ。クレープ屋って名探偵研究会がやってたんですね。クレープの中に普通は入れないものを入れてましたよね? 納豆とか、キムチとか。餃子もありましたね」

「そうそう、シャレでね。前の会長がそういうの好きでさ。なぁーんだ、うちの店に来てたんだ。なんか食べてくれた?」

「食べましたよ。キムチクレープとたくあんジャムクレープ。僕、キムチが好きだから食べちゃいました。でも、まずくはなかったです。キムチと生クリームが混ざるとあんな味になるんですね。たくあんジャムは……ノーコメント」

「まずかったんだ? よかったぁ」

 彼女は心底嬉しそうな顔をした。

「よ、よかった? ど、どうしてですか?」

「シャレだから、おいしかった、なんて言われちゃったら面白くないでしょ」

 根坂は水咲との話に熱中していた。自分が今、この大学の受験生としてここにいることをすっかり忘れていた。今日は入学試験である。こんなときにこんな所で、ファンクラブの同志であることを知ったからといって、女性と楽しくお喋りをしていていいのだろうか。

 いや、いいのだ。普通の人間なら、最後の試験科目のテキストに目を通すなり、問題集に目を通すなりするだろうが、自分はそんなことする必要はない。自信があるのだ。合格できなくてどうする。それくらいの気持ちで臨んでいた。だから、直前勉強をした瞬間、自分のプライドに傷を付けることになるのだ。

「でもさ、根坂くんはうちの学園祭が相当お気に入りのようね」

 今の水咲の言葉で、楽しいお喋りに終止符が打たれた気がした。非常に引っ掛かった。相当お気に入り? どういうことだろう。相当気に入っている素振りなど見せただろうか。相当気に入っていると連想できる言葉があったのだろうか。学園祭に1回来たくらいで「相当」などという言葉は使わない。何回も行ったことがあると言えば別だが、そんなことは一言も口にしていない。

 根坂が神妙な顔をして顎を掻いていると、対して水咲は不思議な顔で説明した。

「だって、キムチクレープとたくあんジャムクレープを食べたんだよね? シャレで作ったメニューってそんなに売れないから、1日10個限定なの。しかも、キムチクレープは学園祭の1日目だけ、たくあんジャムクレープは2日目だけに売ったの。ってことは、根坂くんは2日間ともうちの学園祭に来てくれたんだよね?」

 根坂は無意識に口を開けていた。

 まずい、確かにそのとおりだ。2日連チャンで、しかもここまで1時間もかけて来ているのだから、ここの学園祭が好きじゃないと来れない。

 根坂は慌てて辻褄合わせをした。

「そうです。結構、ここの学園祭好きなんですよ。暇だったんで、2日間とも来ちゃいました」

 水咲は笑顔で根坂を見ていたが、今度は急に真顔になって下を向いた。

「あれ? でもさっき根坂くん、学園祭の1日目だけ来たって言ってなかったっけ?」

 根坂は一瞬身を引いた。確かにさっきそう言った。やばい、すっかり忘れていた。

 だが、それに対する修復案がすぐに思い付いた。

「だって、2日間とも来ていたなんて、恥ずかしくて言えないじゃないですか。だから、つい1日目だけって言っちゃいました」

「なんだ、恥ずかしがらなくたっていいじゃない。わたしはそれを聞いたら嬉しいよ」

 根坂は胸を撫で下ろした。

 危うく嘘を付いていたと思われるところだった。嘘つきだなんて思われたら面倒なことになる。どうして嘘を付いたのか? と、問い詰められて、それがきっかけとなって全てがバレてしまっては、ここまで来た意味がなくなる。無意識に発言するとポロっと口をこぼしそうになるので、よく考えながら喋るべきであることが身に沁みた。

