18:糸口
「おい!」
マリナが彼をぶっ叩くという勢いで駆け寄り、その顔を確認して固まった。
「死んでる……こいつも死んでる……」
ブロウドは口と鼻から細い泡を吹き出していた。毒物かとマリナは口元の匂いを嗅ぐが特別妙な匂いはせず、泡沫から溺死だということがわかった。しかし服には水など一滴も付いておらず、口と鼻周りだけが僅かに濡れているものの目元までは濡れていない。
その後すぐに確認した浴槽には水が流れた痕跡すら存在せず、では顔だけを水につけて溺死させたかとも考えるが、それなら顔全体が濡れていないとおかしい。それに手首と足首には荒縄のようなもので力強く縛られており、少しだけ縄が皮膚を擦れたような痕も残っている。溺れる苦しさで暴れようと丈夫な縄を見るにブロウドの力でも抜けることは出来なかっただろう。
考えれば答えは唯一つ、魔法による溺死。口と鼻を水の球体で覆う事は水魔法でなら簡単に出来るだろう。水魔法の使い手はクイン一人しかいない。
溺死体を前に「うわ!」と声を上げたセイが気になり、出入り口に配置していた全員が駆けつけて死体を確認する。マリナは乗客らの反応から犯人を見つけるつもりだったが、ここでは全員が同じ反応を見せた。
口を閉じたり、口角を下げたり、眉にシワを寄せたり、それぞれの”嫌悪感”から同情心やまたかという諦念を滲み出している。それらはすべて犯人の表す反応ではない。だからやはり”乗客の中に犯人は居ない”となってしまう。
マリナは自分の読心魔法が別の反応を見つけることが出来なかっただけなのではないかとも思ったが、それでもこれまでさんざん助けられてきたこの”読心魔法”に対して明確な不信を覚えることは出来ずにいる。
次にマリナはブロウドの死亡推定時刻を調べた。顔に付着した泡沫の量、それ以外の”出てくるもの”の無さからまだ死んでから数十分。ブロウドが部屋に居ないことを確認した少し後であるため、アラツよりも先に死んでいた事になる。
しかしそうなるとアラツを殺害したのは誰なのか。マリナはこれまで読心魔法という手段に頼り切りで、あとは憲衛の捜査で見えてくる証拠から事実を組み立てて解決に導くのみであり、マリナ自身がピースを拾い集め、何もわからない状態から事実を組み立てて事件を解決するということをほとんどしたことがなかったのだ。
その上で、あまりにもこの列車での事件は突拍子もない。明らかに動機を持つ者がいるにも拘らず、現状で誰が誰を殺したという推定すら満足にできずに被害者だけが増えていく。
こうなれば本当に謎の人物が乗車していて、誰にも見つからずに秘密の通路を歩いて殺害を行っているのか。そんなはずはない。
魔法は存在する世界だが魔法は万能ではないのだ。ワープや透明人間になるだとか、時間を止めてしまうなんて魔法は存在しない。あくまでも自然に起こりうる現象をマナによってある程度操作可能な状態で発動しているだけであって、幻想的にぶっ飛んだことは出来ない。
では犯人はどこなのか。カンラ殺害犯、ブロウド殺害犯はわからないにせよ、少なくてもアラツを殺害した犯人は今マリナたち全員がいる後方スイートか後方展望車にいることは間違いない。なのに見つからない。窓を開けて外へ逃げるのも無理だ、廊下の窓を開けるにはクインの持つカギが必要になっているし、スイート部屋の窓はほんの一部が小さく開くのみで、人間は絶対に通れない。
マリナは「あー!!」とかなりの苛つきを言葉にしながら頭を指でかきむしっているが、順序立てて考えることすら出来なかった。
「犯人はここにいるはずなんだろ……?」
見かねたセイがマリナにそう声を掛ける。「そうなんだよっ、そのはずなのにっ……」明らかに狼狽るマリナ。
マリナが見抜いていたのは、アラツは確実にスンに対してドメスティックバイオレンスを行っていたということ。スンには見えているところに傷のような物はなかったが、日常的に言葉による暴力が行われていたのは確かで、スンがこの旅行の場においても暗い服を着用していたことからもその心理を窺うことが出来る。
