脳筋村娘と王太子の行く末
連載として書こうかなぁーっと思って、プロットを考えるも、お蔵入りしていた作品を短編で上げさせていただきました('ω')ノ
少しでも面白いと思っていただければ幸いです♪
(秋の桜子さんから扉絵をいただきました!)
世界で最大と言われているプロメテシア大陸。
その大陸の中でも最も栄えている国として有名なのが、世襲制の王政を代々継いできたメジカ王国である。
肥沃な土地、恵まれた広大な領地、豊富な人材、技術の進歩・・・それらが上手く国内の情勢の中で循環し、永久機関のように利益と安寧を国にもたらしてくれていた。
人間、余裕があれば考える時間が増え、色々と手が回るものだ。
近隣諸国は、潤った土地を持つメジカ王国を喉から手が出るほど我が物にしたかったが、余裕のあるメジカ王国は軍事力にも余念がなかった。
戦争をするための軍事力ではなく、戦争を起こさないための抑止力。
そうスローガンを掲げ、立ち上げられた国防軍の総数は50万を超え、いかに一人一人の戦闘技術が低かろうと、数の暴力である程度の脅威は押しつぶせるほどのものだった。その上、鉱脈にも恵まれたこの土地では、良質な鉄も自国内で大量に用意ができ、兵士たちの装備品は一流。攻城兵器や対軍兵器まで鍛冶職人たちの手によって用意される始末。
もはや近隣諸国は迂闊に手を出せば、手痛いしっぺ返しを食らうことは間違いないため、ハンカチを噛みながら悔し涙を流す他なかったという。
抑止力として築き上げた国策は見事に嵌まったといっていいだろう。
他国からの脅威は抑えられ、自国内の生産は安定の一途。国の中枢を支える貴族や王族も「無駄な争いをするより、現状を維持してゆったり暮らしたい」と過ぎた欲望を抱くこともなく、民政に資金を回すことで、国民含め内外で敵と呼べるものはいなくなっていた。
そうなってくると、外交もかなりの優勢となり、他国との交渉や交易についても摩擦なく契約を結ぶことができ、そのことがさらに国を豊かにしていく原動力の一つとなっていた。
何もかもが順風満帆。
時代の歴史家はこう言うだろう。
――メジカ王国は永劫の富を抱き続けるだろう、と。
当時の人々が唯一の難点があるとして挙げるならば、それは当代の王太子についてだろうか。
王太子――メジカ王国の当代唯一の男子である、パトリック=ディロ=メジカは大の女嫌いである。
齢16にして、未だに伴侶を定めず、父である現国王や王妃がいくら自国内の貴族令嬢を推薦しても、彼は一向に首を縦に振らず、それどころか令嬢たちと顔すら合わせないぐらいだ。
一時期、不能だの男好きだのと噂が流れることがあったが、彼自身はそれを否定。
ただ――そういう気分になれない、とだけ言葉を残し、今も婚約から逃れる日々を送っていた。
眉目秀麗である王太子が望めば、それこそ多くの淑女が彼の元へと集まることだろう。時期王妃の座を狙う令嬢たちもそれを待ち望んでいる。
しかし彼はあの手この手で周囲の重圧を躱し、今も独身のまま帝王学や王政を学び、着実に時期国王としての技量だけを磨き上げていた。
この件については国中が不安を持ちつつも、それ自体が国の崩壊につながるわけでもないし、多少婚期が遅れたところでいつかは王妃となる者を迎え入れ、世継ぎを残されるだろうと思い、誰もがそこまで深刻には考えていなかった。
パトリック王太子自身も、世継ぎの重要性は重々に分かっているため、いつかは自分の中の蟠りと決着をつけ、娶るべき女性を探そうと思っていた。
そう――結局のところは、時間が解決してくれる程度の問題しか、メジカ王国には無かったのだ。
間違ったことさえしなければ、メジカ王国は崩れない。
そして道を外そうとする者も国内にはいなかった。