 根坂は気を取り直して、乾いてきた目を潤す為に目薬をさした。目をパチパチさせると視界がクリアになった。

 水咲はテーブルに左の肘を着き、頬杖をしてその様子を見ていた。

「根坂くんはどうしてこの大学を選んだの?」

 水咲の質問に気持ちを構えた。また口を滑らせないように、まずは頭で喋ることを整理してから発言しようと思った。

 そんなことを考えて神妙な顔つきになっていたから困惑しているように見えたのだろうか、水咲は手を振りながら弁解した。

「ううん、これ、面接じゃないからね。先輩が面接しても何の権限もないから安心して。ていうか、うちはもともと面接ないし。ただの個人的興味」

 根坂は先程の失敗を教訓にして慎重に返答した。

「この大学は素晴らしい大学だと思うからです。先生も名誉ある人ばかりだと聞くし、授業の科目数も他大学と比べて充実していると聞くし。それに、この大学を卒業できれば就職の門が広いと聞きます。だから、幅広い業種から選ぶことができると思います。選択範囲が広いと困らないですよね。この4年間で次へ進む道をじっくり決められたらと思います」

 発言が終わるとかなりのエネルギーを消費したように思えた。意識しながら言葉を発するというのは、こんなにもしんどいものなのか。まるで、覚えたての英語で会話をしている気分だ。

「選択範囲が広いか。やばいな。広いはずなのに、わたしまだ次の道なんて決めてないや」

 水咲はにこりと笑った。根坂も合わせるようににこりとした。

「ああ、何か飲みますか? 何も飲まずにご飯食べてましたね」

 学食が乾燥している為か、エネルギーを消費した為か、根坂の喉はカラカラだった。

「そうだね、忘れてたね。根坂くんはパンなのに大丈夫なの? よく食べられたね」

「平気なんです。僕、唾液の分泌量が多いみたいです。僕、おごりますよ。何にします?」

 根坂はカバンから長財布を取り出した。喉が渇いていたせいもあるが、ちょっとだけ水咲から開放されたい気持ちもあった。

「いいよ、いいよ。年下の子におごってもらうなんてだめだよ」

「大丈夫ですよ、ジュースくらい。先輩との話も楽しかったし」

「そうなの? ありがとう。それじゃ、ジャスミンティーお願いします。自販機はあっちにあるよ」

 水咲は学食の一角にある自販機コーナーを指した。

 根坂は財布を開いてお金を確かめた。

「あっぶねぇ。小銭、ちょうどあと200円しかなかった。1万円札は自販機使えないですもんねぇ。たかがジュースの1本もおごれなかったらカッコ悪い」

 水咲に背を向けて歩き出す。後ろを向いただけで開放された気分だ。

 最初の頃は楽しく喋っていたのに、自分の些細なミスでかなり動揺してしまった。やはり、後ろめたいことをしていると心臓に悪い。

 それにしても不思議な女性だ。第一、どうして一緒にご飯に付き合ってくれたのだろうか。なぜ、こんな一受験生と食事をしようと思ったのだろうか。根坂は自販機に辿り着くまで考えてみることにした。今思い付くのは次の4つだ。

 1つ。彼女も1人だったので話し相手が欲しかった。1番妥当な回答だ。

 2つ。実は僕がもう1箱タバコを隠し持っていて、1人になったときにこっそり吸うんじゃないかと思って監視している。この考えも高い確率であり得る。しかし、もしこれが正解だとしたら、彼女は女神か、または変人のどちらかだ。

 3つ。僕に気がある。でも、女性がこんな試験会場で男に一目惚れするなんてことあるはずがない。4つの中で1番考えられないことだ。

 4つ。以上3つ以外の何か別のこと。

 これくらいしか考えられなかった。あとはどんな理由があるというのだろうか。やはり、有力な線は1つ目と2つ目だ。

 腕時計を覗き込んだ。ちょうど午後1時を指している。あと30分で人生の転機が訪れる。ここまで来たら、どんなことがあってもやり抜かなければならない。失敗は許されないのだ。

 根坂はジャスミンティーとブラックコーヒーを買うと、胸を張って歩を進めた。

 向こうに水咲の後姿が見えた。光沢で輝いている髪がここからでも良く見える。彼女はまるで何かを考えているように宙を見上げていた。もし、彼女が1回でもこちらを振り向いたとしたら、2つ目の「僕がもう1つタバコを持っている」案が強くなる。彼女の見えない隙に、僕がタバコを吸うんじゃないかといつでも監視していることになる。もし振り向かなかったら……、1つ目? それとも4つ目? 

