9:最初の事件
クインの手がけた豪華料理の晩ご飯を済ませ、のんびりとした時間が過ぎ、時刻は夜を迎えた。もう全てのグループが就寝を考える時間だろう。
セイは楽しみにしていた。『もしかしたら隣から何かご褒美ボイス的なものが聞こえてくるかもしれない。不可抗力で聞こえるなら仕方がないわけで、しかも性格はともかく美人でムフフ』……だが耳を澄ましても聞こえてくるのは鋼鉄製の車輪が線路と奏でる規則的なガタンゴトンという音のみで、セイの思うご褒美ボイスはいつまで経っても聞こえることはない。
ちなみにマリナも眠れていない。枕が変わって眠りに入りにくいという点もあるのだが、いつも使っている抱き人形はしっかり持ってきているし、美味しすぎた晩御飯とその後のデザートもあって心の平静は十分保てている。
ただもしも隣の部屋から何か変な声が聞こえてきたらどうしようという気持ちで神経が高ぶっているのは確かだった。マリナがそうしているうちにセイがゴソゴソとベッドを抜け出ていく。セイはこの部屋のトイレは使わないようにとマリナが言ってあるためラウンジ車にあるトイレにわざわざ足を向けたのだ。
それから五分、十分と帰らないセイを待つこともなく、マリナは目を閉じた。心地よい揺れと列車が進むために起こす規則的な雑音はその大きさに関わらず人を眠りに導くようだ。揺り籠で子守唄を聞かされる子供のようにまどろみに落ちていくマリナだったが、セイが勢いよく扉を開いて大声で名前を呼ばれた事で頭は冷水に当てられたように覚めていく。
多少でも眠れたのかなと周りを見回すが、眠る前、最後に時計を見てから三十分ほどしか経っていない。
「マリナっ、た、大変だ! 起きろ!」
「んぬ……うるさい……なぁに……」
人形を体で踏み潰して寝かけていたマリナがそれを抱き上げ、目を擦りながらセイの様子を見る。彼はずいぶん深刻そうな表情であった。
「マリナ……事件だ、人が死んでる」
この言葉を”読心の魔法使い”であるはずのマリナは真実だと見抜くことが出来ず、質の悪い冗談なのだろうと、そう思った。
「……なに?」
マリナはセイに連れられてラウンジ車からレストラン車へ。その中に入る時から見えていた背中はカンラの恋人、クトリクだ。彼はレストラン車のテーブルの一つについて頭を抱えていた。
その少し奥、キッチンに入ったところでクインが泣きそうな表情でマリナを迎えた。クインの手は一部赤く染まっている。
「ああ、ああの、憲衛士さんの仕事をされてるんですよねっ……?」
どうやらセイから伝わっているのだろう、マリナが憲衛士のコンサルタントのような事をしていることをクインは知っているようだ。マリナの代わりにセイが説明する。
「マリナは顧問探偵みたいな事をしてるんだ。憲衛士の中では”読心の魔法使い”なんて呼ばれてたりするすごい探偵でね。だからきっとすぐに解決しますよ!」
遺体が近くにあるというのにセイはマリナの活躍が楽しみなのか、弾むようにそう言った。彼はこのツアーに参加するまでにもう数度、マリナの探偵っぷりを見てきているからだ。そのどれもすぐに解決してきたのだから。
「被害者は誰?」
セイやマリナのやり取りを無視しつつ、マリナはクインが封じていたドアを開ける。そこに横たわっているのは赤いワインをこぼしたような床に横たわるカンラの姿だった。もちろん赤いワインというのは全てカンラの血液である。
マリナは顔を歪め、その部屋の内部を確認する。一緒に入ろうとするセイとクインを部屋の入口で「来るんじゃない」と止めながらうつ伏せに横たわる遺体を確認する。死因は刺殺だろう、腹部に鋭利な刃物で何度か刺されたような痕があり、衣服もそのように破けている。更にカンラの遺体の様子を見るに、背後から刺されたのだろうことが見受けられた。
「なにかわかるか? マリナ」