メジカ王国を脅かす外敵も伸ばす手をひっこめ、羨ましそうに隣の青い芝を眺めるだけ。
メジカ王国は人の手では切り崩せない、盤石の王国としてこの大陸に君臨し続けるのだろう。
そう、人の手では切り崩せない。
人の手では、だ。
メジカ王国を脅かす存在は、大地を駆けるわけでも海を渡るわけでもなく、人でもなかった。
それらは、人ならざる者で、空からやってきたのだ。
暗死鳥――と後に呼ばれることになる、海を渡った未開の大陸から飛んできた外来種の襲来であった。
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「メジカ王国、王太子パトリック=ディロ=メジカ殿下のご入場でございます」
大勢の拍手と共に豪奢な広間の大扉が開いて行く。
場所は王都内でも王族、貴族たちの婚約儀礼を数多く請け負ってきた、国内最大にして華麗と言われる教会である。
柱頭も細かな装飾が施され、天井部分に設置されたステンドグラスからは晴天に恵まれたこともあり、荘厳で清廉な光を教会内に運び込んでくれている。
身廊には赤いカーペットが祭壇まで伸びており、その両側の長椅子に国の要人たちが座っていた。
右が新郎側で、メジカ王国の現国王と王妃。宰相から伯爵・公爵の位を持つ貴族たち。
左が新婦側で、シャサール共村国の各部族の村長とその親族たち。
俯瞰して教会を見てみれば、左右で別の文化・・・というより、別の世界が並んでいるように見える。
現代の一般的な王政と貴族制度を敷いているメジカ王国の面々は、政に疎い平民ですら違和感なく見れることだろう。感じることと言えば、長椅子に並ぶ面々があまりにも国の重鎮ばかりなので、圧倒されてしまうことぐらいだろうか。美形揃いなので、年頃の紳士淑女は目をハートに変えてしまうこともあるかもしれない。
反して。
シャサール共村国の面々は・・・一瞥しただけで唖然としてしまうものだろう。
そもそも「共村国」ってなに? というところから始まるかもしれない。
彼らを説明するのに多くの言葉を並べたところで、聞き手側は混乱を増すことだろう。
だから彼らの外観を一言で表そう。
――毛むくじゃら、であった。
男性は髪やら髭やら腋毛やら脛毛やら、もう毛という毛が鋭く伸びている。
メジカ王国の貴族が一般的に行事で着込む体のラインに合わせた儀礼服では、その毛が邪魔をして着込めないほど毛深い。故に彼らはゆったりと、かつ動きやすい服装を好み、今も一大イベント中だというのに、ぶかぶかのシャツに半ズボンという服装であった。一応・・・彼らの国の有力者ということで、無地ではなく、細かい金や銀の糸で編みこまれた上質な布による服ではあるのだが、彼らのハリネズミかと思うほどの剛毛が全てを台無しにしていた。
それでも男性はまだいいのだ。
毛深く、触れる者全てを串刺しにしてしまいそうな剛毛であろうとも、まだ両目や鼻、口元が視認できるため、表情や個性をその目で確認することができるからだ。
問題は女性の方だった。
女性は足元まで伸ばした長髪が特徴的だ。
メジカ王国でも長くしなやかな髪は美しい女性の象徴として扱っており、太陽に反射した時の輝きや、風になびいたときの華やかさなどが、男性陣からの美の指標の一つとされていた。
そういう意味ではシャサール共村国の女性たちは、王都の者から見れば「美の最上」と呼んでもいいかもしれない。それほどまでに美しい髪質をしているのだ、彼女たちは。
問題は――その髪が前後左右全てに長く、足首ぐらいまで伸びていることぐらいだろうか。
何事にも限度というものがある、とシャサール共村国の女性陣を見た王都の男衆は言いたかったことだろう。
その全方位長髪のせいで、表情はおろか、顔立ちすらも見る事ができない。
