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仏典の勝手な脚色ノベルシリーズ

てきとー訳 仏遺教経 ~ ブッダの遺言…涅槃で会おうぜ!!

作者: 阿僧祇

お釈迦さんの最後の説法といわれるものがお経の形で伝わっております。今回はこれをてきとー訳してみますた。意外と問題発言も飛び出したりしてますが……あくまで素人のお遊び翻訳なので、不正確な点や解説をてきとーに丸めてるあたりは許してくださいませ;



 後秦龜茲(クジャ)國三藏鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)奉詔譯 (漢訳)

 日本国そこらの素人阿僧祇戯訳 (てきとー訳)

 

 佛遺教經説 亦名 佛垂般涅槃略説教誡經

 

 釋迦牟尼佛初轉法輪度阿若憍陳如最後説法度須跋陀羅所應度者皆已度訖…


 ブッダの遺言についての伝えるべきものを説いておこう(仏遺教経説ぶつゆいきようぎょうせつ)。またの名を、ブッダがパンニッバーナ(般涅槃)のときにダイジェストで教えさとしててくれたことの伝えるべきこと。(仏垂般涅槃略説教誡経)


 シャカムニ=ブッダ(釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ)は、初転法輪しょてんぽうりん(最初の説法)でアーニャ=コンダンニャ(阿若あにゃ憍陳如きょうれんにょ)に悟りを開かせてから、最後の説法でスパッダ(須跋陀羅しゅばっだら)を救うまで、ついに、救える者は全員救い終わってしまい、娑羅双樹しゃらそうじゅ(サーラ、ツバキの一種?)の根元でニッヴァーナ(涅槃ねはん、輪廻転生をせず消え行くこと)に入る、つまり入滅にゅうめつしようとしていた。


 すでに夜もふけ、人々が集まってはいたが誰も声を出さず静寂だった。

 だがブッダは彼ら弟子のために、ダルマのダイジェスト(法要ほうよう)を語りはじめる。



 ……ヴィジュアル的には「釈迦涅槃図」を思い浮かべてください。

 そんな横になったままのブッダが、バレンタインデーこと2月14日の夜(当時は日没で日付が変わったので記録では2月15日)、クシナーラの村の片隅で最後の説法を始めまます。静聴、静聴~。


挿絵(By みてみん)

(神奈川県横浜市緑区長津田町 福泉寺)


「さて、比丘(出家修行者)のみなさん……。きみたちは、私が居なくなっても波羅提木叉はらだいもくしゃ(戒律、修行のルール)を敬い、尊重してください。

「これは暗闇の中で出会った明かり、貧しい人がみつけた財宝みたいなもので、君たちの大切な大先生になるからね。もし私がいつまでもこの世にいたとしても、これに反することは特に言わないヨ。」


「ってわけで、戒律の精神を再確認しとこうかな。」


「金銭のやりとりや商売。家や農地の所有。人を雇ったり奴隷や家畜の所有。投資したり財宝を増やしたりすること。これらは、燃えあがる炎で満たされた落とし穴みたいに危ないものだから、けして近づかないようにネ。」


「それから、木を斬り草を刈り、土を耕し穴を掘ること。薬を調合し、吉凶を占うこと。星の動きを観察したり、距離を測ったり、暦を数えたり、計算したりすること。これらもやっちゃだめだ。」


「自分自身をコントロールし、たまに何か食べて、心身ともに清浄になるよう自活するンだ。」


「それから、政治や世間の世話事に関わったり。呪術したり、仙薬を作ったり。身分の高い人に自分から近づいて親しくしたり。これらもみんなやっちゃだめだヨ。」


「心を正しく持ち、救いだけを求めて、それ以外のよくないものを貯めこんだり人々を惑わしたりしちゃだめなんだ。」


「四供養(衣服えぶく飲食おんじき臥具がぐ湯薬とうやく、という比丘がもらってもいいもの)についても、自分に必要な分量を知ってそれで充分とし、それ以上なんて求めちゃだめだヨ。」



