「白サギと老人」
日が沈むまでの時間が延び、
すっかり開放的な空気が
街を包み込み始めた夕刻。
茜は仕事帰りに
地下鉄を降りると、
大都会の中心を流れる
大川を眺めながら歩いた。
川面は傾き始めた
太陽の光にきらきらと輝き、
その光の水は眠気を
誘うほどゆっくりと
下流に向かって流れている。
時々思いもよらぬ方向から
パシャンと水しぶきが上がり、
大きな魚が喜々として
体をくねらせ、
また水の中に戻っていく。
まるでこの初夏の夕方を
楽しんでいるかのようだ。
川に沿って進んでいくと
短い橋があり、
そこで突然大きく視界が開けて、
対岸の中之島公園が
見渡せるようになる。
いつの頃からか、
茜はこの場所で
あるものを探すようになっていた。
橋の上から見て
左下の川面に突き出した石段。
そこに今日も
それは立っていた。
小学生の子供ほど
背丈のある大きな白い鳥。
どうやら白サギと
いうものらしい。
白サギは茜が通りかかる
夕方は必ずここにいた。
鳥のいる石段の反対側は、
大川に突き出した
コンクリート広場になっている。
左の石段と右の広場の間を
流れる支流が正面で
大川の本流と混ざり合う。
その本流をはさんで
向かい側にある中之島公園では
街路樹が川沿いに茂り、
その奥は大きなグラウンドになっていた。
白サギはいつも
同じ場所に立ち、
中之島公園の方を
斜め四十五度の角度から
見つめている。
茜は時々公園の方を
散歩するのだが、
そんな熱心に見つめるものが
向こう岸にあるとは思えなかった。
こちら側からでも点々と
見える浮浪者たちの青いテントが
生き生きと茂る街路樹の
新緑を濁らせている。
せっかくの光景を
台無しにしてはいるが、
これも大阪の景色のひとつだった。
それにしても
その白サギは見るたびに、
あまりにも同じ場所から
同じ方向を見つめている。
それで、白サギが
気になり出してしばらく経った頃、
これはきっと川岸の石段に
備え付けられた鳥のオブジェに
ちがいないと茜は思い至った。
そして今まで通りかかる度に
何度も振り返ってまで
それを見ていた自分を
滑稽に思った。
だからその白サギが
ある夕暮れに大翼を広げて
飛び立った時には
心底驚いたものだ。
そしてそんな
大きな翼を持ちながら、
どうしてたった二、三十メートル
先の向こう岸に行こうとせず、
いつもただ見つめるばかりなのか
不思議でならなかった。
夕日を受けて立つ
白サギの横顔は何とも艶っぽく、
茜は子供の頃に読んだ
鶴の恩返しの絵本の
美しい娘を思い出した。
緑の黒髪、真っ白い着物に
透けるような肌。
あの鳥はきっと昔、
美しい娘だったに違いない。
ひょっとして、その昔、
ここから大切な人を
どこかへ見送ったのだろうか。
それで毎日その人の帰りを
ここで待ち続けているのかもしれない。
凛としてどこか
寂しげな白サギの姿を
見ていると、
川向こうの風景が
変わっていくような気がする。
青いテントが影をひそめ、
突然、砂煙が立ち込める。
馬のいななき、
男たちの怒号。
刃と刃が激しく
打ち合う響き。
やがて敵も味方も
陣営の旗は破れ、
虚しい戦いのあとが
落日も下に晒される。
待つ者の悲しみを
男たちは知っているのだろうか。
胸がじんとして、
茜は自分の想像に
苦笑しながら我に返る。
一方、そんな昔の夢物語へと
見る者をいざなう白サギは、
美しい羽を伸ばし、
悠々と大空へと飛び立って行った。
茜が白サギに気付いてほどなく、
石段の反対側の
コンクリート広場に汚らしい老人の姿を
見かけるようになった。
この辺りは浮浪者が多いので
最初は気にならなかったが、
夕方必ずそこに座っていることから、
この老人も茜と同じく
白サギに惹かれて
やってきていることに気付いた。
何もない向こう岸を見つめる白サギ、
白サギを見つめる老人、
そしてそれを橋の上から見ている茜。
何とも不思議な構図に思えた。
白サギは日が沈む頃、
東の方向へ向かって飛び立っていく。
どこへだって行けるであろう
大きな翼を広げて
空を舞う白サギを
茜は惚れ惚れと見送る。
と、老人も同じように
天を仰いでいた。
ある日、早めに仕事を
終えた茜は、