言ってしまえば、等身大ミノムシのような物体が闊歩し、長椅子に鎮座しているような光景なのである。
もはやどれだけ綺麗なドレスで身を包もうと、それすらも覆う髪が全てを隠してしまい、もういっそのこと裸でもいいんじゃないの、とメジカ王国側からすれば言いたくなるような姿である。
曰く、シャサール共村国は男女関わらず、毛は強さの証であり、美しさの証でもあるとのこと。
男はどれだけ毛を伸ばし、逆立て、ナイフでも切れない強靭なものを育てられるか。
女は長く艶やかに伸ばし、身を包み、ナイフで切ろうとしても滑っていくような艶美なものを育てられるか。
それが誇りでもあり、己の存在をアピールする手段でもあるのだ。
パトリック王太子は大扉から案内役の指示のまま広間に足を踏み入れ、扉の前で待つ。
その表情は・・・無表情だった。
彼はそれなりに王太子として教育され、毒沼にも等しい貴族たちの権力争いをその目で見て、王政の手伝いをしてきた。街に下り、国民たちと交流を深め、どうすれば国をさらに良くしていくか、色々な観点と経験も積んできた自負がある。だというのに、そんな彼をもってしても感情を抜け落とし、無表情を維持することが限界であった。気を抜けば、きっと――涙目で「嫌だ、俺はもう帰る!」と叫びだしてしまうことだろう。
そんな彼の健気な姿に、メジカ王国側の者たちはどこかハンカチで目元の涙を拭っていた。
いつもは言い争い、足の引っ張り合いをしている大貴族たちも、この一瞬だけは同じ気持ちを共有し、深々と王太子に向かって頭を下げるのであった。
「シャサール共村国、カッチャトーレ村の筆頭戦士長のご息女、ウェーナートル=カサドル様のご入場でございます」
司会が新婦の名を呼び、それに合わせて大扉の光の向こうから、一人の人物が入場してくる。
パトリック王太子は無表情のまま、右手を差し出し、その手にそっと細い手が乗った。
白い純白のドレス――は大部分が綺麗な金色の髪に隠れて見えないが、その髪から伸びた手や腕にドレスの一端が見えたので、おそらくはきちんと着込んでいるのだろう。
言い方は悪いが、ミノムシにヴェールを被せ、その隙間から腕を伸ばしてくる様子は、もはやこの国の運命を大きく左右させた元凶である暗死鳥よりも、不気味と言いざるを得なかった。
パトリック王太子はごくりと息を飲み、脳内に消しては浮かんでくる雑念を大きく振り払った。
「い、行こうか」
「はい」
やや引き攣った声で促すパトリック王太子に、予想以上に華憐な声が・・・髪のせいでくぐもって聞こえるが、耳に届いてきた。
互いの国の頂点に位置する人間同士の婚礼。
本来ならば、両国を上げての盛大な祝福を上げるべきなのだが、今回はメジカ王国側の要望を全面的に飲む形で、国の一部の要人だけで取り仕切る、小規模なもので行うことになった。
弱小貴族や国民たちには、追って書面による通知が行くことだろう。
なぜ、小規模に抑えての婚礼となってしまったのか。
理由は言うまでもなく、メジカ王国側がシャサール共村国の姿に後ろ足を踏んでしまったからである。
王城には約10万の人間が集まることのできる広場があり、国の重要な発表がある際は事前に全国民に告知し、王城内での儀礼が済んだあとは、そこで国民への顔見せと口上を行うのが常であった。しかし、この異様な姿を是とする国の者を――しかも、美麗なる王太子の嫁として向かい入れるなどと・・・言えるわけがない、というのがメジカ王国側のほぼ全ての人間の総意であった。
しかし、彼らとしてもシャサール共村国の者を嫁にしなくてはいけない理由があった。
それは、このメジカ王国・・・いや、プロメテシア大陸全土に大打撃をもたらした、暗死鳥という存在。そして空からやってきた暗死鳥が足に掴んでいた謎の種をプロメテシア大陸の各地に蒔かれてしまい、それらはこの一年間で大地に根付き、やがて凶悪な生物を次々と生み出していった。