 仏教の出家者には250項目近い厳しい戒律がありました。しかし社会が発達してくるとすべて守ることは困難となりまして……昼飯の時間制限を緩和するかしないかの意見対立から最初の部派(宗派)分裂が生まれたという説もあるくらいでして。

 現在では仏教の戒律もこの時代とはけっこう変わりました。特に日本では「形式より心がけが大切」という考え方から極端に緩和され、現代では外国の仏教徒が聞くとぶったまげるレベルにまで緩和されてます。

 しかしここに出てるもののうちにも、現代日本では実行困難な項目がありますしね。


 まあそれはともかく、ブッダのお話を続けましょう。



「いま戒律の要点だけ説明したけど、戒律は解脱げだつ(苦しみがなくなること)の素、それで波羅提木叉って名づけたンだ。

「禅定の効果も、苦痛を減らす智慧も、みんなこの戒律から生まれるんだヨ。

「だから比丘の皆さん。浄戒じょうかいを保って、ルールを犯さないようにしてね。

「よく戒律を保ってる人は善い真理ダルマを得られるし、戒律を無視しちゃう人は功徳なんか積んだって何も得られないってことを、忘れなさんナ。この世界で、戒律こそがもっとも安穏な功徳のある場所なんだヨ。」


「比丘のみなさん。戒律を守るコツは、五根(眼・耳・鼻・舌・身という五種類の感覚)をよくコントロールして、五欲(色(見)・声(聴)・香(嗅)・味・触という五種類の快楽)に耽らないようにすることだ。ちょうど、農夫が杖で牛をコントロールして、他人の農園や家に乱入したりすることのないよう(そして荷物運びや農耕仕事をして役に立ってもらえるよう)するのと同じように。」


「もし五根をコントロールせず五欲に身を任せると、自分が崖から湖に落ちるのを止めないようなものだし、暴れ馬にくつわをつけずに人々を側溝に蹴り落としてても放置しとくようなものものだからネ。」

「その悪影響はきみの一生だけじゃ終わらない。五根の罪による悪影響はとっても重くて、累世におよび、取り返しがつかなくなるンだ。」



 輪廻転生して何度生まれ変わってもついてまわるとか、または子孫にまで影響が残るという意味でしょう。(震)



「だから智者は感覚を欲しいままにはせず、五欲を凶悪な犯罪者と同じようによく見張ってコントロールするんだ。仮に欲しい儘に欲望に従ったとしても、満足感がいつまでも続くわけもなく、すぐにまた不満になっちゃうんだから。」


「五根は、心に操られてる。だからきみたちは心をコントロールしなさい。

「心ってのは恐いものでね、毒蛇っていうか、ケダモノっていうか、人殺しの盗賊っていうか、大火事っていうか、そんなふうに恐いんだ。いや、こんな喩えじゃまだ生ぬるい。

「人が容器いっぱいの蜂蜜に大喜びしてそれだけを見て騒いでれば深い落とし穴を見落としてそこに落ちるみたいなものというか。鉤で操る人のいない狂ったゾウというか。木々を勝手に飛び回るサルというか。

「そんなようにコントロールの難しいものだから、けしてほっとくことなく、早くコントロールする必要がある。」


「心をほっとけば善を失うけど、コントロールすれば悪に行かずに済むヨ。

「だからね、比丘のみなさん。欲望に自分が従わないよう、自分に心を従わせるよういつも努力してください。」


「比丘のみなさんは、食べ物・飲み物をもらったらすべて薬だと思って、好き嫌いで増やしたり減らしたりなんてさせないように。

「自分が飢えと渇きを除けるだけのものをいただいて、ちょうど、蜂が花から蜜を採っても色や香りを損なうことのないような心がけでいなヨ。比丘も蜂のように、自分の悩み(飢えや渇き)を解決できる量だけを人から供養していただくんだ。欲をかいて相手の善意を損なったりしないように。


「頭のいい人は牛の力を見極めて、無理をさせないよう、力を出し尽くして倒れちゃうことのないように(いつくしみながら)働いてもらうけれど、自分自身の欲望をコントロールするってのはそれとも似たようなことかもネ。