日常において長い時間、枷にはめられている人間が明るい色の服を着ないのはこれまでマリナが見てきた人間全てに該当する事柄であった。
だからスンこそ、アラツを殺害する動機が十分だったはずなのだ。結婚生活が支配と服従関係にあったに違いないのだから。
でもアラツが殺された頃、スンはマリナの眼の前に居続けて眼の前でセイの手当をしていた。首を裂かれて生きていられる時間は長くても一分ということを考えればスンには絶対に犯行は不可能だ。そうなればセイの聞いたという足音の人物が犯人であるのは間違いなく、であればその場にいたクインも違う。
だがそもそも犯人が一人とは限らないのではないか。そう考えてアスルとキワ、クトリクの三人が組んでいたとなれば、ひとまずアラツとブロウドの事件の説明は出来る。彼らが手分けして殺し、運び、偽装工作を重ねていれば解決だ。
それを否定する材料は一つ、マリナの読心魔法だけである。彼らは死体を見たときに不快感を顕にしていた。それは近親者であろうともリアルな死を目の当たりにしたときに誰もが見せる一般的な反応であって、複数人を短時間で殺すようなサイコパスの反応ではない。誰も人を殺したことがない、殺人という概念から遠くで暮らすただの一般市民の反応としか見えなかったのだ。だからきっと彼らは誰も殺していないと、マリナは不安定な読心魔法を以てそう見ている。
次にスンの反応はどうだったか。アラツの遺体を見た直後はマリナ自身、彼の指差したモノを考えることに集中していたが、思い返してみるとスンはあの時、驚きの後にゆっくりと鼻から息を流していたのではなかったか。
それは自分の興奮を抑える動作であり、まるで待ちかねていた、という反応は彼女の受けてきた目を考えれば理解できるが、目の前で死んでいく人間に対して普通はそうはならない。恨んでいた人間であれ突然の死には飲み込むまで時間がかかるものだ。あまりにも早い理解はまるで事前に知っていたのではないかと思わせる。
展望室ならスタッフ室の真上で、スンは風属性の魔法使い。もしも物語の魔法使いであればカマイタチのような真空で切り裂くような魔法で致命傷を与えることが出来るかも知れないが、魔法はそこまで万能ではなく、行使可能距離はほぼ両手の届くような範囲であるし、目に見えている場所であることが前提である。そんな常識を破って魔法を使える才能があればアラツのような人物とはくっつかないだろう。魔法が万能だったら簡単に犯人を想定できるが、ちゃんと限度のある魔法を当てはめればそれも不可能である。
一番動機を持っているはずの人物が、殺害に関わらない。ブロウドはどうだろうかと、マリナは苦い表情を以て後ろにいる三人に尋ねた。
「クトリク、アスル、キワ……君たちはみんな、ずっと捜索をしていたんだよね……?」
マリナの言葉に、全員が頷いている。乱れることのない視線と適度な緊張感のある声、特別声音が上がることもない。全員がしっかり捜索をしていたということだ。
ブロウドの死亡推定時刻はセイが何者かに襲われ、その回復を待っていた間の時間帯である事を考え、次にこんな質問をする。
「クインが君たちをラウンジに集めた後、妙に席を立った人はいる……?」
その質問にも誰も反応しなかった。三人だけではなくスンも通常の反応をしている。全員が集められた後は誰もがラウンジで過ごしていたし、アラツがボヤボヤと愚痴を言ってスンに当たっていたことも全員聞いて思い出すようにしている。マリナはイラつくように人差し指の付け根を歯に当てる。
マリナの魔法は「誰も嘘をついていない」と見ているのだが、ここに至っては「もしかして自分の読心魔法が最初から全て間違っていたら」という考えも生まれてきてしまい、歯に当たっている自分の指に跡が付き始めていることも気づいていない。