あまりにも青天の霹靂と呼べる出来事。
たったの一年にして、このプロメテシア大陸の戦力図は一変し、メジカ王国を中心とした人間主体の大陸ではなく、人間と新たにやってきた魔物との二大勢力によるせめぎ合いというものへと化していた。
50万を誇る最大勢力を持つメジカ王国の軍事力も、所詮は数自慢であった。
いくら数を揃え、良い装備を揃えようと、軽く爪を薙ぐだけで数人が即死する力を持つ魔物たちを相手にしては、何の役にも立たなかった。攻城兵器なども素早い魔物たちにはかすりもせず、近隣諸国と手を組んで魔物討伐に精力を出していた半年前と比べて、人口はかなり激減してしまったのである。
今となっては大陸の北側は全て魔物の領土と化しており、その範囲はジワジワと日々拡がってきている。
この大陸から人間が駆逐されるのも、時間の問題と言えた。
そこでメジカ王国が藁にも縋る思いでつかんだのが、隣接する小さな大陸に住まうとされる戦闘民族国家であった。
今までは外交もない、完全な独立国家として認識されており、メジカ王国としても小さな陸地に交渉を持ち掛けるほど、物資や技術に困窮しているわけではないので、今まで関わり合いを持たず、ただ海を渡った吟遊詩人が歌にした内容を聞いて「へぇ、そんな国があるんだ」程度にしか思っていなかった国。
それが――シャサール共村国。
戦闘に特化したものと聞いていたため、乱暴かつ粗野な人間が多く占めると勝手に思っていたメジカ王国であったが、その民族性は実に穏やかなものであり、義に強く、互いに協力し生きていくことを良しとする善性のものであった。
謎の魔物の襲撃により、多くの死者を出し、幾つかの国も飲まれ、人の住む場所を削られていく中で、メジカ王国は純然たる「戦う力」を求め、このシャサール共村国へと協力を求める使者を送り出したのが一か月前のことだった。
メジカ国王は間違いなく、法外な要求をされるだろうと踏んでいたのだが、予想外にも四日程度で帰ってきた使者が言うには二つ返事で「いいよー」とのことだった。
困った時はお互い様だね、みたいな軽い口調で言われました・・・と使者が言った時は、誰もが理解するのに数分の時間を要したものだ。
ただし、一つ条件があり、それが今回の婚礼にもつながる話だったのだ。
何でもシャサール共村国の有力者であるカッチャトーレ村の筆頭戦士長。その娘に外の世界を見せてやりたい、とのことだった。慎ましいながらも好奇心が強い女性のようで、そんな娘の願望をかなえたい父の純粋な願いだそうだ。
戦士長は王国の近くの森にでも土地を与えてくれれば・・・みたいなことを言っていたのだが、それを聞いたメジカ国王は「何を馬鹿な!」と立ち上がり、もし本当に魔物への協力体制を組み、一緒に戦ってくれるのであれば、是非とも王城に向かい入れるべきだと声を上げた。それに対して、多くの者が賛同し、当のパトリック王太子も頷いた。
やがて、シャサール共村国の先遣隊がメジカ王国に来訪し、その圧倒的な身体能力と戦闘技術により、辺境の魔物を一掃したことで、国王はパトリック王太子との婚約に乗り出したのだ。その時・・・実は魔物の襲来が重なり、国王たちはシャサール共村国の先遣隊の風貌を確認していなかった。婚約の話が出た際も、実際に見てきた使者が「それは止めた方が・・・」と口に出したが、国王が激怒したために、その言葉は宙に消えてしまったのだ。パトリック王太子も国の将来のため、そして祖国を助けてくれた国に恩義を感じ、笑顔でその婚約を受けた。
メジカ王国は、魔物に対抗できる存在と密接な関係を持てる展望に喜び、彼らの姿を実際に見て戸惑い、戸惑いから立ち直る前に婚約の機は熟し、今に至るわけだ。