「比丘のみなさん、日中は心をこめて善法(よい教えor正しい真理)を学び、時間を浪費すること無いように。宵の口や夜更けもサボッてちゃダメよ。夜遅くなったら読経して、それから休みんさい。

「睡眠の因縁に操られて一生をむなしく過ごしてしまうことのないようにネ。

「無常(永遠の存在は無いということ)の火が世界をいつも焼きつづけているということを常に念じて、早く自分で自分を救うようにし、その前に寝てしまわないようにネ。」


「煩悩という名前の悪賊はいつも隙を狙ってて人を殺す、それは君が仇敵の家にいるよりも危険なことなンだ。ウッカリ眠っちゃって奇襲されたりしないよう気をつけてネ。」


「煩悩の毒蛇は君たちの心の中で眠ってる。逆に言えば、毒サソリのうようよしてる部屋で君が眠るようなもンだ。だから『戒律』という鉄鉤てつかぎでいっこくも早くこいつらを追い払うんだ。心の中で眠っていた毒蛇を追い出してから安眠するんだヨ。」


「蛇を追い払ってないのに眠るのは無慚むざん(無反省)な人だナ。

「『慚恥ざんち(恥を知り失敗を反省する)』という衣服は、いろいろな飾りの中でもっとも美しい。慚(反省の意識)は鉄の鉤のように、人の脱線行為をコントロールする。だから比丘のみなさん、常に慚恥して、わずかの間でも『慚』を忘れちゃダメだヨ。

「慚恥から離れたら、いろいろと功徳を積んでたってみんな無くなっちゃう。恥を知る人には善の法則が働くけど、恥を知らない人はそこらのケダモノと同じだからネ。」


「比丘のみなさん、もし他人がいろいろと嫌なこと言ってきたとしても、心を落ち着かせて、怒ったり恨んだりしないようにネ。また、口を護って(余計な発言はしないで)、悪口や罵言なんか言うことないように。

「もしも自分の中に涌いた悪意や敵意に従ってしまえば、それは自分を磨く道を妨げて、せっかく積んできた功徳も失う。忍耐の徳は持戒や苦行にも勝る場合もあるヨ。よく忍耐する人は、まさに力のある立派な人というべきだ。」


「もしも忍耐を甘いジュースのように喜ぶことができず、悪口雑言を放つことを楽しむなら、その人はもう入道智慧の(智慧を求めて修行に入門した)人じゃないヨ。

「なぜなら、瞋恚しんに(怒り)の害悪はいろいろな善の法則を破り、せっかくの名声や評判もぶち壊してしまって、現在の人も後世の人も好意なんか持ってはくれないンだ。」


「よ~く理解して。瞋心(怒りの心)は大火事の炎よりも激しくて恐いヨ、常に身心を護って、(瞋心を心に)入らせないようにしなさい。怒りという賊はなによりも功徳をぶち壊しにしちゃうから。

「出家してない一般の、普通に欲があって特に修行もしてない人だって、怒りを抑えて自分をコントロールしようという努力くらいはするもンだ。

「出家して修行して欲をなくしてるはずの人が、怒りを燃えあがらせるなんてヘンな話だろ? 例えれば、冷たい雲の中でひょうや氷が高熱で燃え出すように、本来はありえない変なことだ。」


「比丘のみなさん、自分の頭を手で撫でてみて。…ほら、すでに鮮やかなお洒落は捨ててボロい衣を纏い、鉢ひとつだけを持ち物として、そこに入れてもらう施し物だけで生きている。そんな自分の姿がよくわかるでしょ?