結局読心魔法が導いたのは、やはり動機ある人物にこそ完璧なアリバイが存在しているということ。
カンラの死においては最も動機を持つはずの恋人のクトリクが、セイやクインと過ごしていたことでアリバイが作られている。
アラツの死においても妻のスンのアリバイをクインやセイ、そしてマリナ自身が証明している。
ブロウドにおいても同様、何かの疑惑から不信感を顕にしていたアスル、それと同じ聖火院のキワがクトリクやスンによってアリバイを作られている。
やはりここには居ない第三者がいるというのか。ろくに隠れる場所もないこの列車に。マリナはそれこそまるで犯人は一時的に”異世界”にでも逃げ込んでいるのではないかなどと、混乱で何も考えることが出来ない自分への苛つきを禁じ得なかった。だが再度確認するが、そのような魔法はありえないのだ。
「犯人はわからないのか、マリナ……?」
セイがマリナの顔を覗き込む。その泣きそうになっている表情を目にしたセイはうーむと少し悩み、クインにこう尋ねた。
「この列車の見取り図とかはないんですか? どこかに隠し通路があったり、人が一人隠れられるだけのスペースがあったりがわかるような……」
馬鹿な、とマリナは口にせずとも鼻を鳴らした。クインは「見取り図なら運転席にあるかも……」と言い、後方の運転席にもあるかを確かめに部屋を出た。もしかしたら危ないからとセイとアスルがクインに同行する。
マリナもやがて部屋を移動し、アラツの殺害された現場へ。マリナ以外は顔を背けて通路、階段側を向いている。
アラツの現場でわかったのは、アラツの死因はまるでプロの犯行であるかのように鮮やかな裂傷ということ。喉の切り傷は中途半端に止められており、そのまま切り裂いていればすぐに死んでいたであろうにまるで”一分程度は生かす”事を考えて切り裂かれたようで、この器用さはナイフで直に、でないと出来ない。
そして切り裂かれた時、アラツは展望車から外を向いていたということ。外と言っても向いていたのは進行方向からして真後ろとなる、運転席を見下ろすような位置を向いて首を切られたようだ。
抵抗の痕、着衣の乱れも一切なく、本当にあっさりと首を切られて、噴出した血液が運転席に垂れるかのように、丸みを帯びた展望車のガラスを伝って足元に流れている。ちなみに運転席から展望車を見上げることは出来るが、ガラスに仕切られているため魔法が届くことはない。下の階にいた誰かが上から見下ろしていたアラツを魔法で殺害、ということは不可能だ。
もう一つマリナが見つけたのは運転席を見下ろす位置にアラツの指紋が残されていることだった。脂性だったのかはっきりと残った指紋からして、アラツはガラスにぐっと寄って運転席を覗き込んでいたのだ。憲衛が捜査すればアラツが額をつけてまで運転席を見下ろそうとしていたこともわかるだろう。
マリナは更に疑問を増やす。普通、誰か悪い人間が乗っているかもしれないという状態でそこまでのことをする理由とは何か。セイが言うには階段で足音を立てて動くような人物に気付かず、何故アラツは誰もいるはずのない運転席をそうまでして覗き込む必要があったのか。
もしかして誰かに覗き込んでみるべきだと提案されたのではないか。それに従ったのだとしたら顔を知る人物でなきゃ筋が通らない。それが可能な人間をリストアップしていく中で、マリナはハッと気づいた。
――完璧に怪しまれずそれを出来る人間はいる。――その考えを事件全体に当てはめた時、妄想レベルで事件を解決出来るピースを見つけたのだ。
それについて確証はなかったし、その妄想が事実だとしたらマリナは今大変な状況の真っ只中に置かれていることになる。その突拍子のない妄想に鼓動が速くなり、冷や汗をなんとか抑えこむように、無意識の内にポケット内のストレンジャーにくくりつけられている弾丸を触って存在を確認し、自分を落ち着かせるためにストレンジャーの角ばった部分を自分の手に強く押し当てるのだった。