「・・・足元に気を付けて」
「あ、ありがとうございます」
レッドカーペットを進む男女。
パトリック王太子は、その長い髪が靴に絡まって転んでしまうんじゃないかと心配しての言葉だったが、ウェーナートルは単なる気遣いと受け取り、しかし嬉しそう? に身動ぎして感謝の言葉を口にした。
「パトリック様」
「・・・なんだい?」
「私、実は・・・外国の本を読んだことがありまして、そこに・・・今のような婚約のお話もあったのです。その・・・とても綺麗で憧れに感じてましたので、今、その場に自分がいるというのが、とても信じられなくて・・・。嬉しくて、その・・・上手く言葉に出来ませんけど、私はこの機会を与えてくれたパトリック様、メジカ王国の皆様に感謝しております」
「そ、そうか」
照れたようにたどたどしく語るその声はとても可愛らしいものだというのに、悲しいかな、パトリック王太子は無表情を維持しつつ、何とか返答するだけで精一杯だった。
そんな二人を祝福するかのように、赤い絨毯を境に拍手は鳴り続く。
左は愛好を崩し、純粋に喜色を拍手へと変換させ、二人に贈っている。
右は固まった笑顔のまま、固くぎこちない動きで、機械のように拍手を贈っている。そこに感情が籠っているかと言われれば、どこかに置き去りにし忘れてしまったとしか思えない。
光と影、太陽と北風――まるで両断された世界の狭間を進んでいく花婿と花嫁。
二人はやがて、祭壇の元へとたどり着き、司祭の祝福の言葉を頂く。
メジカ王国に伝わる聖歌が二人を祝福し、司祭は「それでは誓いの言葉を」と促す。
二人は向かい合い、まずパトリック王太子が一つ深呼吸をして口を開いた。
「ほひょんじつは――んんっ!」
いきなり噛んでしまい、慌ててパトリック王太子は咳払いをして誤魔化した。
それを見て、シャサール共村国側は「王子殿にも緊張というものがあるのですなぁ」と温かく見守り、どこか同じ人間として親近感を沸かせたかのように柔らかい笑顔を浮かべた。
メジカ王国側は、何かを察したかのように目を逸らし「殿下・・・」と堪えるように悲痛な言葉を漏らしていた。
緊張ではなく、油断するとすぐに無表情が壊れてしまい、本心をさらけ出してしまいそうが故に・・・口を開いて言葉を出すだけでも相当な精神力を要する。そんな大変失礼な裏事情を零すわけにもいかないので、パトリック王太子は全力で浮上する下向きな感情を押し殺し、言い直した。
「本日はこのような場に身を置くことができ、幸せに思っております。主上の神、邂逅の女神に大いなる感謝を。これからは、二人で力を合わせて、両国の繁栄と共存、そして明るい未来をその地に住まう全ての者たちに与えられるよう、邁進したく思います。私はウェーナートル=カサドルを妻として一生涯、愛し続けることをここに誓います」
「私も誓います」
そうして、パトリック王太子は妻としての証である指輪を。
ウェーナートルは、夫の証である腕輪を、互いに嵌め合う。
双方が指輪でないのは、両国の文化の違いである。
腕輪を嵌めたウェーナートルは小さく「御身に平穏と安寧を」と祈りを込めていた。
パトリック王太子の心に、にょきにょきと「今が既に平穏じゃないよ・・・」という言葉が芽を出してきたが、良心がそれを踏んづけて仕舞いこむ。
「では・・・誓いのキスを」
司祭の言葉に、パトリック王太子は体を強張らせる。
理由は明白。
目の前にいる髪に包まれた存在の何処にキスをすればいいのか、と。
彼の視線に気づいたウェーナートルは「あっ」と小さく声を漏らし、
「すみません・・・こちらでは、その・・・婚約の誓いに口づけを、するんでしたね」
と言って、流れるような所作で前髪を両手で掻き分けた。
徐々に左右に長い髪が分かれていき、その下に隠れていた素顔が僅かに見えて――パトリック王太子は息を飲んだ。