「もしプライドだの自慢だのが起きたらすぐ今すみやかにそれをぶっ潰しなさい。驕慢きょうまんの増長は、世俗の人だっていいこととは言わないんだ、ましてや解脱のために身を捨てて乞食こつじき(施しを受けて食べること)する出家の人なら、言うまでもない。」


「比丘のみなさん、曲がった心やへつらいの心は、修行の道とは違うよ。だからその心はまっすぐにしてね。曲がった心や諂いの心はそのうちに嘘と狂気で満たされちゃうってことをよく認識しなさいネ。

「入道の人となった以上はこんなことにはならないはずだ。だからみなさんはまっすぐな心で素直に生きなさいナ。」


「比丘のみなさん、よく憶えておいてください……欲の多い人は多くを求めることで苦悩も多くなるってことを。

「欲の少ない人はたいして求めないからそういう心配が無いってことを。

「少欲の人であっても、少欲はいろいろな善い功徳を生むし、曲がった心で他人に何かを要求するようなことはないと、よく学んで実行すべきだヨ。

「また少欲を実行してる人は、五感が快楽を求めることに影響されにくく、心がいつも落ち着いていて、憂えたり恐れたりすることがあんまり無い。何か問題が起きても余裕があって、何かが足りなくて困るということがない。そして少欲の人はニッバーナ(涅槃ねはん)を得られるンだ。

「これが少欲だヨ。」


「比丘のみなさん、もしいろいろな苦悩を打ち消したいなら、『知足ちそく(あるもので満足する)』ということを心に思い描きなさいナ。知足という教えは富楽・安穏の境地だから。

「知足のある人はそこらの地面に寝転がってたって安楽と感じるし、知足のない人は天界の神様の宮殿だってまだ不満に感じる。

「知足の無い人はどれだけ財産があってもまだ貧しいと感じるし、知足のある人は貧窮してたって充分に豊かだと感じてしまう。

「知足のない人は五欲(見聴嗅味触)に操られてて、知足のある人から『可哀相に』と憐憫れんびんされてしまってる。

「これが知足だヨ。」


「比丘のみなさん。寂静じょうじゃくで平穏な安楽の境地を求めるなら、いそいでしがらみを離れ一人で静かに暮らしなさいナ。一人で静かに暮らしてる人には、帝釈天やそのほかの神々も敬意を払ってくれるんだよ。だから人付き合いの楽しさなんか捨てて、ただっ広い世界の片隅に一人で静かに暮らして、苦悩を滅ぼすという目的を第一に考えなさいネ。

「多くの人々の中にいる人はどうしたって人間関係で苦しむことになる。大木だってたくさんの鳥が集まれば枝が折れることがあるのと似てる。世間の苦しみの多くが人間関係のしがらみに原因があるンだ。年老いたゾウが泥沼にはまって脱け出せなくなってしまうようなものだョ。

「これが遠離おんりだヨ。」


「だからみなさん、いつも精進につとめてね。少しずつの水でもずっと流れ続けていれば、そのうち大きな石に穴を開けることもできるンだ。

「逆に修行者の心がときどきでもサボってると、…たとえば、木を擦って火を起こそうとしてるときまだ熱くなってないのに手を止めて息を吹きかけ(冷やし)てしまえば、いくら火がほしくてもいつまで経っても火がつかない、それと似ている。

「これが精進しょうじんだヨ。」


「比丘のみなさん、善知識(いい先生)や善護助(いいお助け人)を求めるなら、不忘念ふもうねん(常に念じて忘れないこと)よりいい先生/いい助け人はないヨ。不忘念の人の心には煩悩という賊が入れないンだ。

「だからみなさん、いつも念を胸におさめ(て心をコントロールす)るんだ。念を忘れたらいろいな功徳もとたんに消えちゃう。

「逆に、強く念じてるなら五欲の賊が入ろうとしてきても跳ね返せる。たとえば、戦場に出なきゃならなくても頑丈な鎧を着てれば攻撃を跳ね返せるように。

「これが不忘念だヨ。」


「比丘のみなさん、心をコントロールできてる人は日常生活もじょう(瞑想の状態)と同じように心が落ち着いているヨ。定と同じだから、宇宙の、生じたり滅びたりという法則も感情を交えずありのままで受け入れられる。だからみなさんはいつも精進して、いろいろな定のやり方を学びなさいナ。

「定をしっかりやってる人は心の暴走することが無い。たとえれば、水の必要な農家がいつも水路と堤防をしっかり管理して、水漏れ(洪水や渇水の意?)の起こらないようにしてるようなものだ。

