遠い日の記憶 【月夜譚No.92】
巨大な鋏のような、そんなオブジェだった。素材は確か、石膏だったような気がする。
朧げな記憶を頼りに、彼は細い路地を歩いていた。先に宿にチェックインをして、荷物を置いてきておいて正解だった。こんなに彷徨い歩くとは、当初は思ってもみなかったのだ。
もう十数年前になるだろうか。幼い頃に家族で旅行に来たこの土地は、あれ以来になる。家族で行った水族館も寺社仏閣も薄らとした記憶しかないのに、あの言葉だけははっきりと覚えている。
『またここで会おう。私達が大人になったその時、ここで待っているから』
一言一句違えることなく、今も諳んじられるほどに脳に焼き付いている。それなのに、それを言った少女の顔は何故か思い出せない。
あの時、彼女が笑っていたことだけは覚えているのだが――。
その約束の場所が、鋏に似た巨大なオブジェ。しかし、探しても探しても、その影も見つかりやしない。昔の話だから、もうそれはないのか、それとも幼い時分のただの夢だったのか……。
悶々としながら足を動かしていると、ふと視界が開けた。
目に飛び込んできたのは、白い石膏の鋏を模した美術館のシンボル。唐突に現れたそれに唖然としていると、その前に佇んでいた淡い桃色のワンピースが振り返った。
綻んだ口元を見て、彼は確信した。あの日の出来事は、決して嘘ではなかったと――。