「えっ」
「えっ?」
まるで慌てて覗き込んでくるパトリック王太子に驚き、ウェーナートルは思わず手が髪から離れてしまい、再び両開きの扉が閉まるかのように彼女の素顔を隠してしまった。
「パ、パトリック様?」
「も、もっと・・・」
「は、はい」
「君の顔を・・・見せてくれないか」
無表情から一転。
まるで眩い宝石でも垣間見たかのような彼の表情にウェーナートルは戸惑いつつも、小さく、恥ずかしそうに「はい・・・」と頷いた。
そして、再び髪に手をかけたところで――、
「魔獣だぁーーーーっ! 王都の上空に暗死鳥が来たぞぉぉーーっ!」
と、教会の外から大声が響き渡る。
「なっ!?」
パトリック王太子は驚き、思考が追い付かない状態でただ瞠目した。
メジカ王国側も同様で、動揺で声を漏らすも、明確な指示が口から出てこない。ただ、ざわざわと教会内に喧噪をもたらすだけであった。
やがて、教会の扉が開き、大勢の鎧をまとった騎士たちが入ってくる。
「御前を前にしての無礼、失礼いたします! 緊急事態です! 暗死鳥の群れが王都上空に出現いたしました! 速やかに王城地下への避難をお願いいたしますっ!」
騎士の言葉に、さらに喧噪は強まる。
そんな中、冷静な集団が一つ。
「――お父様!」
「うむ。やれやれ・・・空気の読めん鳥頭共がやってきたようだな。神聖な儀式を・・・娘の晴れ舞台を見事に壊しおってからに」
「ほっほっほ、なに、晩餐の材料にでもしてやれば多少の留飲も下るというものよのぅ」
「おぅ、今日は鶏肉パーティーかぁ、そりゃいいなぁ。でもこないだあの黒い鳥を焼いてみたけど、不味かったぞ?」
「馬鹿者。こちらの国の方々は全てにおいて我々の技術を遥かに超えていらっしゃる。不味い肉も、美味に変えてしまうことなど、造作もないことだろうよ」
「マジか。よし、それじゃたくさん獲ってくるぜ!」
「お、勝負すっか?」
「おいおい、こないだボロ負けしたこと、もう忘れたのかよ」
「はっ、今日はお前のボロ負けの番だって教えてやるよ」
「面白ぇ」
そんなまるで緊張感のない言葉が教会内に響き、メジカ王国側は呆然とその姿を眺めることしかできなかった。
ウェーナートルはゆったりとパトリック王太子に向き直り、小さくお辞儀をする。
「それではパトリック様。貴方様に害成す敵を葬ってきますね」
「え、あ、ちょ・・・ま、待ってくれ! 君も避難しなくては駄目だ! 魔物はとても危険なんだ!」
「存じ上げております。ですが、狩りとは常に危険と隣り合わせのもの。食うか食われるかの世界において、互いに死に物狂いになるのは自然の摂理なのです」
「いや、狩りとかそういうレベルの話じゃなくてだなっ!」
食い下がろうとするパトリック王太子を遮るかのように、教会内に硝子が割れる音と悲鳴が響く。
「きゃぁぁぁぁぁぁっ!」
真っ先に叫んだのは、メジカ王国の女性貴族だった。
どうやらステンドグラスを突き破り、暗死鳥が一羽、入り込んできたようだ。
漆黒の鳥は1メートル近くの身体を持ち、威嚇するかのよう羽を広げていた。
赤く血走った眼は、下の獲物どもを見定めるようにしてギョロッと動き「ケェェェ!」とけたましく下品な鳴き声を上げた。
「おいおい・・・あれ、高かったんじゃねぇのか」
「ああ、あんな見事な硝子細工、見たことが無かったからな。多分、俺らの年収の数倍はかかるんじゃねぇか?」
「マジかよ・・・あの糞鳥、なんて酷い真似をしやがるんだ・・・。もう許せねえな、こいつはよぉ」
「いやいや、ステンドグラスの心配はいいので、今は避難を優先してください!」
呆然とステンドグラスの破壊された跡を見上げるシャサール共村国の男衆たち。彼らに対してパトリック王太子が悲鳴に近い声を上げるが、彼らは「なんで?」とった風に首を傾げるだけだった。