「修行者も同じで、智慧という水のためによく禅定(瞑想)して、心に水漏れなんか起こらないようにしなさいナ。

「これがじょうだヨ。」


「比丘のみなさん、もし智慧があれば貪りや執着心は起きない。いつも自分を客観的に見つめて、我を忘れるなんてことはないように。これが、私の教えてきた解脱を得る方法だヨ。

「これができないと道の人じゃないし、といって世俗の人でもないなら、もう何て呼べばいいかもわからない名無しの人になっちゃう。

「本当に智慧のある人は、生老病死しょうろうびょうし四苦しく、生きてれば必ずある四種類の苦しみ)の海を渡る堅牢な船のようなものだヨ。

「また智慧は、無明むみょう(智慧の無い状態、迷い)の暗闇を照らす大きなライトで、全ての病や苦しみを癒す特効薬で、煩悩の藪を切り払うよ~っく切れる斧だ。」

「だからみなさん。考え、聞き、学んだ智慧で自らを高めなさい。もし智慧の明かりがあれば、たとえふつうの肉眼でもそれはもう智慧の眼を持つ人だからネ。

「これが智慧だヨ。」


「比丘のみなさん、戯論けろん(不必要な理屈をひねくり回すこと)は心に乱れを起こすヨ。余計なこと考えてたら、出家してもいつまでも解脱を得られない。だから急いで心の乱れる戯論を捨てなさい。もし、苦しみが全てなくなり楽しいだけの境地を得たいなら、戯論とその悪影響はさっさと滅ぼすことだヨ。

「これが不戯論ふけろん(論じるまでも無いこと、揺ぎない真実)だヨ。」


「比丘のみなさん、いろいろと功徳を得るためにも、いろいろな欲しい儘な状態を捨てる心がけを、恐ろしい殺人者から逃げるのと同じようにしなさいナ。

「慈悲をもって私が説いた教えの利益りやくはすでにみなさんに伝えてある。あとはただ、みなさんがこれを実行するよう努力すればいいだけなんだヨ。」


「山の中、枯れ谷、樹木の下、一人住まいの小屋、静かな部屋、どこででも、いつもあなたが教わった『ダルマ(ほう、真理とか教えとか修行法とかの意味)』を念じて忘れないように……いつも自分から努力してこれを学び、そして実行するんだヨ。

「やれることをやらずに虚しく死んだら後悔しか得られないからネ。

「私の教えは、医者が処方した薬みたいなものだ。それを飲むか飲まないかはあなた自身の責任で、医者にはそれ以上は何もできないんだヨ。

「また、道を知ってる人が教えた安全な近道みたいなものでもある。教えてもらった人がその道へは行かず道に迷っても、道を教えた人には助けようがないんだヨ。


「みなさん、もし『』とかの『四諦したい(苦⇒集⇒滅⇒道という四段階の悟り)』について疑問のある人がいたら、早く質問なさいナ。疑問を解決しないでほっとくなんてことはよくないからネ」


 世尊せそん(ブッダの尊称)は三回、そう言った。けれど、質問する人はいなかった。なぜなら、みんなもう理解できてて誰~れも疑問には思わなかったから。


 そのとき高弟の一人、“天眼通(千里眼)の”アヌルッダ(阿⬛楼駄(あぬろうだ)、または阿那律あなりつ)が、一同の空気を読んでブッダに言った。


挿絵(By みてみん)

(千葉県銚子市犬吠埼 満願寺)


アヌルッダ「世尊! もしも月がボーボーアッチッチになったり太陽がカチンコチンでヒャーッこくなったりがあっても、ブッダの説いた四諦にゃ何の異論も生じまへんヨ!」


アヌルッダ「ブッダの説いた苦諦くたい(生きてれば苦しい、という悟り)は、本当に苦悩です。生きることが楽なんてけしてありえまへんわ。

集諦じったい(苦悩の原因は執着による欲があること、という悟り)はまさに苦悩の原因を説明していて、他に原因なんかありゃしまへん。

「苦しいという結果を消滅させるためには原因を消滅させることが必要で、原因が消滅すれば結果も消滅します。つまり滅諦めったいも間違いない。

「そして道諦どうたい、苦痛を消滅させる方法は真の『道』で、他にいい方法なんて、あ~ナイナイ、そんなもん。」


アヌルッダ「世尊。ここにいる比丘たちはこの四諦を熟知してて、疑問なんかありまへんです。万一、実はわかってないヤツがいたとしても、そいつはブッダ先生が入滅するのを見たらとっても悲しんでけつかるから、すぐバレます。