「はい、どうぞ」

「ありがとう」

 2人は同時に缶の蓋を開けた。

 根坂の渇いた喉に潤いが戻った。そして、気を取り直して、水咲がどういう理由でここに一緒にいるのかもう少し探ってみようと思った。結局、彼女は1度も振り向かなかったのだ。

「根坂くんは兄弟いるの?」

 ただの世間話だ。これだけでは水咲の真意は探れない。正直に答えてみた。

「兄貴が1人います」

「お兄さんは学生さん?」

「社会人やってます」

「弟さんはいるの?」

 ここまで来て、今までの会話はただの世間話ではないと感じた。普通、兄貴が1人いるとだけ答えたのに、更に弟がいるのかと突っ込んで聞いてくるだろうか。弟がいるかどうか、水咲にとって何か重要なポイントになるに違いない。

 根坂は正直に答えた。

「弟は僕ですけど。それが何か?」

 たった今補給したコーヒーが冷や汗となって肌から滲み出てくる気がした。何か変だ。彼女の様子がおかしい。さっきより堂々とした口調だ。自信を持ってそこに座っているという感じだ。世間話ではなく尋問をされている気持ちだ。

「そう。じゃ、最後にもう1つ。お父さんはお仕事なにしているの?」

 どういうことだ? 何を企んでいる? 普通、親の職業まで尋ねてくるだろうか。そんなことを聞いてどうなる?

 根坂は危険を察したので、思わず声を荒げて聞いてしまった。

「うちは自営業ですけど、そんなこと聞いてどうするんですか?」

「ごめんなさい。ちょっと気になっちゃって」

「気になったからってどうして……」

「ああ、まずい!」

 水咲は大きな声を上げて弁当箱を引っつかむと慌てて席を立つ。周りの受験生達はその声に驚いて水咲をにらみつけた。

「わたし、1時に戻らないといけなかったんだ」

 根坂は水咲に促されて立ち上がる。2人は早足で学食を出た。

 胃がキリキリしてきた。非常に中途半端に話が終わってしまった。この状態で試験に挑んだらヘマしそうな気がした。彼女に質問の意図も聞けずに、まんまとしてやられたという感じだ。知らない女に家族構成まで打ち明けて、一体自分は何をやっているんだろうか。知らない人に声をかけられても、絶対について行っちゃだめだ、との親の教えはまるでなってなかった。

 試験の教室がある校舎に入り、中央階段の前までやって来ると水咲は立ち止まった。どうやらここでお別れらしい。でも、もう次の時間で最後だし、それが終われば2度と水咲と話すことはないだろう。そう考えると中途半端に会話が終わったのも許せた。単なる昼ご飯を楽しませていただいたと思えばいいのだ。時間が潰れただけでもありがたいと思おう。

「そういえば、ちょっと不思議に思ったんだけど……」

 根坂は自分なりにまとめてスッキリしていたところだった。だが、まさか水咲がその気持ちを濁らすとは思ってもみなかった。彼女は満面の笑みでこう言ったのだ。

「さっき根坂くん、わたしが『いつからタバコやってるの?』って聞いたら、高校3年の春からって答えたよね?」

「…………」

「どうして、去年の春から、って言わないで、わざわざ高校3年の春、って答えたのかしら?」

 血の気が引いていくのが分かった。このとき初めて、この女は洞察力の鋭い人間だということを思い知らされた。

 根坂には、水咲の気持ちを晴れやかにしてあげるほどの気の利いた答えなど思い付かなかった。下手な言い訳すら見つからなかった。目が渇いていることすら気付かなかった。何も言うことができず、ただ顎を触るしかなかった。

「それじゃ、根坂くん、頑張ってね」

 もう既に水咲はその答えを知っているのか、根坂の返答を待たずに早足でその場を立ち去った。

 彼女がどうして一緒に食事をしたのかがなんとなく分かった。4つ目の考えが2つに分裂して新たな5つ目を生み出した。

 5つ。僕の悪事を疑っている。



 第10話 黒い休日~事件編《後編》【完】

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