そんな隙を狙ったのか、頭上を旋回していた暗死鳥は突如、滑空を始め、大きな声を上げていたパトリック王太子へと向かって突貫してきた。
「う、うわぁっ!?」
回避する、という思考すら浮かばず、パトリック王太子はただ両腕を顔の前で交差させ、迫りくる恐怖に目を瞑った。
あの鋭い嘴で多くの民が犠牲になったことは知っている。
だから・・・死も覚悟した。
短い人生の中で、まだこの国のために何もなしえていない、という後悔と共に。
しかし衝撃はいつまで待っても来ることなく――パトリック王太子は眉をひそめて、ゆっくりと両腕を降ろし、その目を開いた。
そして固まった。
「この御方への手出しは私が許しません」
そう淡々と言葉を紡ぐ、長髪に身を纏わせた少女。
彼女の髪の隙間からスラッと伸びる健脚の下には、先ほど死を彷彿とさせた暗死鳥がいた。どうやら彼女の足に抑えつけられているようだ。暗死鳥はバタバタと翼を動かし、鋭い爪が光る脚を彼女にぶつけるが、彼女は何の意にも介していなかった。
いやいや、人を軽々と切り裂き、その獰猛な嘴で内臓を食い破る巨大な鳥が、こんなにアッサリと抑えつけられるはずがないだろう、とパトリック王太子は思ったが、言葉が出ることは無かった。
「さっすがお嬢。流れるような飛び蹴りからの抑えつけ。やっぱ格好いいですね」
「ありがとう」
「よっし、そんじゃ血抜きすっか」
「獲物あるか? 刃物の類は教会に入る前に全部預けちまっただろ?」
「あぁー、んじゃその辺でなんか使えるモン、作っちまうか」
日常会話のように話す男衆とウェーナートル。
彼らの頭は既に「どう討伐するか」ではなく「どう前処理をするか」であった。
「いやいや・・・え、いやいやいや・・・!」
語彙というものが崩壊してしまったパトリック王太子の言語機能は、今の事態をただそう表現することしかできなかった。
その言葉を聞いて、ウェーナートルはやや申し訳なさそうにする。全然表情が見えないので、何となくの雰囲気でしかないわけだが。
「ほら、みんな・・・パトリック様が困ってるわ」
「・・・」
おお、まだ婚約前に何度か話をしただけの関係だというのに、ウェーナートルは分かってくれたのか、と頷いた。
「こんなところで血抜きをしたら、掃除が大変だわ。ここは首絞めだけに留めないと。血抜きは獣が寄ってこない場所できちんとすること。あとナイフが無いからって、教会の物を勝手に代用しては駄目よ? パトリック様の御国の備品なのですから」
そんな言葉に、男衆たちは「なるほど、確かに」と頷いた。
「違う、そうじゃないっ! いや、それはそれで正しいんだけどっ! そうじゃないんだっ!」
思わず床を叩きたくなる衝動にかられたが、王太子としての教育を受けているパトリックは、反射的にそんな感情を抑え、ただ溢れて止まらない言葉だけが漏れ出した。
「はい、パトリック様。分かっております」
「ほ、本当か!?」
「きちんと、王都の空を舞っている鳥たちも狩ってきますので、パトリック様は安全な部屋でお休みくださいませ」
そう言って、ウェーナートルは優雅に前後が分かりにくい髪に包まれた身を翻し、シャサール共村国の男衆を引き攣れ、自信に満ちた足取りで教会の外へと去っていった。
パトリック王太子はもう、その後姿を見送ることしかできなかった。
そんな彼の肩に、メジカ国王が静かに手を置く。
「なんというか・・・色々と言いたいことはあるのに、言葉が出てこないな」
「ええ・・・」
「彼らは・・・逞しいのだな」
「ええ・・・」
「まあ、なんだ。・・・うむ、頑張れ」
「・・・・・・ええ」
微妙な親子の会話を皮切りに、メジカ王国の新しい歴史がここから始まっていくのであった。