「今日はじめて教えを聞いた人も、今いただいた説明からすでに救いを得たでしょう。彼らにとっては『暗闇の中にいたけれど、イナヅマの光がきらめいて道が見えた』という心持ちのはず。あとは見えた道の方へ歩けばいい。

「このように、どうすればいいかをみんなすでにわかってるのですから、人生という苦しい海を渡るため、ただこのことを念じるだけでいいんです。

「世尊! どうぞ安心して、ここは一発とっとと滅度ニッヴァーナしてんか!? さあ、さあ、今すぐ!」



 おっと脚色しすぎではありません、ここは正確な翻訳なのです。原文で本当に「滅度一何疾哉いっぱつとっととニッヴァーナしてんか!?」と煽ってはりました、アヌルッダ先輩てば。(涙)



 さて、アヌルッダのこの説明的な長いセリフと、その実践例としての煽り(?)を聴いたことで、一同は四聖諦ししょうたい(四諦を丁寧に言った言葉)の意義を再確認できた。

 しかし世尊は慈悲の心から……いやひょっとすると『関西弁で煽られたからには一応ボケとかなあかん』という芸人精神もあったのかもしれないが(汗)、とにかく彼らの心がいっそう堅固になるようにと、もう少し話しをした。


「比丘のみなさん。憂いや悩みをいだいちゃダメよ?

「私がもし一劫(約48兆2千億年?)ほどこの世にいたとしても、いつかは消滅するんだから。出会ったものは別れ、形あるものは壊れる……出会って永遠に別れないものなんて何も無いんだからね。」


「自分を救い他の人を助ける方法はもうきみたちに伝えた。もし私がもっと長生きしたとしてもこれ以外に教えることはないし。いま救われるべき人は天上界も人間世界もみんなすでに救い終わって、まだ救われる時期ではない人たちにも将来に救われることになる因縁(原因と結果の関係、ここでは「きっかけ」くらいの意味)は作った。

「これからも弟子のみなさんがそれぞれ教えたことを実行するなら、タターギャタ(如来、そのように来てそのように去る者、ブッダの呼び方のひとつ)の法身(世界と一体化して宇宙そのものとなった状態)が、常に存在し続けて消滅しないのと同じだ。」


「ってわけで、もうわかってると思うけど、この世はなにもかも無常(永遠ではない)です。出会ったものは必ず別れるし、形あるものはいつか壊れる。世界ってのはすべてそんなもんサ。

「だから精進努力して早く解脱するよう求め、解脱したきみたちの智慧の光で世の中の痴暗ちあんをどんどん消滅させてください。」


「世界とは実にもろいもので、頑丈なものなんか何も無い。私がいま消滅するのは悪い病気がなくなるのと同じ。身体ってものは早く捨てたかった罪悪の塊なんだ。仮に身体という名前で存在しただけで、生老病死という大海原の片隅で沈んだり浮いたりしてただけのものなんだ。

「智者が命を終わらせるのは仇敵の殺人鬼をぶっ殺すようなもの、むしろ嬉しくないわけがあるだろうか?」


「比丘のみなさん、常に道を求めることを心がけてね。世の中の、一見、永遠と見えるようなものがあったとしても、実はみんな破れ壊れる不安定な正体をもってるんだからサ。」


「さて……きみたちもしばらく休みなさいナ、お話はもう終わりにしよう。

「そろそろタイムリミット、私はもう涅槃に入るヨ。

「いじょ、これが私の最後の教えさとしなのでした☆」



 ブッダの遺言についての伝えるべきもの(仏遺教経)、えんいー(¥e、おしまい)。。。

 

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