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一体わたしはなにをしているんだろうと、深夜にふと思い立った。
かつてまで、自分のなりたい理想に向かってひた走り、それが実現できず苦しみ、もがき、なんとか理想と呼んでいたそれに近しいものになりつつある。
しかし、飽きてしまった。理想の実現が難しいと気づいたとき、わたしはあきらめる方向性へ逃げ、「気にしない」という技を得てしまった。コミュニケーションの失敗を気にしていたわたしが、いまや、失敗すら気にとがめなくなってしまった。執着を失ってしまった。現在のわたしにはなにも入っていないし、残されていない。
元来熱しやすく冷めやすい性格で、一つのことを熱中し続け3年も5年も続けたという試しはない。せいぜい3カ月やそこらで興味をなくし、あとは惰性で続けるのみ。それが人に求められる仕事であればなおさらで、興味を失う速度は加速度的に増していった。
正直なところ、自分の興味というものは自分でコントロールできる範疇ではないのだから、そんなことを気にしすぎる必要もなかろうというのがわたしの意見である。しかしながら、社会がそれを許すかどうかというのはまったく意見の外側の話であり、通用してくれない。困ったことに、世の中はわたしが興味を持ち続けることを望んでいるのである。
このあいだ、こんなことを云った。「その人の取り柄が『明るい人』であるとしたら、それはなんとむごいことだろうね。気分なんてのは不変ではないのだし、簡単に病にでもかかれば失ってしまう」
その人の強さの芯を知るというのは難しいことである。明るい人でも、その原動力というのは確かに存在している。どんなに根の明るい人物であろうと、世界からなにもかも取り上げられれば、そんなものはすぐにでも失ってしまう。脆弱である。
話は変わるが、わたしは躁鬱の、非常に易しい状態にある。タスクはかろうじてこなせるが、そのときのモチベーションが天のときと地のときが、よくある。
結局のところ、わたしという存在は不安定で、いまいち安定とは程遠い。躁鬱のこころと同じく、あがりさがりを繰り返し、存在したり、しなかったりするのである。
あがらない気分をぶつくさと口に出していながら、わたしは缶を蹴った。缶は「いてえ」と言ったきり、喋らない。
わたしはふと、彼に話しかけなければいけない気がして、声をかけた
「わたしをどう思う」
缶はくるりと回って言う。
「なにもなしていない放浪者にしかみえないね」
「ふうん」
現代というのは残酷じゃないか。時間をつぶせるものはいくらでもあるのに、つぶしてはならない。つねに残っている時間をつかってなさなければならない。進まなければならない。残さなければならない。
そうでなければ、一体なにがわたしを存在させてくれるのだろうか。横になってひまをつぶしているとき、わたしは存在しているのであろうか。
「放浪者はなにもなしていないのだろうかね」
「足跡もやがて塵に消えるのさ。その場を踏みしめて、歩くだけのBOT。モブということさ」
「そうか。よくわからないが、わかったことにしておくよ」
缶の言うことはさて、わからないが、わたしが結局なんでもないことは言い当てているようである
世の中というのは残酷かもしれないが、それをより残酷たらしめているのは、わたし自身なのかもしれない。人生を続ける意思は、ない。骨になることへの嫌悪から、崩れ落ちる地盤から転げ落ちないよう、足を出し続ける放浪者。必死に生きているわけではない。生かされている。進めた歩が惰性で動き続けているだけだ。