ドキドキした様子で扉の陰からそう声をかけてくるセイを無視してマリナはキッチン内をキョロキョロ見回した。オーブンを開ければ作りかけのパン生地のようなものが入っている。
「……あの、多分スコーンか何かだと思います……クトリクさんのために夜食を作ると言ってたので……」
そういえばキッチンの管理はクインが行っているはずであり、どうしてカンラが一人でここにいたのか。マリナはその理由を直接クインに聞いた。
「どうしてもキッチンを使わせて欲しいとおっしゃって……でも一人で作りたいということだったので私は追い出されていたのですが、時間がかかっているみたいだったので見に来たら……」
クインは声を震わせ、怯えたようにそう言った。続いてセイも補足する。
「その間はずっと俺たちと話してたんだ、クインさん。あぁえっと、ラウンジで俺とクトリクさんと……いや、こういうのってはじめからちゃんと話したほうがいいのか。えっと……」
セイが思い出そうとするように右上に視線を持っていき、つらつらと語り始めた。
まとめるとこうだ。セイがトイレに行くためにラウンジ車へ行き、用を済ませた後はドリンクコーナーでお茶でも飲んでから帰ろうと考えながらトイレを出ると、クトリクがラウンジ車で休んでいた。その後ですぐにクインも合流して話を聞くとどうやらカンラが夜食を作ると言い出したらしく、クインを丸め込んでキッチンを独占、クトリクとクインの二人はキッチンを追い出されてラウンジ車で待機することになったそうだ。
クトリクはセイに謝りたかったし、セイはクインと話したかったということもあって三人で話していると、やがてキッチンを三十分も客に渡していることに不安を覚え始めたクインが様子を見に行き、倒れた状態のカンラを発見した。そこで揺すり起こそうとした時に手に血液が付いてしまったらしい。
マリナがクインの腕を見た時、血液が乾いている部分と乾いていない部分があるのに気づいた。
それからセイの話にクインもいくつかの補足をする。
なんでもクトリクは雑談の途中で一度三分ほどトイレに立っているらしい。今のラウンジ車は最低限の光しか灯っておらず、トイレに行くふりをして誰にもバレずにレストラン車に行くことは不可能ではないだろう。
また、ラウンジ車にクトリクとクインが入ってきたタイミングには正確に言えばズレがあり、クインのほうがキッチンの説明をするために最初の五分程度カンラと共にキッチンに残っていたんだそうだ。
その話をするクインを射抜くような瞳で見るマリナ。クインに向ける鋭い瞳から、セイは今の話が本当なのか見極めているのだろうと考えた。
「……んほど。ところでガイドさん、この事件のせいで明日の三時のスイーツタイムは中止になったりするのか教えて欲しい」
険しい顔のまま、真面目なトーンでクインにそう尋ねるマリナ。
「そりゃあ……中止ですよ、最寄りの駅で降りて憲衛士さんのところへ行かないとですし……」
その答えを聞いたマリナは湧き上がる自分の怒りを抑え込むように「ふぅぅぅ………ッ!」と長く深い息を吐き出し「犯人、絶対、潰してやる……」と呟いた。
「おやつがなくなって惨事ってか……おやつなだけに」
マリナの心境を察したセイが真顔でそんな事を言う。マリナは「は?」と冷たい目線を向けた。
「上手くないよセイ。で、続きを聞くけど。ここまでに出てきてない人物が何人かいる。ラウンジ車側で他に誰かがレストラン車へ出入りしたって事はなかったんだな?」
つまり運転手や熟年夫婦などの話だ。ラウンジ車の前方にある車両にいる人物がその人達なので、容疑者から除外できるかどうかを確認した。
「いないよ。多分、あの夫婦は寝てるはずだし、起こしてないからな。運転手さんも多分……今列車ちゃんと動いてるし」
「なるほど……ガイドさん、ちなみに出す予定だったお菓子を持って帰れたりはしない?」
「えっと……どうでしょう……」