帰りに中之島公園の方を
歩いてみることにした。
白サギが今日も
あの石段に立っていれば、
どこら辺を見ているのか
わかるかもしれない。
朝や昼の公園は清々しいが、
夕刻は浮浪者の
テントが妙に目立つ。
その上、テントの外で
何か煮炊きしているのを見ながら
通り過ぎるのは、
まるで食事時の他人の家を
覗くようで気が引けた。
グラウンドに沿って
アスファルトの小道が続き、
それが大きな楠の木の
並木道にかわる頃、
右手に大川の川面が現れる。
こちらからも急に視界が開け、
向こう岸の北浜の大通りが
一望に見渡せる。
向こうの方が岸が高いので、
大通りは見上げる感じだが、
白サギのいる石段も、
老人のいる広場も
川の高さとほぼ同じだ。
大雨の後はすっぽり水に
覆われてしまうくらいである。
茜の目線の向かって
右に白サギがいた。
今日はまだ老人は
来ていない。
茜は川沿いを白サギの
視野に入るよう探った。
対角線上、ほぼ真っ直ぐ
白サギが見ているらしい地点で
茜は足を止めた。
そこからじっと
白サギを見つめるが、
鳥は身動きひとつしない。
こうやって見ると
やはり鳥の形のオブジェに見える。
茜は辺りを見回して
誰もいないことを確認すると、
そっと白サギに手を振ってみた。
白サギは全く反応しない。
が、確かにこちらを、いや、
この方向を見つめている。
ちょうど並木道わきの
藤棚の辺り、
その下に木製のベンチが三つ。
たいていここで
浮浪者が寝そべっていたが、
今日は幸い誰もいない。
茜がしばらく佇んでいると、
大通りから広場に通じる階段を、
あの老人がヨタヨタと
降りてくるのが見えた。
老人も白サギも
赤く染まっていて、
茜は自分が背にしている
夕日を振り返った。
西に沈みかけた夕日は
絵画のように赤く燃えていた。
その強烈な色彩に目を細めて、
もう一度向こう岸を見る。
すると表情が見える
距離ではないのに、
夕日に映えた老人の顔が
笑っているかのように見えた。
白サギと老人、
そして茜。
世界には今、
それだけが存在しているかのようだった。
やがて身動きひとつしなかった
白サギが突然翼を広げ、
二、三度大きく羽ばたくと、
空に舞い上がる。
燃える夕日の中に
飛び込もうというのか、
白サギは最初西の空を舞い、
それを見つめる老人の顔を
更に赤く染める。
そして大きく半円を描くと、
うっすらと空に浮かび始めた
月を目指して、
東の空へと消えていった。
その後、仕事帰りに
散歩したくなるような日々は
雨の多い蒸し蒸しとした暑さに
追い立てられていった。
茜はしばらく
川沿いを歩かなかった。
今年の夏は異様に雨が多く、
大川はかなり増水していた。
そんな中、浮浪者のテント
が流されたとか、
何人か溺死したとかいう
ウワサが流れ、
人々はこの美しい川を
敬遠していた。
それでも熱狂的な
天神祭りは例年通りに行われ、
祭りのあとには疲れ切った
補導の警察官たちの姿が
やたらと目についた。
それはまさに精根尽き果てた
兵士の姿のようで、
茜はかつて白サギの見ていた方向が
戦の場と化していったことを
思い出し、何となく
背筋が寒くなるのを感じた。
暑いがゆえに
夏を愛する茜さえも、
今年の夏は早く過ぎて欲しいと思った。
夜寝苦しくて、
昼間はぼんやりしている。
へばりつくような湿気に
息がつまりそうだった。
そんな日々が過ぎ、
やっと肌で呼吸ができるように
なったある晩。
茜は子供の頃から使っている
タオルケットに包まりながら、
妙な夢を見ていた。
あの老人が月夜の晩に
広場でいっぱいやっている。
真ん丸い月が大都会の
高層ビルの間から顔をのぞかせ、
その影が大川の川面に
ゆらゆらと漂っている。
荒城の月の唄のような
見事な秋の月夜の晩だった。
こんな時間なのに、
白サギがあの場所にいる。
以前より美しく艶めかしい
その姿が月の光にくっきりと
映し出され、
茜は思わず息を呑む。
美しい白サギ、
それはまるで美しい女の立ち姿
そのものだった。
老人は一升瓶を傾け、
悠々と酒を飲む。
美しい人に盃を掲げながら、
いっぱい、もういっぱい。
上機嫌で微笑む老人の
上気した顔を見て、
茜は驚いた。
