35:その後(2)
以前に犯罪王と呼ばれた男は両手を左右に広げてやっと縁に手が届くような机を前に置かれた革で出来たソファーに深々と座ると、被っていた帽子のツバを持ってポイっと投げ、部屋の片隅に置かれたコートをかけるための柱に上手くひっかけた。それから机の上に置かれた何枚もの紙の束に目をやり、退屈そうに目をやるとそれを斜めに読みながら二つの判子を分けて押していく。
そこはシホ国域からやや遠くにあるジェーモ王域のダームという街の庁舎である。その街の二番手が座るべき椅子に、彼は今堂々と座り仕事をしているのだ。仕事を進めているうちに扉が丁寧にノックされ、この庁舎で受付をしている男が入ってきて言った。
「すみません副知事、少女があなたを訪ねてきているのですが……忘れ物を届けたいと」
「ん? そうか。通してくれていいよ」
受付の男はこの副知事を見る度に三十歳程度の男が突然ポッと出てきて副知事に就任した事を不思議がっている。実際とてつもなく優秀であり、五十七歳になる知事が彼に何かにつけて相談していることも多いことを知っているが、それでもその椅子に座るこの副知事の男に小さな違和感を感じざるを得なかった。
だがそんな違和感も仕事に持ち出すものではないと、受付まで戻った男はそこにいた可憐な少女を副知事の部屋のある廊下へ通し、彼女は副知事と一体どんな関係にあるのだろうかと考える。副知事の元へはもうひとり、やたらキレイな女性も頻繁に訪ねているが、男には副知事とその女性の関係を知る由もない。
副知事は再びのノックに「開いてるよ」と気安い声をかけた。そのノックは先程の堅苦しい受付の男のものではなく、弾むようなリズムでされたものであったことから相棒のクインとも違うノックであることを認識する。そして開かれた扉から、まずは結われた髪をたれさせながら可愛らしい少女が控えめに顔を覗かせて言った。
「あ、○、○○○さん、今日おうちにこれ忘れてたから、必要かなと思って……」
少女は照れを隠しながら(気持ちはダダ漏れではあるが)おずおずと袋から副知事の愛用の品を取り出して手渡した。
「あー、無いと思ったら忘れてきたか。サンキュな」
副知事は穏やかに微笑みかけながら少女にそう言うと、それを受けた少女は嬉しそうに頬をうっすら赤くしながら喜びを表面に出しつつも恐縮して言った。
「いえっ、あ、お仕事大変そうですね……」
少女は紙の束を前に萎縮して、早く立ち去ったほうがいいのだろうかと思案するが、副知事は軽く笑って「大したことないよ」と少女から手渡されたモノを大事にポケットにしまった。
「ところで、クインは帰ってきたかな? 今は家にいるか?」
副知事はおもむろに判子をペタペタと書類に押したり、何かを書いたりしながらそう尋ねた。
「あ、一度帰ってきたけどまた用事があるって……。そうだ、クインさんから伝えてって言われたことがあって……えっと”バタフライピーにレモンがあった”……だっけ……バタフライピーって紅茶ですよね? クインさんって紅茶好きなんですか?」
少女はその質問の答えを楽しみに待っている。もし好きだと言ったら淹れる練習もしなければ、ということである。
「あぁまぁね。うんうん、ありがとな教えてくれて。午後の楽しみが出来た。そうとなれば早いところ仕事を終わらせないとな」
副知事はコミカルに腕まくりのジェスチャーを少女に見せて笑いかけると、少女もペコペコお辞儀して入ってきた扉の外に体を出し、身を隠すように挨拶をする。
「そ、そうですね。それじゃあわたしは先におうちに帰ってるので……お仕事頑張ってください、○○○さん」
少女は帰りに紅茶を探してみることにした。何をするにも万能のクインに勝てないが、今はいろいろな事を教えてもらって修行をしている身で、次は紅茶の淹れ方を教えてもらおうと思った。
「あぁ、気をつけて帰れよセナ」
セナと呼ばれた少女は少し前にこの副知事に拾われ、家で匿われている。理由は一つ、この世界では暮らしていけないからだ。
この少女はある時突然このジェーモ王域の真ん中で目を覚まし、たまたま通りかかったこの副知事の男に拾われた。無一文で住む場所も無く、その上で魔法も使えないのであれば、その先の運命など決まったようなものであったが、幸いなことにこの副知事は気まぐれに彼女を拾い、彼女の語る別の世界の話を聞いて自宅に住まわすことに決めた。
少女の名前はクスノ・セナ。列車での事件以降マリナと共にしているマサキの妹である。彼よりも数ヶ月早くこの世界に流れ着いた彼女は今、この世界で親代わりの存在である副知事の男と次はどんな話をしようかと楽しげな気持ちで帰路についたのだった。
ひとまずここで終わりです。
続きは気分次第で書くかもしれないので、完結にはしないでおいてあります。
読んでくださった皆様、多数のとてもためになる誤字報告を出してくださった神様、本当にありがとうございます。