マリナは部屋を見回しながらどうしてもお菓子の事を気にしているのだが、それでもその鋭い瞳は的確に部屋に残された手がかりを捉えている。例えば首筋に付いた真新しい焦げ跡。特徴的に中心から外へ広がるような焦げ方は熱系の魔法ではなく、明らかに電気魔法のもので、単にやけどではなく毛細血管を焦げつかせることで模様のようになった様子は電気魔法でしか作れない。
飛び散った血が焦げた痕は見つからないため、順番としては電気によるやけどの痕跡が残る何かが行われた後で血が流されたのだろう、とマリナは考えている。
同様に飛沫血痕にも注目すればカンラが倒れた状態の中で短い間にバスバスバスと刃物を何度か突き刺されたのだろうということがわかる。犯人はカンラの太ももの辺りに乗っかって、血でまみれた大鍋の蓋を右手で持って血しぶきを防ぎながら突き刺していて、血まみれの刃物の取っ手を見れば犯人が左利きである事もわかった。
ちなみに左利きのマリナは、ブロウドと挨拶した時に右手に腕時計を付けていたことを思い出し彼も左利きだろうと考え、それからスンもレストラン車でお茶を飲んでいた時にカップを取っ手を使わずまさに”わざわざ”という感じで左手で持っていたことを考えればこの列車には左利きが三人いる。
そしてスコーンが焼きかけなのはクインが火を止めたからなのかと訊くとそうだと言う。その焼きかけのスコーンの破片を取り、口に運ぶマリナ。
「まだしっかり焼けてないじゃないか、お腹壊すぞマリナ」
「……いや、意外と焼けてる……」
そしてもう一度横たわる遺体に目をやり、刺し傷付近の血液を擦り、眉を寄せるマリナ。頭の中にあるメモ帳に状況を書き込んでいくのだが、そこには既に小さな矛盾が生じていた。つまり血液の凝固がそれなりに進んでいるということだ。
一分単位での詳しい時間を測ることは出来ないが、スコーンを焼くのに二十分弱とすれば、少なくても血液はそれよりも前の時間に流されているのではないか、という点をマリナは気にしている。
「……この列車に魔掌紋を取れる道具ってないよね」
魔法を使われた際に少しの時間現れるのが”魔掌紋”。その形は一人ずつ独特であり、それを特定できればほぼ犯人が割れるので、ほとんど指紋と同じようなものである。それは普通特別な感魔紙というものを用いて採取するのだが、当然一般家庭に在るものではない。
「すいません、置いてないです……」
マリナもはじめからあると思っていなかったので「だよな」と納得した。
「とりあえず現状でわかるのは遺体は刺殺されてる事。殺害場所はここだろうな。血の量から見て間違いない……けど、この飛び散り方ってなると倒れた状態になってから刺されてる。凶器は多分そこにある包丁。一つだけ血まみれだしな……」
「うん、それは俺にもわかるぞ。ほら名探偵マリナ、犯人は誰なんだ?」
セイが急かすとマリナは遺体の首筋の焦げ目に触れて言った。
「多分電気魔法で気絶させてるんだ……魔掌紋が取れれば完璧だけど、ラウンジ車側からの行き来がなくて、後方車両に左利きの電気魔法使いがいたら……そいつが一番の容疑者……になるけど」
マリナは状況証拠のみでそう断定しているが、ここには容疑者に対して自分の使う”読心魔法”が絡んでいないため、語調が弱々しくなっていきあまり自信が無いような言い方をしている。
それにマリナ自身、この列車に乗ったときから読心魔法が上手く機能していないと感じている。簡単に言えばマリナにとって”全ての言葉が嘘に聞こえる”。その現象は列車に乗ったときから起こっており、まるでマリナの魔法が持つ価値観のような概念を裏返しにされたような気分なのだ。
だから「このまま犯人を”属性を持つ魔法使い”と断定していいのか」という疑問を持っていた。
だが魔法が使われているという事でセイはマリナの言った自信の無い推理に納得しており、それからクインがおずおずと手を挙げて言った。
「います、一人……左利きかどうかはわかりませんけど……」