こんな幸せそうに笑っている人を
見たことがない。
白サギが老人の掲げる盃に
応えるように翼を広げる。
老人はうれしそうに酒を注ぎ、
盃を掲げ一気に飲み干し、
また酒を注ぐ。
驚くことに白サギは老人が
盃を掲げる度に
翼を広げて応えている。
それがどうも
疑いようのない事実だと
茜が気付いた頃、
白サギは突然、
あの大きな翼で飛び立った。
そして・・・
茜は思わず声を上げた。
白サギは老人のいる
広場に降り立ったのだ。
しかもそれはもはや
白サギではなく、
この世のものとは思えないほど
美しい女の姿だった。
白い肌、ほっそりとした肢体、
人に姿を変えた白サギは
何と美しいのだろう。
老人はヨタヨタと立ち上がる。
美しい人はやさしく
老人の手をとった。
老人は深くうなづく。
女は再び白サギとなり、
月夜の空に舞い上がった。
そして、その後に従って
白サギがもう一羽飛び立って行く。
老人の姿はもはやどこにもなかった。
広場に残された一升瓶と盃。
空には白サギが二羽。
何と不思議な光景なのだろう。
自分が夢を見ていることを
知りながら、
茜はこれが夢であることを
祈った。
地上では再び戦の
地響きが耳をかすめる。
茜は固く目を閉じて、
思い切り天を仰ぎ、
それからゆっくり目を開いた。
二羽の白サギが東の空に
吸い込まれていくのが目に入る。
それはどこか懐かしい
昔話のような光景だった。
翌朝、茜は小雨が降る中、
その道を急いだ。
すでに空気が肌寒く感じる。
昨夜の出来事が夢で
あることを再び祈りながら
早足で橋に向かい、
そこで人だかりを見つけて
立ちすくむ。
橋の上で多くの
通行人が立ち止まり、
そして右下の広場に
数人の警察官がいた。
その足元にある、
青いシートに包まれた人影。
「泥酔した年寄りが、
朝冷たくなってたんだってさ」
「浮浪者だったみたいよ」
「気の毒に」
通行人たちの会話に
茜は黙って耳を傾けた。
どこまでが現実で
どこまでが夢かわからなかったが、
自分は昨夜確かにそれを
夢で見ていたのだ、
と実感しながら。
今日も中之島公園の
楠の木は風にそよぎ、
グラウンドでは少年たちが
サッカーを楽しんでいる。
茜は秋の深まった休日、
公園を散歩していた。
空は雲ひとつなく、
どこまでも青くどこまでも高く
続いている。
さわやかな秋風と
子供たちの笑い声。
茜はそれを聞きながら、
あの藤棚の前で立ち止まった。
夕方になっても、
もう老人の姿も白サギの姿も
見ることはないのだろうか。
グラウンドからボールが
転がってきて、
それと同じスピードで
少年が駆け寄ってくる。
少年はまるで茜の存在に
気付かないかのように
ボールを足で捕らえると、
キックして、
来たのと同じ速さで
グラウンドに戻って行く。
茜は少年を見送ると、
近くのベンチに腰掛けた。
ここで死んでいった
兵士たちが本当にいるのかどうか
わからない。
しかし、今更そんなことは
どちらでもよい気がした。
白サギと老人と自分が
ここで過ごした時間がここにある。
二人がどの時間に生き、
何を見ていたにしろ、
ここで三人がある時間を
共有したのは確かなのだ。
老人は死に、
白サギはいつの間にか姿を
消してしまった。
茜が最後に白サギを
見たのは夢の中が
最後だったのではないだろうか。
しかし、そう思うと、
すべてが夢だったように思える。
白サギは偶然いなくなり、
死んだ浮浪者は
あの老人でなかったのかもしれない。
またいつか違う時代に
同じ場所で交差する時間が
あるような気がする。
茜はもう一度藤棚の下に立ち、
向かい側の石段と広場を見つめた。
川面に真昼の太陽が
きらきらと輝いている。
眠気を誘う緩やかな流れの中、
思いもよらぬ方向から
水しぶきが上がり、
魚が身をくねらせて
川の中に戻って行く。
茜は大川を後にして、
すっかり秋の気配が深まった
並木道を歩き始めた。
そして、ほどなくして足を止めると、
ゆっくりと空を仰ぎ見る。
遥か遠くでたわむれ
飛ぶ二羽の鳥の姿が、
まだ明るい東の空に
吸い込まれていく。
その姿までは
定かではなかったが、
茜は深い感慨を胸に、
消え行くその懐かしい姿を
見送った。
了




